7年が経って
今週の「半分、青い」を見ていたら2011年のことを色々思い出した。
暗い東京。
生きていることを確かめ合った異様な1日。
歩いて帰った道と月。
泥と遠くにある海とランドセルとスニーカー。
いなくなった人たち。
怒り。怒り。
悲しみよりも怒り。誰に対してではなく、多分自分に対しても。
何か色々なことを決心したはずだったのだが、人の記憶は危うい。
7年が経った地点にいて。
本田美奈子: アメイジング・グレイス (DVD付)
移動途中の銀座線の車内の空間がふいに色相を変え、彼女の声が響き渡る。あのころはぎりぎりまで、何か折れてしまいそうな繊細さと痛々しさすらあった、振り絞るような彼女の声は、いつの間にか少し穏やかな丸みを帯びた大人の女性の歌声に変わっていた。僕は長い間、この歌声を忘れていた。
生きる者は死んだ者に煩わされてはならない。
そんな言葉は嘘だ。
僕はあなたの「ミス・サイゴン」を生涯忘れない。
本田美奈子の死-----僕は「ミス・サイゴン」を忘れない
(★★★★★)
レニ・リーフェンシュタール: Triumph of the Will / (意志の勝利)
ナチズムの強烈な存在感と、貫かれた徹底した様式美である。ナチズムの善悪について考える余裕もなく、観客はレニの卓越した、しかも隙のない演出手法に息を飲む。記事はこちら。
(★★★★★)
西 加奈子: さくら
さくらという雑種の犬と、ある家族の苦難の、そして再生の物語。なぜだろう。人間の悲しいところや柔らかいところが、くっきりと浮かび上がる。後半の泣かせパワーはセカチュウの比じゃないよ。記事はこちら。
(★★★★★)
ロバートキャパ: キャパ・イン・ラブ・アンド・ウォー
20世紀を駆け抜けた世界でもっとも有名な報道写真家、ロバート・キャパの半生を、写真、ニュース映像、日記、著名人のインタビューなどで構成したドキュメンタリー。キャパの知られざる素顔や恋愛観、人生観に触れながら彼のメッセージが伝わってくる。
素晴らしいドキュメンタリーです。
サイト関連記事は
ロバートキャパのこと---キャパ・イン・カラー (★★★★★)
柳田 邦男: 犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日
ぎりぎりの家族状況の中で自死した息子への想い。脳死や臓器移植へのアプローチは鬼気迫る。タイトルはタルコフスキーの映画「サクリファイス」から。 (★★★★★)
こうの 史代: 夕凪の街桜の国
原爆体験を伝えていくということの、新しい世代としての一つの形を示し、そのことが希望を示していると思う。物語の悲しみの深さにも関わらず。
サイトでの関連記事は
「夕凪の街 桜の国」----穏やかでスローな悲しみ
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)-(4) (★★★★★)
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今週の「半分、青い」を見ていたら2011年のことを色々思い出した。
暗い東京。
生きていることを確かめ合った異様な1日。
歩いて帰った道と月。
泥と遠くにある海とランドセルとスニーカー。
いなくなった人たち。
怒り。怒り。
悲しみよりも怒り。誰に対してではなく、多分自分に対しても。
何か色々なことを決心したはずだったのだが、人の記憶は危うい。
7年が経った地点にいて。
歳を重ねるとある程度人間界の近未来の展開が予想できるようになる。それをやるとトラブるぞとか、ほら思ってた通りだとか。昔から言われてきた年寄りの言うことは聞くもんだというのは、人間界のおよそ8割くらいには当てはまるかもしれない。
ところが話はここで終わらない。
年寄りが予想できない残りの2割だか1割だかが厳然として存在していて、実は年寄りが予想する8割よりも人間進化のキーはこの2割の方にきっと存在している。
2割だか1割だかのこの領域は誰にとっても辛く厳しくしかしときめく領域だ。8割の人生訓がたとえ正しくても、若い人はあえて2割に賭けていくことで人の世は前に進む。いや若くなくても生を実感できるのはそっちだ。そっち。断然そっちだと思うのだ。
ザイフが67億円抜かれたって聞いても大して衝撃がないのだから慣れとは恐ろしい。その昔、ニセ白バイ警官にたった3億円盗まれただけで日本全国がこの世も終わりかのように大騒ぎになった時代があったなんてウソのようだ。
カーテンコールをしたいくらいのカッコいい人生だったように讃えられつつ逝った樹木希林さんだけれど、そう言えば最初は悠木千帆と名乗っていたのだと思い出した。
あの頃の樹木希林さんのイメージはムー一族の林檎殺人事件を踊るおかしなおばさん。フジカラーの「それなりに」のおばさん。そして蹴られても払いのけられても長年夫と頑として別れようとしない、どちらかというと「痛い女」だったと思う。メデイアもそんな風に取り上げていた。「痛い女」は、いつのまにか芸歴を重ね、歳を重ね、凄みさえ感じられる「ありがたい人」に変わっていった。
今でこそ最初からみんな樹木希林はああいう人だったような錯覚を持っているかもしれないが、そんなことはない。結構わけわからん人だったのである。
樹木希林さんを思うと僕は瀬戸内寂聴さんのことを思い出す。あの人も男女の修羅場の只中にある「痛い女」瀬戸内晴美から、仏のような(いやもう生き仏であろう)瀬戸内寂聴さんに変身を遂げた。
こうして考えると思う。「ありがたいと思われる人」になるための条件は、一時期「痛い人」になることなのではないか。ヤンキーの方が人生に成功するというあれだろうか。これは違うか。
人間が人間のことを考えるにあたり、そもそもそんなに大きな差は無いように思うのだが、樹木希林さんの変貌の歴史を思うと、「痛い人」と世間から思われることも、長い生の歴史の中では、マイナスだけどマイナスではないのかもしれない。あ、これはご本人も言っていた。
我々の人生はそもそも、いつもカッコいいものではない。時折痛くなってしまう誰もの人生に祝福を与えていった人でもあったのかもしれない。心から冥福をお祈りします。
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