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May 16, 2021

80歳になった時こんな風にしていたいー森山大道「過去はいつも新しく、未来はいつも懐かしい」

森山大道の映画と写真展。渋谷PARCO。予想に反してコロナ的満席。しかも若い人達が多勢来ていて熱気ある会場。

言うまでもなく生きるレジェンドだが、これまで森山さんの肉声を聞いたことはほとんどなかった。想像を遥かに超える素晴らしい映画と写真展だったぜ。以前見見た写真美術館のものよりずっといい。PARCOらしく商業写真やグッズもたくさん。森山さんてこんなに最近はコマーシャルもやってるんだと驚いた。しかしかっこいい80歳。足も背筋も目つきもかっこいい。あとウン十年後にこんな風になれたらいいなと思わせられる。そしてこの映画で描かれたのは、紙の写真集の印刷の凄さ。凄まじさ。そうだよ紙ってこうなんだ。

そうだよ紙ってこうなんだ。印刷所の職人のあの目。造本を行った町口さん。関わる大人がみんなカッコいい。紙が滅びるなんて誰が言ったんだ。

デジタルではどうしようもない、届かないものがここにある。食い入るように見るデジタルネイティブ達の目。すごい写真集だ。これは買わざるを得ないでしょうと久しぶりに大きな写真集を買った。

そしてなんだよあのコンデジのかっこよさ。森山さんのは何だ。Nikonか。COOLPIXか。そうだよやっぱ街の写真はコンデジだろ。一眼じゃないだろ。と安直に染まりコンデジ欲しくなった。調べたらそうか。Nikonはもう国内生産やめたんだっけ。

とにかく森山大道を知ってる人も知らない人にも大オススメの素晴らしい映画と写真展でした。PARCOは30日まで。

#菅田将暉の映画冒頭解説とてもいいです震わせられます



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April 29, 2018

久しぶりに国立能楽堂に行ってきた








実に久しぶりに国立能楽堂に能を観に行った。このブログには何度か書いたと思うけれど、自分の社会人としての出発点は、写真と薪能だったのです。原点に帰るような気持ち。

30代の頃に見た当時の金剛流の宗家は既に亡く息子さんの代になっている。と言ってもその人が60代。謡のテキストが前席の背面にはめ込まれた液晶に表示されるなど、能楽堂は現代化されているけれど、能世界の空間は少しも変わらない。歌舞伎と違って観客をそう簡単には寄せつけない閉じた世界の凛。

演目は夢幻能の典型とも思える「江口」。難解だった。

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April 13, 2018

赤い血の出ない人はない

彼女はある種の洗脳状態にあったのだと思う。それが覚めた。人は人であり、徹底的な非「人」はいないし、体を切り裂いて赤い血の出ない人もいない。
超常的な夢のようなミステリアスな「女」を求める層がいて、それを作り出して売る側がいる。

アラーキーに本当はこんな陳腐な図式は当てはめたくはなかった。だがそう思いたがっていた自分もまた、人のことを人として考えていなかったのかもしれない。


アラーキーの「ミューズ」と呼ばれた私のこれから。KaoRiさんが語る、告白後の心境

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March 20, 2018

高木佑輔写真展「kagerou」-中心部に近い周辺

昨夜、Yusuke Takagiさんの写真展「kagerou」に伺ってきました。自分にとっては何度か見ていて再会するような気持ちのする作品の数々にまったく新たな命を吹き込まれているような、新鮮な気持ちで見ることができました。



















写真家に限りませんけれど、作品はその作家の行動や発言と背中合わせにあるものだと思います。アウトプットのみを見て感じるものももちろんあるけれど、takagiさんと南相馬と自分、そして原発事故は自分にとっては不可分の存在なので、きっと自分なりに中心部に近いところから見ているのだろうと、ちょっと思いました。

もちろん最中心ではありませんが。その周辺の1人くらいで。

改めてあの事故と、街と、自分の見てきたものを思い出しました。

明日までです。曳舟のReminders Photography Stronghold

https://m.facebook.com/events/345719499169482?acontext=%7B%22ref%22%3A%2298%22%2C%22action_history%22%3A%22null%22%7D&aref=98

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January 20, 2017

与那覇大智展「影を放さない」展評

(1/20付沖縄タイムス)




