改暦に挑んだ秀才の執念――和算家・渋川春海(1639~1715)

執筆者:鳴海風 2025年1月3日
タグ: 日本
春海が参照した、明の時代に出版された世界地図『坤輿萬國全圖』(東北大学附属図書館狩野文庫蔵 Matteo Ricci/Wikimedia Commons)

 鎖国下の江戸時代、日本独自の数学文化「和算」が華ひらく。天才和算家・関孝和のベルヌーイ数発見のような、世界にさきがけた業績がなぜ生み出されたのか。『江戸の天才数学者:世界を驚かせた和算家たち』(鳴海風著/新潮選書)から一部を抜粋・再編集して江戸流イノベーションの謎に迫る。

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渋川春海の誕生

 渋川春海は、寛永16年(1639)閏11月3日、初代安井算哲(さんてつ)の長男として、京都四条室町松原の屋敷で生まれた。幼名は六蔵という。父が50歳のときの子だった。

 安井家の先祖は清和源氏の畠山氏に発し、満安が河内国渋川郡を領したことから渋川姓を名乗り、その孫の光重が播磨国安井郷を領してからは安井を名乗っていた。

 春海という名は、『伊勢物語』にある、「雁鳴きて 菊の花咲く 秋はあれど 春の海べに すみよしの浜」という歌からとったものだという。

 春海は幼い頃から利発で向学心が旺盛だった。特に神道に関しては、江戸に定住する以前から、生涯を通じてその姿勢は変わらなかった。京都の山崎闇斎(あんさい)について垂加神道を、また陰陽頭・土御門泰福(つちみかど・やすとみ)について土御門神道を、他に中納言・正親町公通(おおぎまち・きんみち)、伊勢の神主・荒木田経晃(つねてる)、さらに忌部(いんべ)、卜部(うらべ)、吉川からも学んで神道の奥義を究めようとした。

 このことは、当時神道を志していた水戸光圀、保科正之の知遇を得、のちに改暦に際して強力な支援を得るきっかけになった。

 春海は、天文暦学についても、若いころに、京都の隠者・松田順承(じゅんしょう)から宣明暦(せんみょうれき)を、同じく京都の医師・岡野井玄貞(げんてい)から授時暦(じゅじれき)を学んでいる。京都は和算発祥の地だが、天文暦学もここから発展した。春海は、江戸で暮らすようになってからも、松田と共著を刊行している。また、江戸で数学塾を開いていた池田昌意(まさおき)からも、春海は暦理論を学んでいたとされるが、これは疑わしいようである。

太陰太陽暦とは

 安井家は、本因坊家、林家、井上家に並ぶ碁所と呼ばれた碁師の家で、渋川晴海もまた碁打ちであったが、ここでは天文暦学者としての春海の人生を振り返っていく。

 しかしその前に、なぜ和算家をテーマにした本書が天文暦学者である春海を扱うのか、説明しておかなくてはならない。結論からいえば、天体観測にも、また観測結果と理論に基づく暦の計算にも、高度な数学の知識が必要不可欠であり、当時、一流の天文暦学者とみなされた人物は、すべて一流の和算家だったからだ。

 暦法とは、いくつかの方程式の組み合わせである。春海の時代の暦法は、貞観4年(862)に唐から輸入した宣明暦というもので、京都朝廷の陰陽寮の管轄の下、およそ八百年もの間ずっと使い続けていたのである。そして、八百年ぶりの改暦を成し遂げた春海は、そういう意味では、超一流の和算家であった。

改暦の失敗

 春海の天文暦学の特徴は、実地天文学にあったといえる。新たに理論を確立するのではなく、中国から伝わってきた理論を、実際に天体観測をすることによって確かめ、誤りがあれば正していく方法である。

 万治二年(1659)、21歳のとき、春海は山陰、山陽、四国を訪れて、各地の緯度測定を行ったとされている。当時の緯度は、北極星の地平線からの高度で、北極出地之度数あるいは単純に北極出地と呼んでいた。

 また春海は、表を立てて日影を測り、冬至となる日時つまり冬至点を求めたという。表というのは別名圭表(けいひょう、西洋ではノーモン)のことで、太陽が南中(子午線を通過)したときの日影の長さを測る道具である。春海は、銅製で高さ8寸の、小型の圭表を用いた。

