2016年07月28日
市野川容孝『社会』―ルソーの『社会契約論』はやっぱり全体主義につながっていく
社会 (思考のフロンティア) 市野川 容孝 岩波書店 2006-10-26 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ルソーは、『人間不平等起源論』(以下、『不平等論』)で社会の不自由・不平等を暴き、『社会契約論』で自由・平等な社会を提起した。ルソーはまず、自然的または身体的不平等、すなわち、自然によって定められるものであって、年齢、健康や体力の差と、精神あるいは魂の質の差から成り立っている不平等が存在すると指摘する。また、身分制という制度が不自然、人為的に生み出された不平等の装置であると告発する(「市民」を表す"civil"という単語の語源は身分制を前提としていることは、以前の記事「『非立憲政治を終わらせるために―2016選挙の争点(『世界』2016年7月号)』―日本がロシアと同盟を結ぶという可能性、他」で少し触れた)。
その不平等を克服し、敢えて平等を創り出そうというのがルソーの「社会契約」である。『不平等論』では、人民は政治を付託した者に自ら追従するという服従契約の要素があったが、『社会契約論』ではこの点が修正された。服従契約においては、支配者と服従者が契約前に既に決まっていることが前提となっている。これに対して『社会契約論』では、契約の以前にも契約の外にも契約の相手はいないという論法で、人民を服従契約の枠組みから解放した。これを私なりに解釈すれば、一方を権利者、もう一方を義務者と区別せず、あらゆる人民が統治者であると同時に被統治者でもあるという両面性を有する契約にした、ということになる。
「社会契約」においては、原則として所有権が否定される。『不平等論』では明確に所有権が否定されたが、『社会契約論』では、所有権を認めつつ、それを是正する方向へと修正された。ただし、ここで言う所有権とは、我々が一般的にイメージする所有権とは異なる。ルソーの所有権は、マルクスと共通する。マルクスは、各人が孤立した状態で手にする「私有」(我々が「所有権」という場合にはこちらを指す)と、社会的な(個人では完結しない)生産過程ならびに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」を区別した上で、全社を否定し後者を肯定する。つまり、全ての人といくらかを持つことが、ルソーやマルクスにおける所有権の意味である。
ルソーは、不平等な状態を、社会契約によって平等にしようとした。一方、ルソーと同じ啓蒙思想家であるイギリスのロックは、考えが正反対である。ロックの場合、平等は自由とともに自然状態に帰属し、この自然状態から出発して各人が平等に与えられた(はずの)「身体」を自由に用いる。すなわち、自由に「労働」することによって所有権が正当化される。社会的なもの=社会的な美徳・道徳性は、この所有権から導出される不平等の枠内にとどまるように強いられる、という構図である。社会的なものは、決して不平等を批判したり、告発したりしない。
ルソーは自由をどのように考えているか?前述の通り、ルソーは「個人的所有」を肯定した。しかし、いくら全ての人といくらかを持つと言っても、自分の財産を他人と比較し、他人よりもより多く持ちたいと欲するのが人間の性である。ルソーはこうした心の働きを「自尊心」と呼んだ。ルソーは、自尊心を批判し、その代わりに「自己愛」を持つべきだと説いた。自己愛とは他者への同化である。「私の財産は私のものであると同時に、あらゆる他者の所有物である。また、あらゆる他者の財産はそれぞれの者の所有であると同時に、私の所有物である」と考えることである。自尊心を原因とする不平等の意識から自己愛に至ることが、ルソーの言う自由である。
端的にまとめると、ルソーは自然的・人為的な不平等を社会契約によって矯正し、あらゆる人民を統治者であると同時に非統治者にしようとした。また、財産については個人所有でありながら同時に共同所有であると見なすことで、不平等意識からの自由を説いた。つまり、ルソーの社会契約の下では、1人がすなわち全体と等しく、全体がすなわち1人と等しいと言える。これは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」で書いたように、全体主義につながる考え方ではないだろうか?
