喜心大心

喜心(きしん)は感謝と喜びを絶やさない心、大心(だいしん)はすべてを包み込む大らかな心という意味です

転換点を迎えた日本の葬式仏教

ここ数日、「葬式仏教」に関する本を多読したので、頭の整理をかねてまとめてみたいと思います(ところどころ私見も交えています)。

 

日本では中世まで、庶民が亡くなっても葬儀は行わず、遺体は河原や道路わきなどに捨てられていました。

 

当時の僧侶は官僧で、国家の安定を祈禱するのが第一の仕事であり、死は穢(けが)れとして忌み嫌われていました。

 

ところが、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮ら遁世(とんせい)僧を祖師とする鎌倉新仏教が登場すると、状況は一変します。

 

死者を極楽浄土に導く儀式としての葬儀が一気に広まり、僧侶が埋葬に積極的に携わるようになったのです。

 

日本のお寺の9割近くが、室町時代の後期から江戸時代の初期に建てられましたが、その背景には、葬儀の普及とお寺を中心とした村落共同体の成立がありました。

 

1635年、江戸幕府が全国民にキリシタンでないことを証明する寺請証文の提出を命じ、寺請制度が成立すると、お寺とその檀家である村民の結び付きは強固なものとなります。

 

村民は「御条目宗門檀那請合之掟(ごじょうもくしゅうもんだんなうけあいのおきて)」(後に偽書と判明)に従って、仏忌やお盆、彼岸などにお寺を参詣することや、死者に戒名を授けてもらうことなどが義務付けられましたた。

 

その一方で、お寺は葬儀や法要を営むだけでく、教育(寺子屋など)、救済(駆け込み寺など)、レクリエーション(お祭りなど)の場を提供する役割も果たしました。

 

明治になって寺請制度は廃止されましたが、お寺と檀家の関係はそれほど変わりませんでした。

 

両者の関係に大きな変化を及ぼしたのは、戦後における村落共同体の解体です。

 

都市部への人口流出や核家族化、価値観の変化により、檀家は減少し、お寺は必ずしもその地域に必要な存在ではなくなりました。

 

そして、昨今のコロナ禍が葬儀の簡素化に拍車を掛けます。

 

感染予防対策として少人数による家族葬を余儀なくされましたが、人々は葬儀に多額のお金をかける必要がないことに気付き、コロナ禍が終了した後も家族葬が葬儀の主流となっています。

 

もともと日本のお寺は葬儀の普及によって各地に建てられ、葬儀や法要の際のお布施を主要な収入源としてきました。

 

葬儀の数が減少、あるいは規模が縮小すれば、立ち行かなくなるのは当然でしょう。

 

時代の逆戻りが許されない中、お寺とその住職は、新たな存在意義と経営基盤を見つけ出さなければなりません。

ブッダの死を喜んだ弟子がいた

釈尊の入滅を喜んだ弟子がいたのをご存知でしょうか。

 

パーリ仏典の長部経典の「大パリニッバーナ経」には次のような件(くだり)があります。

 

(釈尊の入滅後)年老いて出家したスバッダはそれらの修行僧にこのように言った。「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。(このことはしてもよい。このことはしてはならない)といって、われわれは悩まされていたが、今これからは、われわれは何でもやりたいことをしよう。やりたくないことをしないようにしよう」と。

 

サラリーマンの立場なら、「口うるさい上司が転勤でいなくなってせいせいした」といったところでしょうか。

 

大パリニッバーナ経には、釈尊の最後の弟子となる、同じスバッダという名前のバラモンが登場し、2人は同一人物という説もあるのですが、発言の背後には長年積もった不満がうかがえ、別の人物と考えていいでしょう。

この件を初めて読んだとき、なんとも不可解な思いに囚われました。

 

釈尊には数多くの弟子がいたので、もちろん中には(デーヴァダッタのように)反発を抱く弟子もいたでしょう。

 

しかし、そんな弟子の暴言をわざわざ経典に残して後世に伝える理由が理解できません。

 

コーカーリヤのように、スバッダがその後、全身に腫れ物ができて亡くなり、紅蓮地獄に生まれ変わるというのなら、まだわかりますが、スバッダはこの発言以後、二度と出てきません。

 

