「森の芸術祭 晴れの国・岡山」、レポ最終回です。津山エリアの残り1カ所「城東むかし町家」を何とか観て、更に東隣のエリア「奈義町現代美術館」閉館17時までに滑り込み入館を目指します。きつい😂 しかし狙った作家はとりあえず見て回れたのでよしとします。よしよし
- ◆城東むかし町家(旧梶村邸)/ タレク・アトゥイ、片桐功敦、八木夕菜
- ◆奈義町現代美術館 / 磯崎新、森山未來、太田三郎、AKI INOMATA、坂本龍一+高谷史郎
- ◇美術館常設展(宮脇愛子、荒川修作+マドリン・ギンズ、岡崎和郎)
津山市のポテンシャル高いんですよ?(困り顔) 一か所一か所が重たい。楽しいんやけど時間が(ない
津山エリア残り「城東むかし町家」いくですよ。前回書いた通り「PORT ART & DESIGN TSUYAMA」はタイムアップで飛ばします。トぶぜ。なんしか17時までに何とか隣の奈義エリアまで車を飛ばさなければならない。車で片道30分かかります。死)岡山は大きい。その事実を噛み締めた旅でした。完。
◆城東むかし町家(旧梶村邸)/ タレク・アトゥイ、片桐功敦、八木夕菜
本当は周囲の「城東町並み」を散策したかったんだが、時間がない、これは悔しい。古本屋があったらどうするのか。
忙しいは心を亡くすと書きますよね。心をなくすな!忙しいのは心を亡くすことではない! えらい経営者がすぐそうやって精神論を。説教するよね。理不尽さに憤った民は自ら心を投げ捨て、このように忙しさへと投身し
心をですね。心を取り戻すための作品がここにはある。心とは。連綿たる記憶の紡がれた糸のよりあわせであろう。それは時間と場所を辿るなら、日本に住む我々であれば「和」の原風景ということになるだろう。片桐功敦《風土》はそこを突いてくる。あったことすら忘れていた「心」へと引き戻されるのだ。それは。
郷愁を超えて、何か必然的なものを覚えるのは何故だろうか。ありきたりな記号的・広告的ノルタルジーではなく、あってしかるべき地点へと立脚する場所へ。綿花、栗・蓑、そして黄金の小麦、どれも町家の宿す影の中にあっては、「日本」という場所へと立ち返らされる。そうして「心」が生じる。
この小麦の山は、今年6月に収穫された津山市産のものである。
生き生きしている。風にそよぐ麦畑のように現前している。
私の視界にオーバーラップしたのは黒いフレコンバックの山だ。「KYOTOGRAPHIE 2021」、二条城の二の丸御殿・台所の入口に高く積まれたフレコンバック_東日本大震災、福島第一原子力発電所事故以降、復興福島および東北の至る所に積み上げられた処分土のフレコンバックが新たな「日本の風景」となって久しい。その物理的な記憶、強烈な場所性がもう一つの「日本」的記憶を伴ってやってくる。片桐功敦はいけばなの上品な作法を用いながら、狂猛な歴史性をも生きたまま扱う。手名付けて懐柔させはしない。それらは生きている。
場所と時期を違えても作品は「作者」を通じてある歴史性、記憶の一貫した部分を語る。そのネットワークがこちらにも及んで二次形成、三次形成されるとき、「心」というものが生まれるだろう。
屋敷に上がりますよ。おじゃまします。お部屋がお古風かつお広いですね、真冬はめちゃくちゃ寒そう。
和室で拡大おばあちゃん家だと郷愁に浸っていたら、田舎のニューロン的な、実家系ニューラルネットワークが広がっており、サイバー祖父母です。楽器と呼ぶには即物的で家財道具、骨董品そのものだが、気付くと何処かが動き出して音が鳴る。タレク・アトゥイ《うちなる庭》、故郷レバノンのアラブ音楽文化を踏まえながら、行く先々の作曲家や工芸作家との共同作業によって複雑な楽器を制作するという。これらは全体で一つの楽器システムで、電子制御されているようだ。
装置全てがハイピッチで高速で散逸的で動物的であるいは神経症的に鳴っていたらアトラクション・ライヴ的に超面白かったと思うが、そこはこれ、ここは何でしたっけ? そうです「和」。
