馬場あき子『寂しさが歌の源だから』を読む

 馬場あき子『寂しさが歌の源だから』(角川書店)を読む。副題が「穂村弘が聞く馬場あき子の波瀾万丈」というもので、角川の雑誌『短歌』に1年間連載されたものをまとめている。馬場は最も好きな歌人だし、穂村も嫌いな歌人ではない。
 馬場の名前を初めて知ったのは紀伊國屋新書の『式子内親王』を読んだ時ではなかったか。馬場の初めての評伝だったらしい。その後『鬼の研究』を読んだ。中世の鬼を虐げられた女の怨念が鬼になったという評論で強く記憶に残った。馬場の短歌で最も印象深かったのは、その研究に絡んだもの。


 われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり


 40年ほど前、新聞に岸上大作がその顔写真とともに紹介されていたとき、馬場あき子の短いコメントが寄せられていた。われわれの身代りに死んだのよと言っていた記憶がある。岸上は『意思表示』の歌集があるが、安保反対運動に参加し、最後は失恋して自死した。
 穂村が馬場に最初の記憶を問うところから始まる。馬場が小学校入る前に母が結核で亡くなる。その3年後に父が後妻を迎える。馬場は新しいお母さんのモダンな髪型に一目惚れする。継母とはとても気が合った。新しいお母さんはあまり字が読めなかったから回覧板などは馬場が読んでやった。
 昭和15年、昭和高等女学校に入学。古典を読むようになり短歌を作り始める。当時12歳。しかし翌年太平洋戦争勃発。その後工場へ学徒動員され、最後は毎日空爆を受けるような生活を送る。昭和20年4月、日本女子高等学院(現・昭和女子大学)に入学、それは女子挺身隊に入るのを避ける方法だった。
 女学校時代に岡本かの子の『老妓抄』を熟読した。

馬場  ……そのなかで、〈年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり〉があるのよ。『岡本かの子歌集』には入ってないけど。これを二人で、三嘆四嘆しながら、「そうだよねえ」って。中学1年よ(笑)。今もその歌はすぐ言えたでしょう。
―――  馬場さんの桜の代表歌とどこかで通じていませんか。〈さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり〉
馬場  そういえばそうね、言わなきゃよかった(笑)。

 空襲で自宅が全焼し、近所の焼け残った家に入れてもらった。その後ろの家に大原富枝が住んでいた。

馬場  ……ずっと後になって、私が『式子内親王』(昭44)を出したころ、「あなたの後ろの家にいたのよ」って、向こうからお電話をいただきました。あの人が『建礼門院右京太夫』(昭50)を書くときは、私がずいぶんアドバイスをしたの。

 昭和21年に「まひる野」が創刊され、翌年馬場が入会する。「まひる野」は窪田空穂が主宰で章一郎が編集発行という形で創刊された。馬場は「まひる野」に入会した同じ年に、能の喜多流に入会した。

馬場  ……芸事の優れている人は人格も優れている。西洋の芸術論と日本の芸術論の違いはそこにあると、私はそのころ思いましたね。西洋の芸術論は人格なんかよりもその人がつくりあげたフォルムと美を問題にしている。けれど日本の芸術論は型の芸術。型というものはだれがやっても同じなの。だのに違う。何が違うのかというと、その人が持っている教養、人格、人間性、そういうものが滲み出るのよ、型を通して。だから、その人が高潔であれば高潔の芸になるし、ダメな人はやっぱりダメなのよ。そういう人間論とかかわってくる。質ね。その人間の質の高さが芸を決定する。それはもう、若いころ、わかった。これが日本の芸術論の西洋と違うところだなということがね。

 昭和38年ころ「橋姫」制作。これは『無限花序』所収、『短歌』昭和38年11月号掲載。

馬場  私の曲り角になった記念作なので「橋姫」について少し言ってみたいと思います。これは能「鉄輪(かなわ)」という中の文言をエピグラフとして前置しています。「思ふ仲をばさけられし怨の鬼となって、人に思ひ知らせん、憂き人に思ひ知らせん」というのですが、この女シテは、愛執の心が深すぎて、結局鬼にはなれず、濃い闇の中に消えてゆきます。


