喜心大心

喜心(きしん)は感謝と喜びを絶やさない心、大心(だいしん)はすべてを包み込む大らかな心という意味です

「一日一善運動」を復活させる

「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること」

 

短い言葉ですが、これが仏教徒としての私のモットーであり、これを実践すれば誰もが幸せになれる(はずである)と以前に記しました。

 

そして会社を定年退職して社会との接触が減ると、なかなか善いことを行う機会に恵まれないとも書きました。

 

そこで、善行の機会をじっと待つのではなく、自ら進んで機会を掴むことを提唱したいと思います。

 

ずばり、「一日一善運動」の復活です。

 

正確には「一日ゼロ悪一善以上運動」で、悪いことを一つでもしたら全く意味がありませんし、善行は一日に何度しても構いません。

 

それでは、具体的に何をしたらよいでしょうか。

 

「正法眼蔵」の「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうほう)」の章で、菩薩が実践すべき行いとして紹介されている「布施」「愛語」「利行」「同事」が参考になります。

 

「布施」は一般的に、葬儀や法事の際に僧侶に渡す謝礼金と理解されていますが、ここでは金銭や財物などを無償で提供する行為を指し、相手を選びません。

 

慈善団体や被災地への寄付などは、その最たるものと言えるでしょう。

 

道元は「そのもののかろきをきらわず、その功の実なるべきなり(与えるものが少々でも、その功徳が真実であるならばそれでよい)」と記しています。

 

「愛語」とは、慈しみの心を持って言葉を発することです。

 

周りに不安で苦しんでいる人がいたら、勇気づける言葉を掛けてあげましょう。

 

そして頑張った人は褒めたたえ、必要と思ったときにはしっかりと叱ることも大切です(これはなかなか難しいですが)。

 

「利行」は困った人を助け、自分の利益よりも他人の利益を優先することです。

 

道に迷っている人に声を掛けたり、電車でお年寄りに席を譲るといった一般的な善行は、ここに含まれます。

 

情けは人のためならず、という言葉がありますが、道元も「愚人おもはくは、利侘をさきとせば、みずからが利はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自侘を利するなり(愚かな人は他人の利益を優先すれば、自分の利益が失われると思うだろうが、そうではない。他人のための行為は唯一の真実であり、広く両者の利益になるのである)」と書いています。

最後の「同事」をめぐってはいろいろな解釈があるのですが、私は、相手の立場や気持ちを思いやることと理解しました。

 

いくら本人が善いことをしているつもりでも、相手に「余計なお世話」と受け取られてしまったら、それは単なる自己満足で、善行とはいえません。

 

以上、私も今日から、できるところから実践し、一日一善を心掛けたいと考えています。