 太陰太陽暦では、太陽年を冬至点から冬至点までの時間で決めていた。その冬至点を決定するためには、冬至点前後いくつかの日影の長さを圭表で測定し、計算により求める。これは祖沖之(そちゅうし)の方法と呼ばれていた。

 さらに春海は、渾天儀(こんてんぎ)や天球儀、地球儀も製作した。春海の作った渾天儀は日光東照宮に、天球儀、地球儀は国立科学博物館や伊勢神宮徴古館(ちょうこかん)に残っている。

 太陰太陽暦では、たとえば天文常数である太陽年を何日にするかで、暦法の精度は決まってしまう。唐の徐昴(じょこう)が作った宣明暦では、太陽年は365.2446日だった。正確な太陽年との差は、プラス0.0024日である。この宣明暦が、およそ八百年間使われていたため、その差はほぼプラス2日(つまり2日の遅れ)になっていたのである。

 春海は、圭表による観測結果から宣明暦が2日遅れていることや、元の郭守敬(かくしゅけい)が作った授時暦では、太陽年が365.2425日で、ずっと正確であることを確かめていた。

 寛文13年(1673)6月、春海は満を持して改暦の上表をした。『欽請改暦表(謹んで改暦を請うの表)』を朝廷に献上したのである。前年の12月18日に、改暦に関心の高かった保科正之が亡くなっていたが、正之は時の老中に「春海に改暦をやらせること」と遺言していたから、これは幕府の公式提案でもあった。

 内容は、唐から輸入した宣明暦が実際の天体現象に対して2日遅れていることを示した上で、その後3年分の日月食を、宣明暦、元の授時暦、明の大統暦(だいとうれき)で計算して比較した『蝕考』を添えてあった。

 大統暦は明の時代(1368─1644)の暦法である。学問的には大統暦は授時暦から消長法(天文常数が時とともに変化するとして暦計算に入れる方法)を省略しただけで計算結果はほぼ同じだった。ここで春海が大統暦を持ち出したのは、明の支配を受けていた朝鮮からの通信使が大統暦を使用していたからだろう。互いの暦日が相違していれば、外交においては当然不都合なことが多い。

 いずれにせよ春海は、あえて三つの暦法を並べ、授時暦が優れていることを示そうとした。何度も何度も精度を確かめた授時暦が採用されることに、春海は絶対の自信があったのである。

 ところが、延宝3年(1675)5月の二分半の日食は、宣明暦は予測できたのに、授時暦や大統暦では予測できなかったのである。春海にはその原因が分からなかった。幕府の最高権力者、大老酒井忠清にまで「春海のいうことも合うこともあれば合わないこともあるな」といわれる始末だった。

「里差」に着眼

 自信をもって臨んだ改暦の上表の失敗に、春海は少なからぬ衝撃を受けたはずだ。しかし、既に碁師としての限界を感じていた春海には、改暦を成し遂げる以外に自らの生きる道は考えられなかった。

 延宝5年(1677)には、神武天皇以来の二千年をこえる暦本『日本長暦』の草案を作成した。毎月朔日の干支、月の大小、閏月の有無などを計算して整理したのである。また、以前にも増して、天体観測に力を入れた。麻布の自宅で、冬至点だけでなく、春分点、秋分点も測定した。そして、実際の観測結果と授時暦が、近日点(地球が太陽に最も接近する点)と冬至点では6度ずれていることも認識した。いずれも膨大な手間を要する執念の仕事であった。

 さらに、中国ではなく日本で観測される星図『天文分野之図』を完成させた。この図は、春海にある着眼を与えた。授時暦は元の首都大都(現在の北京の位置)を基準にして作られたものである。授時暦をそのまま使えば、日本との「里差」(経度差)は時間差となって現れる。地球儀を作ったことのある春海は、この当然のことに気が付いた。

 こうなると、延宝3年の日食についても、授時暦が予測できなかったのではなく、中国では観測できない日食だったに違いないと春海は思った。春海は、元の授時暦が京都での時刻に合うように、先ず「里差」を調整しなければならないと考えた。

 春海が参照したのは、明の時代に出版された『坤輿萬國全圖(こんよばんこくぜんず)』という世界地図だった。明の首都北京は京師(けいし)と記されており、ここが、授時暦の作られた元の時代の首都大都だった。一方、日本列島には京都らしき名称は見当たらないが、春海はおよその位置を見定めて、経度差を約20度と決定した。

