無矛盾――何度でも甦るもの (取り扱い注意)

元ネタ: http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080507/1210087645

注意:これは100%ネタです。ゲーデルの完全性定理、不完全性定理についてきちんとした理解をしていない人が読むと誤解を招く可能性があるので、出来ればそういう方は読むのを避けてください。これを読んでどこが冗談なのかがわからないようなら、あなた自身のためにも不完全性定理について書くのはやめておいたほうが良いと思います。ついでに言っておくと、日本語もめちゃくちゃです

ゲーデルが証明した完全性定理というのがある。その詳細は、難しくてぼくもよく理解できないのだけれど、すごく簡単に解釈すると、「正しいことは全て証明することが出来る」というもの。つまりゲーデルは、数学(あるいは証明)は完全なものであるということを、数学的に完全に証明してみせたわけだ。

これは世界をひっくり返した。なにしろ、「人間は全てを理解できる」ということを証明していることでもあったからだ。

それまで、論理というのは不完全なものだと思われていた。それ以外の分野に比べ、保守的で、臆病で、重要な問題に結論を出せないものだと思われていた。それが、いわゆる「論理的」ということの意味だった。

だからよく、「それは論理的には解明できないのでは?」と言う人たちがいた。彼らは、この「論理的」という言葉を、不完全で、使いようがなく、保守的で、臆病で、重要な問題に結論を出せないもの――という意味で使っていた。また、論理とはそういうものだというのを、みんな信じて疑わなかった。

それを、ゲーデルが全てひっくり返しちゃったのである。論理学が、彼らの言うような「論理的」なものではないことを、他ならぬ論理の力によって証明して見せたのだ。

こう書いてるだけでもとてもややこしいのだが、ゲーデルが証明したのは、証明というのが矛盾なしでしかできないということだった。そしてこの彼の証明自体、ゲーデルの言うように矛盾をはらんでいないのだとしたら正しいようにも思えるのだが、しかしゲーデルは、証明そのものが必ず矛盾しないことを証明しようとしているわけだから、それはそれで正しいとも言えた。つまりこの一連の証明行為そのものも、正しくもありまたやっぱり誤ってもいないという無矛盾にもなっていて、ユニークな入れ子構造をなしている。*1


それはさておき、だいじなのは「無矛盾」である。
ゲーデルは、この証明によって無矛盾というものの存在の大きさもまた証明した。なにしろ、無矛盾は、それまで世界を解明することから一番遠い場所にあると思われていた。無矛盾をすべて排除した上で成り立つのが世界だと考えられていた。「無矛盾」と「世界」はほとんど対義語のようなものだった。
そんな水と油の関係だったはずなのに、世界の中に無矛盾が突如現れたのだ。それも、否定できない中心的な存在として、排除できない絶対的な存在として。それほど無矛盾というのは、どこにでも現れる、また排除しようとしても何度でも甦る、非常に強い概念だった。


このゲーデルの証明以来、この世に矛盾するものはなくなった(なにしろ最後の砦である世界までもが屈服させられたのだ!)。それは、この世界を構成する全てのものが無矛盾していないということの証明でもあり、言い換えるなら、この世界そのものが無矛盾であるということでもあった。

無矛盾というのは、どこへ行っても現れる。それは、切っても切っても現れる金太郎飴のようなもの、あるいはフラクタルにおける葉っぱの図形のようなものだ。全体的に見た時も現れるし、局所的に見た時にも現れる。排除したと思ったところに現れるし、忘れた頃にやってくる。いつでもどこでも何度でも、必ず現れるのが、この無矛盾というものなのだ。

「無矛盾は滅びんよ、何度でも甦るさ!」

それが、無矛盾というものの正体だった。

*1:自分で書いていて、というより読み返してみても、何の意味もないのに訳がわかりません。