グリンデルワルト編(36):チューリヒ中央駅(10.12)

 まずは1893年に建てられたチューリヒ中央の外観を撮影しておきましょう。旅先に持参した本の中で、偶然その土地について語られた一文を見つけることがよくあります。不思議なものですね。今回も、「荒廃する世界のなかで」(トニー・ジャット みすず書房)の中で、この駅について触れた文章がありました。"鉄道の駅というものは町の単なる一部分ではなく、駅票に町の名をかかげているように、その町の人格の本質をふくんでいるのである(p.226)"というマルセル・プルーストの言葉を紹介した後、著者は鉄道が「公共善」であると主張されています。以下、引用します。
 フランスとイタリアはずっと以前から、鉄道を社会的供給物として対処してきました。遠くへんぴな地域まで列車を走らせることは、コスト的にどれほど非効率であっても、地域社会を維持します。道路輸送に対する代替案を提供することで、それは環境破壊を減少させます。鉄道の駅と、駅に付随するさまざまな施設とは、どんなにちっぽけな地域社会にとっても、希望の共有としての社会というものの存在のきざしであり、そのしるしでもあるのです。(p.230)
 地域社会を維持し、環境破壊を減少させ、そして希望の共有のしるしとなるもの、それが鉄道だと述べられています。なるほど、鉄ちゃん・鉄子さんが増えているのも、こういう点に敏感に反応した結果なのかもしれませんね。そしてジャット氏は、古い鉄道の駅が多くの人々に愛着をもたれていることこそ、鉄道が社会に適合していることを物語っていると指摘されています。その例として挙げられているのが、パリの「ガール・ド・レスト(東駅)」(1852)、ロンドンの「パディントン駅」(1854)、ブダペストの「クレティ・パーヤウドゥヴァル(東駅)」(1884)、そしてここチューリヒの「ハウプトバーンホーフ(中央駅)」(1893)です。実はこの駅の写真を撮っておきたい理由がもう一つあります。私の大好きなアルバム、ヴィブラフォン・プレーヤーのゲイリー・バートンと、ピアニストのチック・コリアのそれはそれは見事なデュオのライブ演奏を録音した「CHICK COREA and GARY BURTON IN CONCERT, ZURICH, OCTOBER 28, 1979」のジャケット写真が、この中央駅周辺を上方から写したとても素敵な写真なのです。ECMというレーベルは、ほんとに洗練された上質のジャケットを見せてくれます。ま、ブルーノートの土臭さや、サヴォイの趣味の悪さも、それはそれで魅力的なのですが。というわけで心ふるわせて外へ出ると…何と一部が改修中。ところどころがプレートに覆われ、全貌を拝むことができませんでした。無念。悔しいので、ジャケット写真にある、裏側から撮影された"CAMPARI"のネオンをカメラにおさめました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-06-27 06:17 | 海外 | Comments(0)
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