この会場の世界観は入口~土間の片桐功敦、ここ、離れの茶室の八木夕菜と一貫して揃っていて、和の寂寞さとか「間」が町家の空間とともに調和し雰囲気を放っているのだから、抑制的な、主体の主張のない「音」となるのは必然だった。音の出所を探し回る鑑賞者たち。それでいて異国情緒もある。配備された器や皿は日本というより大陸的である。
だが大きな和室、古びた畳を渡りながら、どこで鳴っているか目に明確に見えない「音」を探るのは(しかもそれは何かが擦れ合ったり、回転したり刻むような、機械と生き物の間のような音とも言える)、花鳥風月を近未来化し物性化したような趣があった。テクノ自然これにあり。シャリシャリシャリ。ムイームイームー。
離れの茶室は八木夕菜《茶徳(Tea Virtue)》、全5点が茶室の静けさに寄り添って佇んでいる。
「作品」というべきなのか悩ましい。茶室そのものの領域を侵すものではなく、個別に作品として自立したものでもない。茶室に本来あるべき、「茶(室)」の構成要素のようにして佇んでいる。
「芸術祭」とか「作品」とあえて言われなければ「そういう趣向の茶室」として自然に受け止めることもできたかもしれないか。そういう建築空間と創作物との領域の境界を、これらの作品は静かに鎮めていて、自然にあるものとしての主張を行っている。逆説的な自己主張というのか、個としての表現・創作物であることを茶室の「和」へと境界無化することで示している。
ただそれでも写真をやってる人間にはサイアノタイプのブルーによって「あ、これは”写真”だ」と気付かされるのだが、それも些細な話で、元々、八木夕菜の作品は自分語りをせず、元からそこにあったかのように「在る」を表すものだから「自然」なのだ。それに写真の中でも特に撮影者の行為主体性、眼や手を感じさせないのがサイアノタイプであり、まさに像が太陽光によって自然と現出する、自然現象に近い写真である。
「KYOTOGRAPHIE 2021」での展示「種覚ゆ」も、建仁寺両足院の和の空間で、和―自然物の作品を展開していた。
じゃあお前「和」が何なのか定義を説明せよ、と迫られると非常に困るのだが、抑制、翳、没主体性、花鳥風月との調和、非テクノロジー(非近代)、仏教観あるいは神道的な非一神教の世界、などである。それらは西欧近代の機械の眼として現れた「写真」と相反する。だがここでは写真的技法=光による像の複製技術であるサイアノタイプが和紙に焼き込まれて「和」の一端を成している。
静かにそれらは自然の風物、木々や空や土と合一する。
これで「和」の空間でしたねと締め括るのはあれだが、和がこんもり盛りつけられていて、よかったです。全然ちゃんとゆっくりできてないので、次に来たらゆっくり和をしましょう。
鑑賞終了時には16:15。全ての展示終了が17時。奈義エリアに駆け込むのに高速で30分。むちゃくちゃです。むちゃや。何とかしました。何とかなったと言えるのか。
◆奈義町現代美術館 / 磯崎新、森山未來、太田三郎、AKI INOMATA、坂本龍一+高谷史郎
地方の温情と言ったらあれだが、16時半が最終入場と書いてありつつ、ギリギリまでどうぞどうぞと入れてくれたので、命拾いをしました。泣いた。
しかも最後、17時過ぎてるのに、なんかちょっと目をつぶってくれてた。わああ。ありえへん。京阪神や東京の美術館なら早く出て行けとうるさく言われるところ、粘って会場撮影しても生暖かく放置してくれてた。まじすか。感謝しかない。わああ(泣く
ただ時間が無いのは無いので、美術館を見るのと引き換えに「屋内ゲートボール場『すぱーく奈義』」のレアンドロ・エルリッヒは諦めた。これは残念です。金沢21世紀美術館のプール作品や、森美術館で床と建物の壁がミックスされた錯視空間を作り出した作家。ちくしょう見れんかった。
美術館の展示構成は、森の芸術祭と常設展とで半々ぐらいのボリュームがあり、どちらも残り20分あるかないかでちゃんと観るにはボリュームが多すぎ、どえらいことになってしまった。ここまで来て勿体ない、、また今度来ましょう(いつ?