 初めて与那覇大智氏の作品に触れてから10年近くの時が経過したことに気づく。今となっては最初の邂逅の時期にいまだ東日本大震災も起きていなかったこ とが、何やら不思議である。

 それほどに、自分はこの国に何やら揺れごとがあるたびに、静謐な空間に展示された与那覇氏の作品を思い、その前で与那覇氏と交わした会話について思い出してきた。そこで沖縄の運命と出会い、氏の画歴を培ったフィラデルフィアの街を脳裏で辿り、そして深い闇と光に包まれた世界と、与那覇氏と自分の住むこの世界との抗いについて思いを巡らしてきたと思う。

 この国の進むあり方に、与那覇氏は表現者として常に敏感であり続けている。自分が渾身の作品を前に佇み、取るに足らない問いを投げかけると、与那覇氏はそれに答えながらも、より深い場所、自らの魂の中で起きている出来事を返すというダイアログが続いてきた。その対話が自分の中で重要な位置を占めてきたことは間違いない。
 それは決して解のない謎の周りを共に巡るための無比の時間であり、世界の理不尽に対峙する一人の表現者の、言葉にならないイメージに心が触れる時間でもある。そしてもちろん自分自身の魂とも対峙する。否。対峙することを迫られる。

 「影を放さない」と題された今回の展示で中心を占めるのは、光と色彩に囲まれながらも、深い影を落としている椅子を中心に描いた「HOME―椅子」である。
 展示には言葉が添えられている。

 「『光』に照らされた椅子のそばにいる闇、それが『影』です。『影』は椅子が『光』に照らされる限り常に、椅子に寄り添っています。(略)椅子が『影』の主であることを自覚し、その影を放さないこと。それは、椅子が椅子であり続けるために大切なことだと思います。椅子は僕です。そしてあなたです。」

 画面に描かれためくるめく光芒と色彩に包まれながら、深い影を落とす椅子に心を座らせることが、この展示に足を運ぶ人に課せられる魂の試みなのかもしれない。その椅子に座る時にあなたにはどんな光が、そして闇が感じられるのか。闇の存在を忘れていないか。絵は問いかけてくる。
 思えば自分はこうした虚空の椅子に座るために、この場に何度も足を運んでいるのかもしれない。光と闇に包まれた椅子はまた「世界にポジションを取れ」と発する表現者の無言の挑発ではないのか。
 フェンスに隔てられた先に無数の光が煌めく「HOME―裏庭の宴」の前に立つと、画面の四隅まで張り巡らされたフェンスが否応なく心に挑んでくる。このフェンスはあなたと誰を隔てているのか。あなたはこのフェンスを越えることができるのか。いや、そこには本当にフェンスがあるのか。

 絵画という表現を評しようと言葉を撒き散らす己の無力に打ちのめされながらも、自分はこれからも氏の作品が展示される場所に通うだろう。たとえそこに画家の用意した椅子が置かれているとは限らなくても。その時は自分の椅子を置くことにしよう。









…………………………………
 与那覇大智展「影を放さない」は東京・Oギャラリー(中央区銀座1の4の9の3階)で22日まで。問い合わせは同ギャラリー、電話03(3567)7772。

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January 19, 2017

沖縄タイムスに与那覇大智展の展評を書いたのだけれど。








画家の 与那覇 大智 (Taichi Yonaha)さんから、こともあろうに沖縄タイムスに掲載される展覧会評(展評)のご依頼を受け、一昨日入稿させていただきました。

通常は自分のような門外漢が新聞への美術展評の依頼など受けた場合には、「何をご冗談を」と断るのが儀礼でありデフォルトであると思うのですが、馬鹿な私はお引き受けしてしまい、頼んだそのご本人をも驚かせたようであります。

引き受けてしまった後で「どれどれ新聞の展評というのは、みんなどんなものを書くのだろうか」と沖縄タイムスの過去紙面をネットで読み、再度脂汗をかくことになりました。

もとより美術評論家の質など要求されていることはあり得ないので、それならそれで私らしくと開き直って仕上げましたが、「ブログを書くような軽い気持ちで」とはよく言うよ与那覇さん。いくら図々しい私でもそんなわけにいくかと。笑。

運が良ければ、明日20日の沖縄タイムスに掲載されるようですので、掲載後にまた展評含めご紹介できるチャンスもあるかと思います。まあ私の駄文はどうでもいいのですが、与那覇展は22日(日)まですので先だってご案内させていただきます。

