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September 29, 2006

「民主主義」を巡る切れ切れの話---自由と平等と2.0

民主主義が、ある種の「大衆主義」「衆愚主義」として捉えられ、選民的なエリート思想と対比されることはしばしばなされてきた。歴史的には、「君主制」の圧制を打ち破るために蜂起した「人民」主導の「人民による政治制度」=民政を君主制に対抗する政治的システムとして位置づけたのであり、その延長として暴力的な「衆愚」に陥る道程の危険があることは、民主主義を批判する論者がしばしば唱えてきた視点であり、目新しい視点ではない。(ここでも選民思想2.0とくると、またかと思う。またかと何度も思っていることも何度も書いてきたが。)

Web2.0の背景にある考え方。(備忘録ことのはインフォーマル )

選民思想2.0または少衆主義(404 Blog Not Found)

ちとまいったかな(finalventの日記)

おそらくあまり噛み合わないが、少し。


元来は、エリート=治める側としての支配階級が、蜂起する人民によって雪崩を打ったように進行した19-20世紀の「革命前夜」の不安の中で、その流れに抑制を唱えようとして衆愚の危険、人民革命の暴力性と反秩序的行為、衝動的破壊への警鐘を鳴らしたという流れの中で、当時の「保守主義者」と呼ばれた思想家が頻繁に戦略的に口にしてきたものであるし、そのギミックは形を変えて現代の社会にも残っている。

中国共産党が、西側の諸国により、人権を抑圧し、「非民主的な」体制であると批判されているのに反し、しばしば自らの体制を「民主」あるいは「民主主義」という言葉で語ることは米国からすれば奇異に極まるであろうが、その歴史的流れからすれば矛盾が無い。つまり支配階級=資本家に対抗する労働者=民衆の集団的権力統合である共産党を、「民主」の先鋭的な政治制度、政治的前衛としているのであり、彼らの中では驚くべきことに共産党と「民主主義」とがイデオロギーとして並立しているのである。

もちろん、文革のようなヒステリックな大衆の暴走(もちろん操られた上での)を見る向きもそうした「悪夢」を恐れ、衆愚を唾棄するであろうし、現代中国の社会にもそれに対する恐怖はあるだろうし、おそらく天安門事件などは、中国共産党に言わせれば「民主化」などではなく「衆愚」の暴力行為だったのだろう。

しかし中国の「歪んだ民主主義」はともかく、民主主義は、単なる政治制度ではなく歴史的に「思想」=イデオロギーとして機能してきたことを我らは忘れてはならないだろう。

つまり民主主義とは、

●フランス革命に端を発する民衆蜂起(革命)=権力の人民への移管(奪取)と、アンシャンレジュームの破壊=「平等」を推進する流れ(旧体制を引き摺り下ろすことにより実現される)

●職業を自由に選択し、自由な経済的競争を具現化し、自由な政治参加を可能にする自由の体制=「自由」を推進する流れ(政治的・経済的開放により実現される)

の2つのストリームが繰り返し、繰り返し「通じ合うことなく」語られてきた。それぞれが民主主義を撫でるとき、像の体を撫でるがごときであるという見方もここに起因する。

中国の言う「民主」とは言うまでもなく前者=平等(ともあれ)であり、「中東の民主化」のために、未曾有の軍事国家を東に差し向けている国の言う「民主主義」とは明らかに後者=自由の実現(それも経済的な)である。

私の師、関嘉彦氏は、近代~現代の左右両翼の思想が、そして諸国家が陥った悲劇として、この「自由」と「平等」という相反する価値を、終に「民主主義」が統合することが出来なかったことを、一つの思想的原因として言及しておられた。できなかったというよりも、それらは根源的に別の価値なのではないかとも。

今「自由で平等な社会」なるものが、「民主主義」の名の元に軽薄に語られるとすれば、それが政治的スローガンであっても、思想的プロパガンダであっても私はそれに違和感を覚えるし、歴史的にも統合の立場こそが実現されたことは一度としてないのみならず、今後もなされ得ないと考えるのが順当であるように思える。つまり自由と平等の両輪は同時には永遠に回りえないのではないか。

小泉政治の推進したものは、今更「民主主義」という言葉を纏わなかったが、「新自由主義」と呼ばれる米国ネオコンに起源を持つ、「より自由で」「より格差を広げる」社会の構築であることは言うまでもないが、これは上記の区分では明らかに「平等」よりも「経済的自由」の偏重にあるとして、また元来の民主主義を歪めるものであろう。

「戦い獲得する価値」としての民主主義がとうに終焉を迎えていることは、我らはおそらくみな体感しているはずであり、そうした奪い取る価値としての民主主義が崩壊した後で世界に残るものが「民主主義という名の平等的奴隷制」と「民主主義という名の過度の経済的マキャベリズム」のみにならないことを期すべきであり、現代版のアリストクラシーや表層的な選民主義を衆愚へのストッパーのように扱う前に、あるいはなんたら2.0などとぶち上げる前に、考えることはあるように思う。

実際多くの「なんとか2.0論」の最大の特徴は表層的であること、そして軽薄な経済的自由主義を称える別の言い方であるという風にも思う。IT的側面からの解釈に心酔している方もいるが。

そもそもこれはまたこの記事の本論とは別の話だし、待っていればどうせ消え失せる程度のものだから別にいいのだけれど。

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Comments

往年のオウムのプロバガンダを見ているようなものでした。
選挙に負けた後、あれこれ言っていましたですね‥‥
Wikipediaの工作に完全失敗した後、こういう分かりやすい流れになるのが笑えます。

私は、この記事ではオウムのことは、観想していませんでした。いやほんとに。ほんとです。

「観想」っすか。なるほどねえ。

え?松永どがWikiに手出してたんすか?知らなかった。
はてなじゃDerAngriffのネットチンピラどもとつるんで好きなように編集を独占してましたが、そっちにも手を出していたとは・・・

「松永ども」って書こうとして失敗しました(笑
しかしオウム掲示板の連中がまた集まってきてますなw

ゆーすけさんっておもしろいね。
なんだかスポンタさんみたいだ(悪口じゃないよ)。

口調は似てるかな(^ ^;)。でも・・・まあいいやw

>なんだかスポンタさんみたいだ(悪口じゃないよ)。

そうかなあ。似てるかなあ。(疑問)

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