磯崎新の特集「Architecture ∪ Art」は完全に特別企画展の様相だった。規模としては本芸術祭でも随一か。洞窟を目一杯使った蜷川実花、アンリ・サラは、使用した空間としては大きかったが、展示物のバリエーションと体系としては1つの作品だったのに対し、ここでは通常の美術館展示が行われている。
そういえば2022年12月に逝去していたのだった。そのうえ、本会場「奈義町現代美術館」の設計者でもある(1994年開館)。構成は大きく二つの部屋で、最初の部屋は この館を含めた磯崎新の主要な業績:特にアートと建築との関係、独自の身体性を有した建築をパネルで紹介する。二つ目の部屋はよりアートに踏み込んだプロジェクト、建物の建築・設計の域を超えたものを紹介する。常設展示になっていてもおかしくない一角だ。
1つめの部屋の中央には、ボクシングのグローブみたいなものが置かれている。なにこれ。
移動式コンサートホール「アーク・ノヴァ」ですって。2011年3月・東日本大震災を受けて、文化による被災地支援を目的としたプロジェクトとしてアニッシュ・カプーアがデザインで共作した。被災地を巡回するイベントに使えるよう、折り畳んで運搬し、送風によって2時間で立ち(建ち)上げられる構造となっている。活動履歴としては2013~2015年に東北の3ヶ所を巡回し、2017年に東京ミッドタウンで展示。
これ観てないし知らなかった。2017年当時は私、まだカプーア×磯崎新の重みを知らなかったのだ。
他に紹介されていたのは、ここ・奈義町現代美術館と、福岡相互銀行の本店(1971)と大分支店(1967)だ。時間がなくて全く理解に落とし込めていないままだが、解説で触れられていたのは、福岡相互銀行大分支店は「空間は人間の身体的な知覚を通じて形成されるという考えに基づき、赤や青など鮮やかな色彩を壁面や家具に配し、空間の質を変化させる試み」、本店は「内部に一貫したシステムが存在せず、各空間が独自に装飾されており、SF的な未来感を持った場がシンメトリーとアシンメトリーとをバランスを持ちながら集積されている」という。概念で言葉を並べても想像がつかない。
「News Picks」内で野口哲「アートと建築とおかね」特集にて、福岡相互銀行の建築・内装について触れられている。参考に、、、ならないぐらいアバンギャルドというか斬新ですごい。なんだこの銀行は(困惑
2部屋目への接続部は巨大な鳥籠があり、鏡越しに天使が構えていて、部屋自体はどちらも整然とした資料の提示なのだが、ここには神秘と謎とが満ちている。元は1976年のクーパー・ヒューイット国立デザイン博物館「MAN transFORMS」展で、同館所蔵の鳥籠を元に構想された作品だが、2019年に大分市美術館「磯崎新の謎」展で再制作された。それを持ってきたのだろうか。
《エンジェル・ケージ》、天使はダヴィンチの「受胎告知」を参照している。実は天使は半身しかなく、鏡面がぴったり断面を埋めているので倍増して一人の身体を成している。また、立ち位置によっては鏡が更に倍増させ天使は対となり2人となる。こうして向かい合った完結したビジョン/空間となって、倍以上の奥行きと広がりへ拡張されるのだが、鏡の中の世界だから触れることはできないし、完璧なビジュアルを得られる角度の立ち位置は限られている。それに当然だが奥行きは見た目だけで私達は鏡面以降へと入り込むことはできない。しかし目の前には円を描く鳥籠と2人の天使がいる。
建築・設計とは、この見えざる、今まだそこにはない空間を到来させる行為であり、特に磯崎新の思考は切断的な、非線形の次元を合わせて複合させ共存させていくものであることを象徴しているのでは、と思った。
もっと見惚れていたかった(時間が、)。
エントランスから正面の受付隣にあるラウンジ的な、机と椅子と喫茶カウンターのあるスペースに写真とグラスが並ぶ。AKI INOMATA《昨日の空を思い出す》。どれも空に浮かぶ雲がモチーフになっている。
自然と人工の合作、共働を扱う作家で、特に代表作《やどかりに「やど」をわたしてみる》(2009~)で知られている。3Dプリンターで人為的に作った透明な「やど」をヤドカリに提供し、宿として使ってもらうプロジェクトだ。
本作もやはり3Dプリンター技術が寄与していて、昨日見た空模様をグラスの水の中に再現したもので、なんと「飲める」らしい。雲を作るための液体3Dプリンターはオリジナル開発だとか。