1人でも多くの方に。
 

PS. このブログでは与那覇さんの個展に初めてお訊ねした時のことを書いた記事があります。読み返してみると、邪念のない分、今回の展評より良い気がします。

「失われた町」が導いてくれた場所---与那覇大智さんの個展に行ってきた


 与那覇大智展―影を放さない―

会期:2017年1月16日(月)-22日(日)
12:00-20:00(日曜日11:00-16:00)

会場:Oギャラリー
〒106-0061 東京都中央区銀座1-4-9 第一田村ビル3F
℡&fax:03-3567-7772

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September 27, 2016

見よぼくら一銭五輪の旗-花森安治

見よぼくら一銭五厘の旗

花森安治

美しい夜であった
もう 二度と 誰も あんな夜に会う
ことは ないのではないか
空は よくみがいたガラスのように
透きとおっていた
空気は なにかが焼けているような
香ばしいにおいがしていた
どの家も どの建物も
つけられるだけの電灯をつけていた
それが 焼け跡をとおして
一面にちりばめられていた
昭和20年8月15日
あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた
 
どの夜も 着のみ着のままで眠った
枕許には 靴と 雑のうと 防空頭巾を
並べておいた
靴は 底がへって 雨がふると水がしみ
こんだが ほかに靴はなかった
雑のうの中には すこしのいり豆と
三角巾とヨードチンキが入っていた
夜が明けると 靴をはいて 雑のうを
肩からかけて 出かけた
そのうち 電車も汽車も 動かなくなっ

何時間も歩いて 職場へいった
そして また何時間も歩いて
家に帰ってきた
家に近づくと くじびきのくじをひらく
ときのように すこし心がさわいだ
召集令状が 来ている
でなければ
その夜 家が空襲で焼ける
どちらでもなく また夜が明けると
また何時間も歩いて 職場へいった
死ぬような気はしなかった
しかし いつまで生きるのか
見当はつかなかった
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか
戦争が終るかもしれない などとは
夢にも考えなかった
 
その戦争が すんだ
戦争がない ということは
それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチ
をひねる ということだった
たとえば ねるときには ねまきに着か
えて眠るということだった
生きるということは 生きて暮すという
ことは そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし
戦争のないことは すばらしかった
 
軍隊というところは ものごとを
おそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹
が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る
軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた
しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった
兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも
召集できる という意味だった
(じっさいには一銭五厘もかからなか
ったが……)
しかし いくら腹が立っても どうする
こともできなかった
そうか ぼくらは一銭五厘か
そうだったのか
〈草莽そうもうの臣〉
〈陛下の赤子せきし〉
〈醜しこの御楯みたて〉
つまりは
〈一銭五厘〉
ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 一銭
五厘なのだ 一銭五厘が 一銭五厘を
どなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の
発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も
鹿児島の部隊も おなじ冗談を おなじ
アクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りださ
れたら 着いたその日に 聞かされたの
が きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おく
になまりの一銭五厘を聞かされた
 
考えてみれば すこしまえまで
貴様ら虫けらめ だった
寄らしむべし知らしむべからず だった
しぼれば しぼるほど出る だった
明治ご一新になって それがそう簡単に
変わるわけはなかった
大正になったからといって それがそう
簡単に変わるわけはなかった
富山の一銭五厘の女房どもが むしろ旗
を立てて 米騒動に火をつけ 神戸の川
崎造船所の一銭五厘が同盟罷業をやって
馬に乗った一銭五厘のサーベルに蹴散ら
された
昭和になった
だからといって それがそう簡単に変わ
るわけはないだろう
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ と
どなられながら 一銭五厘は戦場をくた
くたになって歩いた へとへとになって
眠った
一銭五厘は 死んだ
一銭五厘は けがをした 片わになった
一銭五厘を べつの名で言ってみようか
〈庶民〉
ぼくらだ 君らだ
 
あの八月十五日から
数週間 数カ月 数年
ぼくらは いつも腹をへらしながら
栄養失調で 道傍でもどこでも すぐに
しゃがみこみ 坐りこみながら
買い出し列車にぶらさがりながら
頭のほうは まるで熱に浮かされたよう
に 上ずって 昂奮していた
 