  草むらに毒だみは白き火をかかげ面箱に眠らざるわれと橋姫
  貴船川水辺の夏の犠魚に嵌めこまん赤き橋姫の目を
  子を欲らぬ男の愛のさびしさに木の洞の口ひらく橋姫


「橋姫」というのはじつは能面の名称の一つで、とても哀しい怒りの眼に血涙をためている凄まじい面です。まさに思いをとげられなかった怨みの面です。
(中略)
 山中(智恵子)さんの「鳥髪(とりかみ)」は左派的視点ですがどっちかといえば精神的な極左で、水原紫苑さんが精神的な極左であるのと同じなんですよ(笑)。
―――  古典性と劇的空間性と劇に仮託する思いみたいなものは何となくわかるのですが、安保闘争の敗北感の回収みたいな、それはどういう感じなんですか。
馬場  今考えてみればばかばかしいんだけど、「指令どおり、毎日デモへ行ってただけじゃないか」と思うんですけど、そのときにとても不思議な示唆的なことを体験していました。
 これは単なる符合の一致なんですが、私がデモの帰りに稽古場に行って何を舞っていたと思いますか。「巴」という能を師匠は選択して、舞わせていたんです。「巴」は、木曾軍団が壊滅した後、ただ一人生き残って故郷に帰る女なのよ。それを舞わせているんです。師匠は私の能以外の活動を知ってたわけじゃないのに、まるで占ったみたいに「巴」を舞わせるんです。
 私は、長刀をふるって奮戦したあと、木曾軍団が壊滅したあとに泣きながら一人、装束を替えて故郷に帰っていく女を演じていて、安保以後の時分は一つの語り部として、他人を語るのではなく、自分を語るほかないと思い始めるんです。愛の裏切りと政治の裏切りというものを重ねて歌おうと思ったのが「橋姫」です。
―――  意識的にそうしようと思ったんですね。
馬場  意識的にそう思った。だから表面的には愛の葛藤しか歌ってないんだけど、発表の時点では政治の裏切りへの思いが、ある人にはわかったはずだと思います。それを永田(和宏)さんが最初に取り上げてくれました。近年には阿久津英さんが取り上げてくれたのがあります。とてもいい文章で私はありがたく思っています。

 葛原妙子と斎藤史について、

―――  葛原さんは今、人気だけど、リアルタイムでも歌壇でそんなに評価されていたんですか、あの作風で。
馬場  斎藤史さんと二人ともすごい尊重をうけていましたよ。塚原邦雄、春日井建、寺山修司たちが尊敬していたのだから。
―――  年下の男性陣ですね。
馬場  囲まれてたでしょう。そういう男性にね。
 私は斎藤史の歌はわかりやすく、親しいものでした。斎藤史は与謝野晶子の最晩年の『白桜集』の系譜を引いていると思っています。そしてその歌い方はほとんどわれわれもできる範囲になっていた。だけども、あの歴史的背景を持っていないから、そんなふうに世の中や社会のことを歌ったってだれも納得しないから、あれは斎藤史の独擅場で、われわれはやるべきじゃないということでしょ。その間にもう一人、生方たつゑがいたわけですよ。
―――  同世代ですか。
馬場  近いですよ。生方さんはみんなが「にせもの」だと思っていたけど、私はね……。努力の人だと思いますよ。生方たつゑは写実系から浪漫系に入ってきて自己完成した人なの。岡本かの子や原阿佐緒などと逆なので、非常におもしろいと思っている。あの人は「国民文学」の人ですね。主題制作を最初にやったのは生方ですよ。能の稽古もしていたし、「葵上」「卒塔婆小町」などを素材として、いくつか劇的な作をつくってます。あれは三島由紀夫の『近代能楽集』(昭43)を真似たんだと思うけれど。

 この後でも葛原妙子のことを前衛男性にはバイブルだったと言っている。
 老いについても語っている。

馬場  やがて穂村さんも経験すると思うけど、70過ぎると親しい人や知人がつぎつぎ死んでいく。自分を知っている人がみんな死んでいくんです。自分の過去を知っている人がどんどんいなくなるんですよ。〈誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに〉(藤原興風)と、平安時代の老人の気持ちと同じなんですね。つまり、自分を知る人がいなくなる。それはすごく寂しいことで、若者と一緒にわいわいやっていても、本当のところ仲間として私は入れないでしょ。
 この寂しさは年とればみんなが持っている寂しさで、享受しなければいけないものだと思う。

 私だってまだ70前だけど、親しかった友人7人のうち、もう4人が亡くなってしまった。
 本当に楽しく読んだ。240ページの本だが、この倍あればもっと良かったのに。