一般人はこれを見て「綺麗ですね」「詩的ですね」で済むのだが、作者の思考はもっと先/奥にあり、「コロナ禍において窓から空を眺めた際に、常に変化し同じ様相を示すことのない空模様に惹かれ、『昨日と同じ今日は来ない』と感じたことをきっかけに構想」とある。常に移り変わりゆく「今日」の象徴として雲が彫刻的に作られるのだが、それが「今日(の雲)」の再現であって、記録ではないところが興味深い。また、複製先が水中・液体と、物質レベルで相を移している(気体→液体)のも面白い。
これは空の写真を日々撮る行為とは性質が全く異なる。スティーグリッツ「Equivalent」シリーズと比較しようとして、比較にならなさすぎてやめた。「空」「雲」というのは本来それだけを単体で取り出せない。漫画の記号のように(=本作のように)理想的な一個・単数形の「雲」が現れる機会は、実際には限定的である。毎日そのようにするには意図的なフレーミング、トリミングが必要・・・すなわち「詩」のようなものになる。比較すればするほどスティーグリッツの「ありのまま」なモダン・フォトの空は形として捉え難く多彩で、本作の「雲」とは根本的に異なる次元にあることが分かる。
となると作者の作出した「自然」とは何処を指し、扱うものだろうか? 作者の主観的時間として見えて体験された「今日」、その中でも特に「今日」として綴られた言葉=すなわち詩、を代置可能な外側の世界として「雲(空)」が切り取られ、作出されたということか。であれば本作は《やどかりに「やど」をわたしてみる》と逆の手順で作られているとも言えそうだ。
その隣では大きくて派手な海、波のうねりの映像が流れ続けていて、尺八みたいな笛の音が響いている。白い波はゆっくりと動いていて精巧な日本画のように見える。坂本龍一+高谷史郎《TIME-dēluge》。手前の踊り跳ねるような線は常設作品の宮脇愛子《うつろひ》だ。
水・波の物凄い量が氾濫しているのだが、それ自体は無音で、スローモーションで、そして高精度に描画されているため、逆に現実感がなく、物理から遠いものに感じられる。映像は水面に反射して2倍の面積を持ち、存在感を増す。夕方で暗くなってきていたのが功を奏していた。
森山未來《さんぶたろう祭り》(アーカイブ)は一体何か? パフォーマンス映像と関連展示だった。
芸術祭開幕の9/28に奈義町シンボルロードにて祭りを催し、森山未來が企画、振付などを担当、トリとして「さんぶたろう踊り」で〆たものだ。
「さんぶたろう祭り」は、「アート de ミート Nagi 2024」(500名限定の、有名シェフの料理を楽しめるグルメイベント)と「奈義町農林業祭」(なぎビーフ和牛串の1000本無料配布や餅配りなど)のコラボイベントとなっていて、音楽や踊り、歌舞伎が合わさっていたようだ。楽しそうですねいいなあ。
映像を見ている時間がない。恐ろしいことに16:50とかでもう閉館が迫っていて火垂るの光ゲームオーバーが近い。ダンジョン内で全滅しそうになり焦りながら宝箱を漁っているのと全く同じ心境である。きつい。
そこへ行くまでの通路には太田三郎《Book Jacket》(2010-2023)。
これは「森の芸術祭 × 津山圏域定住自立圏図書館 特別連携企画」、津山圏の図書館が連動する「本を旅する・切手の栞」企画での展示作品で、「森の芸術祭」側のパンフや案内には載っていない。今回こういう他の地域独自企画との連動系がえらい多い。現地に行って体当たりでとりあえず記録するしかない。たいへんや。
それでわれらが太田三郎先生ですから、切手なわけです。やったね。切手を駆使する現代美術家。そしたら板に切手が大量に貼ってあった。うん、
板というのは支持体であって、「文庫本型ノートの表紙に使用済切手や封筒を貼った作品」だった。現代美術は解説がないと本当に詰みます。
様々な世界の切手、日本の切手が入り乱れ、色んなところから切り取られてきた使用済み切手が貼られている。法則性や組み合わせの意味があるかどうかは謎。制作期間が2010年から2023年と相当長いので、一点ずつ、その時々の作者の滞在場所や書簡のやりとりを実際にしていたものなど何かあるかもしれないし、本当にただ直感的に絵柄のコラージュとして貼り付けたのかもしれないし、謎です。