戦争は もうすんだのだ
もう ぼくらの生きているあいだには
戦争はないだろう
ぼくらは もう二度と召集されることは
ないだろう
敗けた日本は どうなるのだろう
どうなるのかしらないが
敗けて よかった
あのまま 敗けないで 戦争がつづいて
いたら
ぼくらは 死ぬまで
戦死するか
空襲で焼け死ぬか
飢えて死ぬか
とにかく死ぬまで 貴様らの代りは
一銭五厘でくる とどなられて おどお
どと暮していなければならなかった
敗けてよかった
それとも あれは幻覚だったのか
ぼくらにとって
日本にとって
あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年
おまわりさんは にこにこして ぼくら
を もしもし ちょっと といった
あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは
家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って
かしこまりました なんとかしましょう
といった
申し訳ありません だめでしたといった
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来
だった
焼け跡のガラクタの上に ふわりふわり
と 七色の雲が たなびいていた
これからは 文化国家になります と
総理大臣も にこにこ笑っていた
文化国家としては まず国立劇場の立派
なのを建てることです と大臣も にこ
にこ笑っていた
電車は 窓ガラスの代りに ベニヤ板を
打ちつけて 走っていた
ぼくらは ベニヤ板がないから 窓には
いろんな紙を何枚も貼り合せた
ぼくらは主人で 大臣は ぼくらの家来
だった
そういえば なるほどあれは幻覚だった
主人が まだ壕舎に住んでいたのに
家来たちは 大きな顔をして キャバレ
ーで遊んでいた
 
いま 日本中いたるところの 倉庫や
物置きや ロッカーや 土蔵や
押入れや トランクや 金庫や 行李の
隅っこのほうに
ねじまがって すりへり 凹み 欠け
おしつぶされ ひびが入り 錆びついた
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった
言葉のかけらが
割れたフラフープや 手のとれただっこ
ちゃんなどといっしょに つっこまれた
きりになっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい
出よ)
いつのまにか 気がついてみると
おまわりさんは 笑顔を見せなくなって
いる
おいおい とぼくらを呼び
おいこら 貴様 とどなっている
役所へゆくと みんな むつかしい顔を
して いったい何の用かね といい
そんなことを ここへ言いにきてもダメ
じゃないか と そっぽをむく
そういえば 内閣総理大臣閣下の
にこやかな笑顔を 最後に見たのは
あれは いつだったろう
もう〈文化国家〉などと たわけたこと
はいわなくなった
(たぶん 国立劇場ができたからかもし
れない)
そのかわり 高度成長とか 大国とか
GNPとか そんな言葉を やたらに
まきちらしている
物価が上って 困ります といえば
その代り 賃金も上っているではないか
といい
(まったくだ)
住宅で苦しんでいます といえば
愛し合っていたら 四帖半も天国だ と
いい
(まったくだ)
自衛隊は どんどん大きくなっているみ
たいで 気になりますといえば
みずから国をまもる気慨を持て という
(まったく かな)
どうして こんなことになったのだろう
政治がわるいのか
社会がわるいのか
マスコミがわるいのか
文部省がわるいのか
駅の改札掛がわるいのか
テレビのCMがわるいのか
となりのおっさんがわるいのか
もしも それだったら どんなに気が
らくだろう
政治や社会やマスコミや文部省や
駅の改札掛やテレビのCMや
となりのおっさんたちに
トンガリ帽子をかぶせ トラックにのせ
て 町中ひっぱりまわせば
それで気がすむというものだ
それが じっさいは どうやら そうで
ないから 困るのだ
 
