ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書) 池田 嘉郎 岩波書店 2017-01-21 Amazonで詳しく見る |
本書は、労働者の蜂起によってロマノフ王朝が倒れ、臨時政府が成立した1917年の2月革命(当時のロシアではロシア暦が用いられていたが、現在の太陽暦では3月にあたるので、3月革命とも言う)から、ペトログラード・ソヴィエト(以下、単に「ソヴィエト」)のレーニンが武装蜂起を促し、臨時政権からソヴィエトへと全権を移行させた10月革命(現在の暦に従えば11月革命)までの8か月間を描写したものである。興味深いのは、左派のソヴィエトではなく、臨時政府の中心的存在であった右派の自由主義者に焦点を当てている点である。
ただ、自由主義者と言っても、彼らはロシアの全国民の代表ではなかった。当時のロシアは身分、宗教、資産、職業などによって複雑に区切られていたが、巨視的に見れば、社会の上層と下層を分かつ巨大な太い線が走っていた。自由主義者は「公衆」という言葉を用い、政府や官僚団と対峙して、社会改革を目指す自分たちのことを指した。だが、社会の上層部にいる人々という意味では、彼らはエリートであった。これに対して、社会主義者は、労働者、農民、兵士といった、社会の下層に押し込められている「民主勢力」を取り込んでいった。
臨時政府は、政府という名前がついていながら、立法権と執行権(行政権)を併せ持つ特異な存在であった。強大な権力を持つ臨時政府は、王朝を倒して新しい国家を作ろうとしたのだから、早期に憲法制定会議を招集するべきであったのに、それをしなかった。この点で、革命議会を持っていたフランス革命とは大きく異なる。著者は本書の冒頭で、「なぜ臨時政府は挫折したのか?」という問いを立てているが、これに対してはあとがきで次のように答えている。
「公衆」とは異質な民衆が、一挙的転換の希望を抱いたまま、「街頭の政治」(※先ほど述べたように、ロシアでは「上層」対「下層」といった具合に、物事を対立構造でとらえる傾向がある。臨時政治からこぼれ落ちた人々、主に「民主勢力」は、街中で臨時政府などを敵視した政治的議論・活動を展開した。これを「街頭の政治」と呼ぶ)へと雪崩れ込んだのである。このとき、民衆を政治制度に組み込むことができないでいた革命前のロシアの歴史的構造が、臨時政府の足元で暗い口を開けていたのであった。そうした歴史的構造は、革命議会の不在、それに臨時政府への権力の集中志向としても、1917年の帰趨に濃い影を落とした。とはいえ、臨時政府の自由主義者たちは、いつもエリート層の方ばかりを向いていたわけではない。8月には「モスクワ国家会議」が開かれ、ドゥーマ(※帝政ロシアの議会。2月革命後も存続していた)、ソヴィエト、農民同盟、ゼムストヴォ(※帝政ロシアから続く地方自治機関)、都市自治体、商工業団体、銀行、陸海軍、宗教団体、民族組織、協同組合、労働組合の関係者が参加した。
9月には「民主主義会議」という、「民主勢力」だけの代表会議を開いた。これは、その直前にソヴィエトのボリシェヴィキが「プロレタリアートと農民の代表からなる権力」を立ち上げたことに対抗する意味合いもあった(この時期のロシアは、臨時政府とソヴィエトという二重権力構造であった)。憲法制定会議の開催に向けてようやく重い腰を上げた臨時政府は、10月に「予備会議」を開いた。「公衆」側は156人、「民主勢力」側は367人と、後者の方が優勢であった。
問題は、いずれの会議も臨時政府の諮問機関として位置づけられ、立法権は持たず、臨時政府はこれらの会議に対して一切の責任を持たないとされたことであった。臨時政府にとっては、2月革命によって全権すなわち立法権と執行権を引き継いだのは自分たちであり、明確な根拠や正統性もないままに立法権をこれらの会議に渡すことはクーデターに等しかった。そうこうしているうちに、臨時政府は台頭するボリシェヴィキを押さえることができなくなり、レーニンが指揮する10月革命によって、その全権をソヴィエトの政府「人民委員会議」に委譲した。人民委員会議は「ソヴィエト大会」に対して責任を負うものとされた。
ここで、政治的自由が成立する要件を自分なりに考えてみたいと思う。政治学的には、政治的自由は「権力への自由」と「権力からの自由」から構成され、権力への自由は参政権として、権力からの自由は言論・出版・結社などの自由として現れると説明される。だが、個人的にはあまり納得のいく説明ではない。参政権は、国民が選挙を通じて政治に参加することを意味するが、この時点で、主権者(国民)と立法者(議員)の分離を前提としている。
政治的自由とは、端的に言えば国民が国家の命運を決定する自由である。ここで、非常に逆説的ではあるが、主権者(国民)と立法者(議員)を分離させることが、主権者の政治的自由を確保する第一要件であると考える。両者の分離を政治的自由の前提として当たり前のように受け入れるのではなく、政治的自由を実現するための厳格な一要件として明確に認識しなければならない。