なお、サンドラ・シント《未来のための宇宙論》は時間切れな上に、展示場所を見つけることすらできかなかったので、レポありまへん。うへえ。
なぜなら常設展示が凄すぎて残り時間を全てそっちに費やしたからだ。これは今まで観てきた様々な館の中でも別格だった。
◇美術館常設展(宮脇愛子、荒川修作+マドリン・ギンズ、岡崎和郎)
一般的な美術館は企画展のためのハコ+収蔵作品の出し入れアーカイブといった機能を持つが、この美術館は3つの大規模な常設展示作品のためにあると言ってもよい。作品の一部として美術館空間が作られていて、他の部屋が付随している。順序が逆なのだ。作品と一連託生という、真に土着の美術館と言えよう。
館は南北に伸びていて、南側は企画展用、今回の磯崎新展示のあったスペースなどだ。対して、北側が常設作品の空間になっており、「大地」「月」「太陽」の3エリアに展示室が配置されている。恒久的大規模インスタレーションで、空間が作品である。
「大地の部屋」には先に紹介した宮脇愛子《うつろひ》がうねる。
水を張ったエリアと玉砂利のエリアに跨って展開され、コントラストと位相が見事だ。この石の上は歩いて作品の中にまで入ることができる。空間を自由に歩き回って作品を360度体験できる。そして外光が大きく取り込まれている通り、時間と天候と季節によって見え方が全部変わる。贅沢すぎる。時間に余裕のあるときに来るべきです。だめだ、再来せねばなるまい。いつだ。
「月」と「太陽」への分岐となる通路は展示室で、「月」の岡崎和郎、「太陽」の荒川修作+マドリン・ギンズ、「大地」宮脇愛子らのデッサンや構想などが展示されている。時間がなく全く内容は見れていない。はい。
「太陽の部屋」:荒川修作+マドリン・ギンズ《偏在の場・奈義の龍安寺・心》は「養老天命反転地」と同じ遺伝子を持った建築物で、写真だらけの地下室みたいな1F部分があり、部屋の中央から上に伸びるシリンダー型の螺旋階段、そして2Fは高く開けた天井、いや天地が両方にあり、よく見るとそれは円筒状に引き伸ばされた京都の龍安寺なのだ。
1階部分はそれまでの美術館としての顔をやめ、急に私的な、タイムカプセルめいたスナップ写真で埋め尽くされている。経年劣化で色が変わっているものも多い。既に暗い。滝の写真だけ大きいがこれは何だ。全部を見きれていないので理解が追い付いていない。公募で集められた不特定多数の家族・プライベート写真か。
上には狭い螺旋階段がほぼ垂直に続くが、水平がずれていて奇妙な感じがしている。荒川修作にはよくあることだ。水平・水直を旨とする管理・制度化された「時間」に対して、身体の底から覆すような仕組みを仕掛けてくる。荒川の代名詞的名言「死なない」とは、芸術家の作品・作家性の不滅なることを謳っているだけではない。おそらく通常人に貫かれている管理下時間=公的に有限な死の区切りをインプットされた時間、を、芸術によって書き換えるなり抗うなりして完全に否定しようというのだ。まだ真意は理解できていない。
ともかくシリンダーを抜けろという。はい。
すると更に巨大な円筒状の空間に出る。思考が停止する。意味が分からないのだ。床からして円筒なので平行感覚がややおかしいし、この円筒状の建築がどういう形をしているかをまだ気づいていない。外は明るいが中は暗く、カメラには真っ黒にしか見えていない。
そこに枯山水があると気付くのはしばらく経って、平静を得るまで待つ必要がある。
明暗差の激しさゆえに、写真でしっかり撮るためには露光を狙い澄ます必要がある。何かに気を取られていると何かを見失う。この360度に取り巻いた筒状の空間を五感で把握するにはもっと時間が必要で、撮影などの作業を全て停止させるべきだろう。時間が足りない。
京都の龍安寺の石庭が宙や頭上やらに巻いている。「空間が巻く」という体験はほとんどしたことがないため体が戸惑っており、興奮状態にある。「対の凝視」(ゲイズ・ブレイス)、二重化されたものどもが陰と陽の対となってそこにある。ただ風景が丸められているだけではなく、東西方向には巻きがかかり、南北方向には引き伸ばされているように感じる。時間が引き伸ばされて、そのために空間が伸びている――ブラックホールの逆の現象。「現在」の定位置が見失われ、すなわち過去と未来の区別と距離感は喪失する。ここは・・・何処だ?