本書では、ルソーの次のような言葉が紹介されている。
「統治者が市民に向かって「お前の死ぬことが国家に役立つのだ」というとき、市民は死なねばならぬ。なぜなら、この条件によってのみ彼は今日まで安全に生きて来たのであり、また彼の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈物なのだから」(今野一雄訳『孤独な散歩者の夢想』岩波文庫、54頁)。あるいは、「主権者」は「市民宗教」を「信じないものは誰であれ、国家から追放することができる。・・・のろわれている、とわたしたちが信じる人々とともに平和にくらすことは、できない。彼らを愛することは、彼らを罰する神をにくむことになろう。彼らを〔正しい宗教に〕つれもどすか迫害するかが絶対に必要である」(同前、191~192頁)。この激しい言葉の連続を読めば、ドラッカーが『産業人の未来』(初版は1942年)の中で書いた次の文章もよく理解できるように思える。
基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
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ここからは私の考えを述べたい。アメリカはどうなのかと言うと、ロックのようなイギリスの伝統を引き継いでいるから、人間は生まれながらにして自由で平等であると考える。人間は唯一絶対の神に似せて創造された万能な存在であるから、どんな職業でも成功して金持ちになれる可能性を秘めている。経営者でも技術者でもアーティストでも職人でも農家でも医者でも教師でも聖職者でも、何でも好きな職業を自由に選択してよい。そして、選択した職業を全うすることを神と契約する。相手が神であるから、契約内容は絶対である(以前の記事「『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他」を参照)。
とはいえ、全てのアメリカ人が神との契約を履行できるとは限らない。契約内容に瑕疵があったためかもしれないし、本人が契約履行の努力を怠ったからかもしれない。そのため、出発点は自由・平等でも、やがて不平等が生じる。だから、自由でありながら不平等になるのがアメリカ社会である。いや、その不平等が原因となって様々な機会への自由なアクセスが制限され、不自由に陥ることがあることを踏まえれば、不自由・不平等な社会と言うのが正しいのかもしれない。ただし、不自由・不平等の原因は本人に帰せられる。神はせっかく自由で平等な存在として世に送り出したのに、本人がその機会を十分に活かさなかったというわけである。
(※)これはアメリカの理念的な話をしているだけであって、政府や社会が実際には不自由・不平等を是正するために施策を展開していることを私が忘れているわけではない。
日本の場合、出発点は不自由・不平等である。以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」で書いたように、日本人は階層社会に組み込まれて周囲の制約を受ける。ただ、日本人の不思議なところは、そういう制約があった方がかえって自由に振る舞えるようであるということだ。日本人は階層社会の一部分にずっと固定されているわけではなく、水平・垂直方向に比較的自由に移動するという特徴がある(水平方向に関しては、組織内の「ジョブローテーション」、組織間の「業界団体」など。垂直方向に関しては、山本七平の「下剋上」、金井壽宏教授の「ミドルアップダウン」など)。
アメリカ人が唯一絶対の神に似せて創造された完全体であるのに対し、日本人は不完全な存在であるから、人によって能力には差がある。つまり、職業の向き・不向きがあることを意味する。しかも、アメリカ社会が水平的でどの職業でも成功すれば儲かるのに対し、日本は階層社会であり、基本的に階層が下になればなるほど儲けが小さくなる。よって、自分が向いている職業が必ずしも儲かるとは限らない。この点で、日本人は不平等である。
さらに言えば、自分が一体何に向いているのか/向いていないのかは、本人にも解らない。だから、日本人は様々な分野に挑戦し、あれでもない、これでもないと彷徨いながら、自分の能力と適所を発見する必要がある。自分が向いている職業がたとえ儲からない職業だったとしても、それを受け入れるしかない。階層社会の中で与えられたポジションにおいて、前述のように不自由の中で多少の自由を発揮する。これが日本人の生き方である。アメリカ人は自由・平等から出発して不自由・不平等に至るのに対し、日本人は不自由・不平等から出発して、結局不自由・不平等のままである。これが日本とアメリカの大きな違いである。