 こうして、「里差」を考慮し、すべての計算をやり直し、8年の歳月をかけて完成させた日本のための暦法・大和暦で、2度目の改暦の上表をする。天和3年(1683)11月4日、冬至の日のことであった。

 興味深いことに、この年、春海は陰陽頭に就任したばかりの土御門泰福から、土御門神道の奥秘を受けている。おそらく、改暦の機会を窺っていた春海は、戦略的な思惑を持って陰陽頭である泰福に近づいていたのだろう。

 そんな春海の思いが通じたのか、改暦の上表をした同じ月の16日、今度は宣明暦が間違いを犯す。頒暦(はんれき)に記載された三分半の月食が起こらなかったのである。春海の大和暦は不食としていたので、自信をもった。

 改暦の機は熟した。もともと翌天和4年(1684)は甲子革令(かっしかくれい)にあたり、古来改元されることが多い年である(実際2月21日、天和から貞享に改元された)。つまり改暦をするには絶好のタイミングなのであった。

 春海は『請革暦表』を朝廷に献上した。その中では、「今天文に精(くわ)しきは則(すなわ)ち陰陽頭安倍泰福、千古に踰(こ)ゆ」と記し、安倍泰福(土御門泰福のこと)をしっかり持ち上げている。

日本人初の太陰太陽暦

 その後、紆余曲折があったものの、10月29日、ついに大和暦の採用が決まった。大和暦は貞享暦と命名され、翌年から施行されることになった。これが貞享の改暦である。中国では古来「観象授時(かんしょうじゅじ)」といって、臣民に暦を与えることは皇帝の権威を示すものだった。春海の成し遂げた改暦は、日本の権力の在処が朝廷から幕府に移ったことを象徴するものでもあった。

 12月朔日、春海は幕府の初代天文方(てんもんかた)に任命された。御用達町人のような碁師から、徳川家の家臣、武士の身分になったのである。

 以後、毎年のカレンダーの計算は天文方の仕事となり、陰陽寮は暦注(天象、七曜、干支、朔望など)を施して権威付けをするだけの役割になった。頒暦をおこなう暦師を認可する権限も幕府のものとなった。地方で発行される暦の間で、月の大小や日の曜日が異なるといった問題も解消された。幕府による頒暦の統制ができたことになる。

 この一大事件は、当時の流行作家二人の浄瑠璃作品の題材にも早速取り上げられた。井原西鶴の『暦』と、近松門左衛門の『賢女手習并新暦(けんじょのてならいならびにしんごよみ)』である。暦が庶民の生活と密接な関係があった証拠であろう。

 春海は、碁師として名人という頂点をきわめることはできなかったが、日本人が作った太陰太陽暦による最初の改暦という、歴史に残る快挙を成し遂げたのである。

  1. ◎鳴海風(なるみ・ふう)

1953年、新潟県生まれ。東北大学大学院機械工学専攻修了(工学修士)後、株式会社デンソーに勤務。愛知工業大学大学院で博士(経営情報科学)、名古屋商科大学大学院でMBAを取得。1992年『円周率を計算した男』で第16回歴史文学賞。2006年日本数学会出版賞。『円周率の謎を追う 江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』(くもん出版)が第63回青少年読書感想文全国コンクール中学校の部課題図書。主な著書に『算聖伝 関孝和の生涯』(新人物往来社)、『江戸の天才数学者』(新潮選書)、『美しき魔方陣』(小学館)などがある。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
鳴海風(なるみふう) 1953年、新潟県生まれ。東北大学大学院機械工学専攻修了(工学修士)後、株式会社デンソーに勤務。愛知工業大学大学院で博士(経営情報科学)、名古屋商科大学大学院でMBAを取得。1992年『円周率を計算した男』で第16回歴史文学賞。2006年日本数学会出版賞。『円周率の謎を追う 江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』(くもん出版)が第63回青少年読書感想文全国コンクール中学校の部課題図書。主な著書に『算聖伝 関孝和の生涯』(新人物往来社)、『江戸の天才数学者』(新潮選書)、『美しき魔方陣』(小学館)などがある。
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