平時の時間感覚、一方通行に「死」へ向かって機械的に時間を刻むことから、心身は恐るべきところへと投げ出される。そこには方向性はなく、時間の矢がなく、静寂が速度ゼロのままに広がっている。絶対無というものを物理的に3次元空間にて実体化させた場所。
ここが「無」か。龍安寺では観光客として興奮していて、砂に描かれた波紋を撮影することに熱心すぎて、無というものに気付かなかった。また行くべきなのか。写真は全ての事物を超短期的に有意義にしすぎてしまうらしい。
とんでもないところへ全く予期せず放り込まれてしまったため、僅か10分足らずのことでショックが甚大である。異世界に心を置いてきてしまったように螺旋階段を下りる。まだ時間がある。やるんや。
最後の「月の部屋」は「太陽の部屋」と反対側にあり、岡崎和郎《HISASHI-補遺するもの》があるという。
「休息のためにHISASHIとベンチが与えられたとせよ。」何のこっちゃら全く意味が分からぬが、荒川修作+マドリン・ギンズで完全に理性を撃ち抜かれているので、願うことは「この恐るべき興奮状態に冷や水を掛けないでくれ、無(限)を終わらせないでくれ」のみ。さあ何がきますか。
階段を上がるとすんなりと2Fの展示室に辿り着き、予想外にたいへんすっきりとした、簡素な部屋に拍子抜けした。これが「月」?
だが数歩歩いて分かった。
足音が世界の全てであるかのように大きく響き渡った。
カァン カアン カアン。
バァン バァン バアアン。
物凄い音がする。
床に集音マイクを仕込んで、アンプで増幅放射しているかのように、ありえない大きさで足音が響き渡る。目には見えず写真には何も残らないが、一歩一歩が空間を揺らし、体感としてはその度に見えない槌で空気を叩いたように揺さぶられるものがある。
無人の大きな館の中で、よく乾いた竹を全力で打ち鳴らしているような破裂音が響く。一歩一歩がまるで楽器だ。
ただのスニーカーで歩いているだけで、何がどうなって「音」が炸裂するのか全く分からない。見た目には何も起きていないのに、知覚としては衝撃波に絶えず叩かれているようなことが起きている。
どれだけの音が鳴っても、目の前の光景には何の変化もなく、静かでシンプルな部屋があるだけだ。ギャップが大きすぎて理解が追い付かない。
部屋の場所によって音は反響が長くなって、最初に発せられた部分と跳ね返ってきた部分との間にゼロコンマの隙間が出来て、空間がズレて感じられる。ここでは物理的に見えている空間と、聴覚・触覚も経て統合して実際に体得される空間とが違っている。月は本来、空気がなく無音のはずだが、ここでは音が他の全てを圧するが如く満ちている。反転された月なのだ。
こうして「太陽の部屋」と「月の部屋」を僅か10分ほどで終え、短時間に異世界を叩きこまれすぎて、感情が意味不明なことになった。
たいがいの非日常、展示、見世物は経験してきて、だいたいはパターンで理解できるようになってきたが、そうした既知の身体性を覆されることになった。よかった。最後にこの会場のこの展示に辿り着いて、よかった。
打楽器を寝かせたような、あるいは酒樽を横倒しにしてるような建物、これが「太陽の部屋」荒川修作+マドリン・ギンズの恐るべき「死なないための」空間だったのだ。初めて知った。死ねない。これは死ねない。
( >_<) また忘れた頃に来よう、打算なく、記憶も完全に失ったころに、予期せぬ形でここに辿り着いて、また心底吃驚したい・・・。
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こうして「森の芸術祭 晴れの国・岡山」鑑賞は終了しました。
面白かったですね。やばい。津山をはじめとする岡山県の中国山地あたりに来ることがない、というのを逆手にとった、よい企画でした。できれば会期中にレポを上げた買った。ぐふ。
( ´ - ` )完。