書く手もにぶるが わるいのは あの
チョンマゲの野郎だ
あの野郎が ぼくの心に住んでいるのだ
(水虫みたいな奴だ)
おまわりさんが おいこら といったと
き おいこら とは誰に向っていってい
るのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
しきりに袖をひいて 目くばせする
(そんなことをいうと 損するぜ)
役人が そんなこといったってダメだと
いったとき お前の月給は 誰が払って
いるのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
目くばせして とめたのだ
あれは 戦車じゃない 特車じゃ と
葉巻をくわえた総理大臣がいったとき
ほんとは あのとき
家来の分際で 主人をバカにするな と
いえばよかったのだ
ほんとは 言いたかった
それを チョンマゲ野郎が よせよせと
とめたのだ
そして いまごろになって
あれは 幻覚だったのか
どうして こんなことになったのか
などと 白ばくれているのだ
ザマはない
おやじも おふくろも
じいさんも ばあさんも
ひいじいさんも ひいばあさんも
そのまたじいさんも ばあさんも
先祖代々 きさまら 土ン百姓といわれ
きさまら 町人の分際で といわれ
きさまら おなごは黙っておれといわれ
きさまら 虫けら同然だ といわれ
きさまらの代りは 一銭五厘で来る と
いわれて はいつくばって暮してきた
それが 戦争で ひどい目に合ったから
といって 戦争にまけたからといって
そう変わるわけはなかったのだ
交番へ道をききに入るとき どういうわ
けか おどおどしてしまう
税務署へいくとき 税金を払うのはこっ
ちだから もっと愛想よくしたらどうだ
といいたいのに どういうわけか おど
おどして ハイ そうですか そうでし
たね などと おどおどお世辞わらいを
してしまう
タクシーにのると どういうわけか
運転手の機嫌をとり
ラーメン屋に入ると どういうわけか
おねえちゃんに お世辞をいう
みんな 先祖代々
心に住みついたチョンマゲ野郎の仕業な
のだ
言いわけをしているのではない
どうやら また ひょっとしたら
新しい幻覚の時代が はじまっている
公害さわぎだ
こんどこそは このチョンマゲ野郎を
のさばらせるわけにはいかないのだ
こんどこそ ぼくら どうしても
言いたいことを はっきり言うのだ
 
工場の廃液なら 水俣病からでも もう
ずいぶんの年月になる
ヘドロだって いまに始まったことでは
ない
自動車の排気ガスなど むしろ耳にタコ
ができるくらい 聞かされた
それが まるで 足下に火がついたみた
いに 突如として さわぎ出した
ぼくらとしては アレヨアレヨだ
まさか 光化学スモッグで 女学生バッ
タバッタ にびっくり仰天したわけでも
あるまいが それなら一体 これは ど
ういうわけだ
けっきょくは 幻覚の時代だったが
あの八月十五日からの 数週間 数カ月
数年は ぼくら心底からうれしかった
(それがチョンマゲ根性のために
もとのモクアミになってしまったが)
それにくらべて こんどの公害さわぎは
なんだか様子がちがう
どうも スッキリしない
政府が本気なら どうして 自動車の
生産を中止しないのだ
どうして いま動いている自動車の 使
用制限をしないのだ
どうして 要りもしない若者に あの手
この手で クルマを売りつけるのを
だまってみているのだ
チクロを作るのをやめさせるのなら
自動車を作るのも やめさせるべきだ
いったい 人間を運ぶのに 自動車ぐら
い 効率のわるい道具はない
どうして 自動車に代わる もっと合理
的な道具を 開発しないのだ
(政府とかけて 何と解く
そば屋の釜と解く
心は言う(湯)ばかり)
 
一証券会社が 倒産しそうになったとき
政府は 全力を上げて これを救済した
ひとりの家族が マンション会社にだま
されたとき 政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツは どうにでもつくし
考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが
一個人がどうなろうとかまわない
という式の考え方では 公害問題を処理
できるはずはない
公害をつきつめてゆくと
証券会社どころではない 倒してならな
い大企業ばかりだからだ
その大企業をどうするのだ
ぼくらは 権利ばかり主張して
なすべき義務を果さない
戦後のわるい風習だ とおっしゃる
(まったくだ)
しかし 戦前も はるか明治のはじめか
ら 戦後のいまも
必要以上に 横車を押してでも 権利を
主張しつづけ その反面 なすべき義務
を怠りっぱなしで来たのは
大企業と 歴代の政府ではないのか
 
さて ぼくらは もう一度
倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から
おしまげられたり ねじれたりして
錆びついている〈民主々義〉を 探しだ
してきて 錆びをおとし 部品を集め
しっかり 組みたてる
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にする
ということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつ
かったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつ
かったら 政府を倒す ということだ
それが ほんとうの〈民主々義〉だ
政府が 本当であろうとなかろうと
今度また ぼくらが うじゃじゃけて
見ているだけだったら
七十年代も また〈幻覚の時代〉になっ
てしまう
そうなったら 今度はもう おしまいだ
 
