超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

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「ビブリオセラピー」というのはこのように効くのではないかと思う。

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「ビブリオセラピー」というのはこのように効くのではないかと思う。

ブログ仲間の不来方さん(id:kozukatasanchi)が最近、「ビブリオセラピー」という方法を頑張ろうとしてるらしい。


kozukatasanchi.hatenablog.com


そもそも僕は「ビブリオセラピー」というのが初見であり、どのようなものなのだろう? とググってみたところ、次のようなサイトが得られた。


bibliotherapy.jp


精神療法の一種として、読書を通じて心を癒すことができるぞーというセラピーであるらしい。まだ、論文数で言えばそこまで言及数が多くなってないような感じではあるけど、民間団体ではあるけど読書療法の研究をしてる団体があるらしい。


不来方さんところのブログを読んで、そういやそうだなーと思うんだけど、人が読書をするときは、みんな何か思惑があって本を読む。たとえば、本を読んでSNSで自慢することを目的にしてる人もいるだろうし、本を読んで何かしらの新しい知識を身につけたい。小説を読むことで意識を異世界に飛ばしてしまい、ファンタジーの世界に浸ることが目的、など。


これはそれぞれの目的でその人なりの理由があるのであり、それらの価値というのは優劣はないもんだと思う。承認欲求で本を読むのが劣っており、自己啓発本なんて何冊読もうが成長しない! という言説は僕がよくやりがちであるけど、別に読書というのは本質的に自由なもんであるし、読書の目的はなんであれ個人の自由の範疇に入るような事柄なんだよね。


だけど、そういう「読書は自由」であるから、何をしていいのか分からないというのはあるよねーと思う。僕自身も読書は趣味であり、暇がある時はいろんな本を読んだりする感じであるけど、そこで何かしら人に教えることができるほどの「読書論」というのは有していないように思う。


読書の考え方や、読書に求めるものというのは人それぞれである。なんとなく、読書というのは高尚なものであるというイメージがつきがちであるけど、ショーペンハウアーの「読書について」では、何も考えずに多読ばかりをありがたがる人間は知的退廃をしてるとまで断言してしまう。


kagiroi.com


ショーペンハウアーの言説をまとめるのなら、読書というのは他人にものを考えてもらうことであり、自分の頭で自律的に考えずに他人の考えばかりをありがたがってる人というのは、何も考えていないのと同じ、という感じだろうか。


これは外山滋比古氏がその著作の「思考の整理学」にて、グライダー型人間と飛行機型人間という表現で書いていたことだけど、ことさらに他人の知識ばかりをありがたがり、他人の知識の上にしか立脚できない人間は遠くまで飛ぶことができないということを書いていたと思う。



特にこれはAI時代には顕著であり、どれだけ博識で百科事典並にものを記憶してる人でも、インターネットや生成AIが存在している現代では、インターネットでちょっと質問するだけですぐさま同じ知識を得ることができる。そういう知識の価値というのは暴落してるのである。


知識の価値というのが大したことないと言われている現代で、なんで読書をする必要があるんだろうか? 新しい知識というのは、インターネットやSNSで次々と新しいネットミームと共に膨大な量が生み出されており、そんな知識の数が膨大すぎる現代において、わざわざ前時代的な情報取得方法の「読書」という方法にこだわる理由はなんなのかと考えた。


現代人の情報摂取のやり方で、特に陥りがちな罠だと思うのだが、インターネットで情報を探そうと思うと、自分が知ってる情報しか見つけることができないのである。これは「フィルターバブル」と呼ばれる現象であるが、Googleの検索窓に質問をするのでも、SNSのアルゴリズムで情報を引き寄せるのでも、自分の好ましい情報しか自分の周りには集まってこないのだ。


読書というのは、そのような自分の好きな情報ばかりを集める行為ではない。自分が「いいな」と感じる情報を見つけるまでに、全く必要のない無駄な情報や知識というのをたくさん目にする。(だから疲れる)しかし、その無駄な情報の中に、自分が食わず嫌いしていた新しい発見を見つけることがあるのだ。


「思考の整理学」では「セレンディピティ」という用語で説明されているが、何も目的を持たずに大型書店をぶらぶらしていたり、テキトーに目についた書籍をザッピング読みをしていると、その中で自分が持っていた既存の知識と結びつく新たな発見をすることがあるのである。


これは僕の解釈なのだけど、情報時代の現代において「読書というのは無駄を楽しむこと」だと思うんだよね。何かしらの成果を求めて性急に成果を求めるんであれば、インターネットを使えばすぐに目的の情報は見つかる。だけど、自分が知らない情報を知るためには、読書で無駄な知識の群の中から自分のアンテナに引っかかる言葉を探すしかない。しかし、こういう無駄がないと人間の視野というのは広がらないんだよね。インターネットで同じような知識ばかりが集まる「フィルターバブル」の中では、自分がデッドロックしてしまってる状態を解放してくれるような情報は見つからない。だからこそ新たな発見を求めて知らない書籍を読書するのがいいんだと思う。


僕は、読書というのはそのようなものであると思う。なので、読書療法というのは、自分の今までの視野にはなかった新たな発見をすることで「エウレカ!」と発想が広がることを目的にしてるんじゃないかと思うんだよね。僕なりの読書療法の解釈だけど、お役立てください。

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