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January 18, 2005

「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(2)

「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)

ヒロシマの「広島平和都市記念碑」に刻まれた「安らかに眠って下さい/過ちは繰り返しませんから」という言葉。

この「過ち」を犯したのは一体誰で、誰に対して過ちを犯したのだろうか。そして、その「過ち」とはなんだったのだろうか。「過ち」とは原爆の投下か。それとも戦争そのものか。あるいは他の何かか。

これについては実は原爆慰霊碑碑文論争(「はまゆう通信」さんへのリンク)というものがある。

それによれば、1952年11月3日に、インドの国際法学者、ラダ・ビノード・パル判事が碑文に疑問表明。

「『過ちは繰返しませぬから』とあるのは日本人を指しているのは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明瞭。落としたものの手はまだ清められていない。この過ちとは、もしも前の戦争を指しているのなら、それも日本の責任ではない。その戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である。・・・」

これに対して1952年11月10日、 雑賀忠義広大教授がパル判事に抗議文を送り、

「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。」
などと反論している。

さらに1983年9月には広島市が慰霊碑に取り付ける日英両文の説明板内容を公開。

「碑文は全ての人びとが原爆犠牲者のめい福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて、全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」と説明。

1983年11月3日には、広島市が慰霊碑のそばに日英両文の説明板設置。市民の要望で正式名の「広島平和都市記念碑」に「原爆死没者慰霊碑」を付記し、碑文論争に一つの区切りとなった。

この一連の流れを見るにつけても、これほどの犠牲者を出した大禍の後で、日本人は驚くべき率直さと従順さを持って米国の無差別大量殺人の加害の罪を許し、その一方で自らの加害の罪をも曖昧にやり過ごしてきた。

だが待って欲しい。
傍らにある米国は、中国は、韓国はどうであったか。一度たりとも共に同じ願いを共有したことがあったか。そして当の日本自身ですら本気でそれをかなえようとしたか。

およそ、全ての戦争を「非人道的」とするならば、その中にあたかも「良い戦争」と
「悪い戦争」あるいは「正義の戦争」と「邪悪な戦争」などという区別があるがごとき主張自体、認められないことになる。
もしくは私達は、段階的にあのとき、正義の戦争は彼らのものであり、我らは邪悪な戦いを挑んだと規定したのであろうか。

第二次世界大戦の全体が非人道的であったのか、それともナチスや日本の枢軸国の所業が人道に反していたのか、あるいは核兵器の使用か。それらを明確にせず、ヒロシマで日本人はどういうわけか全てをオブラートに包んでしまい、事を未解決なまま後世に放り出した。

私達はどこまでを過ちと規定したのか。何を捨て、何を守ろうとしたのか。それがわからない。

広島平和都市記念碑の「過ちは繰り返さない」は、実は誰の責任も問わない、何の過ちをも明確化しない、逃げたメッセージではなかったか。

その非戦の理想を世界に広めようという真摯な姿勢が本当にあったならば、私達はまた、米国のこの「非人道的」大罪もまた曖昧に許すべきではなかったのではないか。

もちろんこれはパラドックスである。なぜなら、あの憲法9条ですら、占領国としての米国の監査のもとに綴られた条文なのであり、二度と大日本帝国を凶暴な亜細亜の「狂犬」にしないがために作られたものであり、決して「人道への罪の廃絶」などという理想をこめたものでもなければ、軍事力のない、ジョンレノン的桃源郷を目指したものでもなかったからだ。

「過ちは繰り返しませんから」と言った時点で既に過ちは始まっていたのではなかったろうか。
今日の世界へ綿々と続く過ちが。

私達は非人道の非道を裁けない。なぜなら自らの上に降りかかった非人道も、そして自らの非人道的行為も、いずれも曖昧にしてきたからである。

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Comments

初めまして。りゅうすりーと申します。
トラックバック、ありがとうございました。

何の過ちも明確にせず、責任も曖昧にしたまま、戦後日本はただ、経済の繁栄だけを目指してきて、行方を見失っているように思えます。

わし自身、あの戦争への心情は分裂しております。
侵略し、非道の限りを尽くした大日本帝国は糾弾しなければならない、と思いつつ、絶望的な戦場で果敢に戦った無名の兵士たちには共感し、涙します。

まだまだ勉強し、思索を重ねなければならないと思いつつ、
現状の危機を打開する為の行動に戸惑う日々です。
真摯な思索を提示していただき、ありがとうございました。また、よろしく。

はじめまして。
来ていただいてありがとうございます。
「原爆投下目標・京都!」の記事は興味を持って拝読しました。

特にその理由4
>④日本人にとって宗教的意義を持った重要都市であり、この破壊が日本人に最大の心理的ショックを与えることができ、その抗戦意欲を挫折させるのに役立つ。

私の記事にも(まだ中途半端ですが)関連しますが、非情とは、非人道とは実はとてつもない不合理であり、非合理でもあるのだということを、これからも言っていきたいと思っているのですが。

こんにちは。
ちょうど、保阪正康「昭和史の謎 “檄文”に秘められた真実」とというのを読んでいて、広島のその碑の文言について触れられていたのでタイムリーでした。

私はアレは「過ちは『繰り返させませんから』」にしたほうがいいのでは、と思う派です。もちろん日本が戦争犯罪を犯さなかったというわけではありません。
が、核兵器となると話は別です。
ちょうどそういう話を昔記事にしたことがあるので、TBしますね。

記事を拝見しました。確かに私の書いているところと、テーマに共通性があります。

最近自分の「反米」的傾向が強まっているのは、悲しいことだなあとぼんやり思うことがあります。以前は米国はやはり憧れの対象でしたので。
ですが、「米国」と「今の米国を支配している勢力」を一緒にしないほうがいいでしょうし、「原爆を落とした勢力」と米国人も一緒にはしないほうがいいでしょうね。

結局のところ、確か「小さな目で見る大きな世界」のstandpointさんが書かれていましたが、総じて相対主義(=是是非非)で細かく対応していくしかないのかもしれない。

どこを反省し、どこを詫びないか。どこを責めずに、どこを責めないか。どこを水に「流さない」か。

この道にショートカットはないのだろうな。
と思います。

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