今度は どんなことがあっても
ぼくらは言う
困まることを はっきり言う
人間が 集まって暮すための ぎりぎり
の限界というものがある
ぼくらは 最近それを越えてしまった
それは テレビができた頃からか
新幹線が できた頃からか
電車をやめて 歩道橋をつけた頃からか
とにかく 限界をこえてしまった
ひとまず その限界まで戻ろう
戻らなければ 人間全体が おしまいだ
企業よ そんなにゼニをもうけて
どうしようというのだ
なんのために 生きているのだ
 
今度こそ ぼくらは言う
困まることを 困まるとはっきり言う
葉書だ 七円だ
ぼくらの代りは 一銭五厘のハガキで
来るのだそうだ
よろしい 一銭五厘が今は七円だ
七円のハガキに 困まることをはっきり
書いて出す 何通でも じぶんの言葉で
はっきり書く
お仕着せの言葉を 口うつしにくり返し
て ゾロゾロ歩くのは もうけっこう
ぼくらは 下手でも まずい字でも
じぶんの言葉で 困まります やめて下
さい とはっきり書く
七円のハガキに 何通でも書く
 
ぽくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布はぎれをつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し
台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後あとへひかない
 
(8号・第2世紀 昭和45年10月)

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September 22, 2016

東京都写真美術館-杉本博司展 「嘘をついている者が」




世界が終わる33のかたち。様々な職業の33人の証言者が世界が終わった理由を綴り、その個々の世界を表現している。

なぜかこの中に嘘をついている者がいると感じた。その人数によって何かが少し変わるかなと考えたところで、ここに繰り広げられているのは33通りの未来であり、パラレルワールドでなければ、嘘つきは32人ということになるとたどり着く。

世界がその時まだ続いているなら全員が嘘をついている。あまり意味がない妄想だとは思う。

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November 27, 2010

「没後120年 ゴッホ展」 来るのが遅すぎると画家の声は聞こえなくなる 

Gof3

国立新美術館「没後120年ゴッホ展ーこうして私はゴッホになった」を観に行った。目玉となる作品が少ないという評判は、おそらく正しいだろう。有名な「ひまわり」は1点もない。印象に残ったのは「自画像」「ゴーギャンの椅子」「アルルの寝室」「サン=レミの療養院の庭」というところだったが、先日オルセー美術館展に出展されていた「星月夜」などのような強烈な作品もない。どちらかというと地味な作品展だろうか。(アルルの寝室の再現や安住紳一郎の音声ガイドというような工夫はされてはいる)

タイトルに表されているように、この展覧会はゴッホの人生。それも「ゴッホがゴッホ
になっていくプロセスを見せること」が主題だと悟る。そのために同時代の作家たちの作品がかなり出展されていて、多くの画家たちに影響を受けながらゴッホが画家としての成長していった様を見ることができる。

また、画家となるべく彼が積んだ途方もない研鑽の素描、ミレーなどの模写が多く展示されている。それはもちろん地味なものであり、アルルの輝く光の中で狂気寸前に画家として頂点を迎えたゴッホ、いわゆる我々の知っているあのゴッホとは違う時代のものだ。

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October 25, 2010

帰ってくるDef Tech - 全てが喜びの曲に聴こえる 

アーティストの活動再開がこんなに嬉しいことはほかにあったかな。DefTechが4年ぶりに復活することを知ってから、YouTubeでかつての彼らを見てはメソメソしていた日々が嘘のように、どの曲を聴いても喜びが沸き上がってくるのだから本当に人間は現金だ。いや僕がか。全てのしんみりとした曲も喜びの曲に感じるのだよ。小さな小さな幸福。4年だよ?? 4年!!それに比べれば少しくらいのブログの中断が何だよ?違うか。

10月27日には新しいアルバム「Mind Shift」も出る。

復活!Def Tech!4年ぶりに活動再開((スポーツ報知)

きっかけは、偶然の再会だった。昨年10月、ハワイで暮らしていたShenと日本人の妻との間に第1子が誕生。それを機に、年末から日本で生活するように。今年になって行われた共通の友人の集まりに、たまたま2人が参加した。約4年ぶりの再会に再び意気投合。今年4月、以前使用していた都内のプライベートスタジオでセッションを行い、その場の即興で曲ができ上がったことで復活を決意した。

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