国家の命運を決めるのは大仕事である。一方で、国民には「命運に従って国民として生きる」というもう1つの大仕事がある。もし、全ての国民が国家の命運を決めるという大仕事にかかりっきりになると、もう1つの「生きる」という仕事が置き去りにされる。すると、国民の生活はじり貧になり、やがては政治を行う国民そのものが衰退する。全国民が政治を行えば、かえって政治の死を招いてしまうのである。よって、主権者と立法者を分離し、立法者に政治を委ねることで、政治に専念する立法者の裁量的な活動を通じ、主権者は政治的自由を獲得する。
第二の要件は、立法府における民主主義である。立法者は主権者の政治的自由を代表している。だが、自由は往々にして衝突する。これは必ずしも、主権者の求める自由が利己的であるために生じるとは限らない。公の利益を思い利他的に行っていることが衝突することもある。例えば、ダム建設は安定的な電力供給によって広く経済発展に寄与する。一方で、ダム建設反対派は美しい自然を守ろうとする。経済発展も国土の保全も公の利益にかなうことであり、単純に金銭的にどちらが優れているかを決定することはできない。
こうした自由を調整する仕組みとして、民主主義が要請される。とりわけ、仮に国民が直接政治を行う形態が採用されていたら政治の場に居合わせることが難しかったであろうマイノリティや社会的弱者の政治的自由を反映させなければならない。さらに、国家が将来も存続・繁栄することを目指すのであれば、まだ存在していない将来世代の政治的自由を汲み取る想像力も必要になる。民主主義は多数決原理とイコールではない。最終的に多数決によって決定するとしても、その多数決が重要なのではなく、そこに至るまでの過程において、多様な政治的自由をきめ細かく擦り合わせることの方に意義がある。
第三の要件は、立法と行政を分離させることである。換言すれば、企画と実行を分離させることである。多様な政治的自由を多大な労力によって調整した結果でき上がった企画は、いざ実行しようとする段階になって改めて客観的に見てみると、色々な穴が見つかる可能性がある。あるいは企画が理想論すぎて、現実社会への適用が難しい点があるかもしれない。こうした問題を1つずつ埋めながら、立法府の企画を国家に定着させるのが行政府の役割である。
普通に考えると、立法と執行を分離しない方が実行力が高まりそうなものである。仮に執行の段階で立法の誤りが判明しても、立法と執行が一体なのだから、素早く修正すればよいはずである。しかし、立法と執行の両方の権限を持っていながら、憲法制定会議すらいつまでも開くことができず、ついにはソヴィエトによって乗っ取られてしまった臨時政府のことを忘れてはならない。
第四の要件は、行政が責任を取ることである。立法者は主権者を代表しているのに対し、行政府の人間は主権者を代表していない。よって、行政府の行為が、主権者の政治的自由を侵害してしまう可能性もある。だから、アメリカの大統領制では、大統領が国民に対して直接責任を負っている。議院内閣制においては、行政を代表する内閣が議会に対して責任を負う。これにより、行政は議員を選出した国民に対して、遠回りではあるが責任を負うという形になる。
興味深いことに、政治的自由は「分離」を繰り返すことによって達成されるのに対し、経済的自由は「統合」によって特徴づけられる。経済的自由とは、働く人が成果を追求する自由である。この自由を本格的に体系化したのがピーター・ドラッカーであり、「マネジメント」と名づけられた。マネジメントが体系化される以前のアメリカ企業では、計画を立てて指揮命令を下す管理職層と、命令に従って働く労働者層が分断されていた。だが、ドラッカーは、計画と実行を統合した。今後増加が見込まれる知識労働者は、自ら計画を策定し、自ら実行し、自らその成果を検証し、成果に対して説明責任を負うべきだと説いた。今年注目を集めた「ティール組織」では、その傾向がさらに加速している。知識労働者だけでなく、一般労働者も皆、経営者のように考え、働くことが推奨されている。
《ブログ本館の記事》
フレデリック・ラルー『ティール組織―マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』―ティール組織をめぐる5つの論点(1)|(2)
ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現 フレデリック・ラルー 嘉村賢州 英治出版 2018-01-24 Amazonで詳しく見る |
なぜ政治的自由は「分離」によって、経済的自由は「統合」によって特徴づけられるのかという問題は非常に興味深い。この点をよく理解しない人、特に企業経営でちょっと成功した人は、政治の世界も企業経営と同じだと信じて政治家に転身するが、私はもう少しよく考えた方がよいのではないかと感じてしまう。
政治はあらゆる利害を調整する必要があり、さらに国民を誰1人として殺してはならないのに対し、経済的自由はそれが自由市場経済と結びついている限り、類似の利害・価値観を持った集団を構成する人々に与えられるものであって、自由競争の結果ある集団が消滅し、集団を構成する人々が行き場を失っても、むしろそれは歓迎すべきこととされる点が関係していると思われる。ただ、この点と政治的自由の「分離」の原則、経済的自由の「統合」の原則を結びつけて説明する力は、残念ながら今の私にはない。今後の課題である。