後百済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 16:20 UTC 版)
後百済 | |||||
後百濟 후백제 | |||||
| |||||
915年頃の後百済の版図(南側の黄褐色) | |||||
首都 | 全州 | ||||
言語 | 朝鮮語 | ||||
宗教 | 仏教 儒教 道教 巫俗 | ||||
政府 | 君主制 | ||||
国王 | |||||
• | 892年 - 935年 | 甄萱 (初代) | |||
• | 935年 - 936年 | 甄神剣 (最後) | |||
歴史 | |||||
• | 建国 | 892年 | |||
• | 滅亡 | 936年 | |||
現在 | 韓国 |
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 朝鮮の旧石器時代 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 BC | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
古朝鮮 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 | 沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 | 百済 | 高句麗 | |||||||
新羅 | ||||||||||
南北国 | 唐熊津都督府・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 | 安東都護府 668-756 | 渤海 698 -926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 | 後 百済 892 -936 | 後高句麗 901 -918 | 遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 | 高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治時代の朝鮮 1910-1945 | |||||||||
現代 | 朝鮮人民共和国 1945 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
アメリカ占領区 | ソビエト占領区 | |||||||||
北朝鮮人民委員会 | ||||||||||
大韓民国 1948- | 朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal:朝鮮 |
後百済(ごくだら/こうひゃくさい/フベクチェ、892年 - 936年)は、後三国時代、挙兵した甄萱(キョン・フォン)が、新羅によって滅ぼされた百済の復興を唱えて建国した国。
歴史
甄萱は、尚州の豪農出身で、西南海で軍功をたてて頭角をあらわし、新羅により将軍に抜擢された。しかし、甄萱は、将軍の位に不満を持ち、根拠地の西南海で勢力を蓄え、挙兵を準備した。
892年、農民一揆に乗じて挙兵し、武珍州(全羅南道光州)、更に完山州(全羅北道全州)を占領し、当初、「新羅西面都統治指揮兵馬制置、持節都督全武公等州軍事、行全州刺史兼御使中丞、上柱国、漢南郡開国公」と称した。
900年、王となり、国号を百済と定めた。
920年、甄萱は、新羅西部の大耶城(テヤソン)を攻略し、更に高麗南端の進礼城に進軍し、高麗との戦端を開いた。当初、勢力は互角であり、922年、後百済は、日本に参戦を要請したが拒絶された。後唐にも朝貢したが、名ばかりの官職しか得られず、実質的な援助はなかった。
926年10月、後百済は、金城を占領し、新羅の景哀王を自殺させた。高麗王王建(ワン・ゴン)は、新羅の救援に赴いたが大敗した。同年12月、甄萱は休戦を申し入れ、927年3月、王建はこれを受諾したが、同年5月には再び戦闘が再開された。929年、後百済は、慶尚北道で快進撃を収め、再び日本に援助を要請したが、再び拒絶された。
930年、高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済は大敗した。
934年、甄萱は、再び休戦を要請したが、王建はこれを受け入れず、後百済軍に対して攻撃を続行した。
935年、甄萱の長男の神剣(シンゴム)は、次男の良剣(ヤンゴム)と三男の龍剣(ヨンゴム)と共謀して父の甄萱を幽閉し、後継者の予定だった四男の金剛(クムガン)を殺害した。
同年6月、初代後百済王だった甄萱は、娘を連れて高麗に投降した。王建は甄萱に「尚父」の称号を奉り、父親に準ずる敬意を表わして優遇した。
936年6月、甄萱は、自ら息子の神剣を討伐することを王建に請い、王建は甄萱とともに後百済を滅ぼした。甄萱はまもなく死去し、良剣と龍剣は晋州に流され、その後殺害された。同時に、王建は、甄萱の娘婿の朴英規(パク・ヨンギュ)に爵位を与え、甄氏の懐柔に努めた。
関連項目
後百済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 06:13 UTC 版)
甄萱 - 国王:900年-935年、上王:935年-936年 (935年、王位継承問題で長男の甄神剣(けん しんけん、キョン・シンゴム)によって金山寺に流されたが脱出、王建に投降して尚父(しょうほ、サンボ)(「父として尊ぶ」の意)の称号と食邑として楊州を与えられた。
※この「後百済」の解説は、「太上王」の解説の一部です。
「後百済」を含む「太上王」の記事については、「太上王」の概要を参照ください。
- 後百済のページへのリンク