スバッダの発言に驚いたマハーカッサパが、釈尊の教えを守る必要を感じ、第一回結集を開いたともいわれますが、どうもピンときません。

 

中村元氏は「ブッダ最後の旅」(岩波文庫)の注で「いかなる偉大な宗教家でも、すべての人を心服せしめるということはできなかったらしい」「開祖を崇敬する経典作者としてはこのような不敬なことばを載せたくなかったであろうが、あまりに衝撃的な事件であったので、削除することができなかったのであろう」と解説しています。

 

さて、ここからは素人の推理です。

 

大パリニッバーナ経を何度も読んで、私があらためて注目したのは、釈尊が入滅する直前に弟子のアーナンダに語った言葉です。

 

「アーナンダよ。私が亡くなったのちには、もしも欲するならば、瑣細(ささい)な、小さな戒律箇条は、これを廃止してもよい」

 

経典作者は、釈尊のそれを許容する言葉と、スバッダの不満の声の両者を盛り込むことで、あまりに細かくなりすぎた律(教団の規則)を変更するための道筋を付けたかった(あるいは、伏線を張りたかった)のではないでしょうか(結局、律は変更されませんでしたが)。

 

そう考えると、スバッダの唐突な発言も納得がいきます(ただ、そのためにスバッダという名前が悪名として記録されるのはかわいそうな気もします)。

スマナサーラ長老と仏教ブーム

「平成仏教ブーム」という言葉がありました。

 

そうしたブームが本当に存在したのか、仏教関連書を売るために出版社が作ったキャッチフレーズなのかどうか、私にはわかりません。

 

ただ、ブームがあったとすれば、その中心にいたのは間違いなく、スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老のアルボムッレ・スマナサーラ氏(79)でしょう。

そして同氏の人気は今も間違いなく続いています。

 

スマナサーラ氏は13歳で出家し、ヴィダヤランカラ大(現ケラニヤ大)で学び、教鞭を取った後、35歳のときに国費留学生として来日。

 

駒澤大学博士課程で道元の思想を研究し、46歳で再来日すると、1994年、49歳のときに日本人信徒らとともに日本テーラワーダ協会(現日本テーラワーダ仏教協会)を設立しました。

 

パーリ仏典の教えを現代人向けにわかりやすく解説した本や、ヴィパッサナー瞑想のやり方を記した本など、数多くの著書を精力的に出版し、中でも「怒らないこと」(サンガ新書)は、発行部数20万部超という仏教書としては異例のベストセラーになりました。

 

私の部屋の書棚にも、書店やネットの古本屋で買い求めたスマナサーラ氏の本が10冊以上並んでいます。

 

私が中村元氏の本を通じて初期仏教にはまり、そこから仏教徒への道を歩み出したというのは以前にお伝えした通りですが、スマナサーラ氏は現在の日本において、初期仏教の案内人として極めて貴重な存在であると思われます。

 

1年ほど前ですが、名古屋で行われたスマナサーラ氏の講演会に足を運んだことがあります。

 

有料の講演会だったのですが、会場は10代から70代までとみられる男女で満員で、その熱気に圧倒されたことを憶えています。

 

こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、そのときに私が抱いたのは、人生に思い悩んだ人たちがスマナサーラ氏のファンになるのは、怪しい新興宗教を信じるよりもはるかにましだろうという思いでした。

 

実は、曹洞宗をはじめとする日本の伝統宗派には、スマナサーラ氏を敵視する見方があります。

 

それは、スマナサーラ氏が「テーラワーダ仏教こそ釈尊本人の教えであり、大乗仏教はそうではない」と明言していることが、一番の理由かと思われます。

 

ただ、日本テーラワーダ仏教協会は葬儀は行わず、自分の菩提寺でやればいいとはっきり言っていますから、実際には「葬式仏教」の伝統宗派と競合することはありません。

 

伝統宗派がテーラワーダ仏教を本当の意味でライバル視するなら、大乗経典や宗派の教えの魅力を一般向けにわかりやすく伝えることや、「葬式仏教」から人々の悩みに答える「生活仏教」へ転換を図ることを、まず第一に検討すべきでしょう。

人の口の中には鋭利な斧がある

「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を切り割くのである」

 

これは「スッタニパータ」の「コーカーリヤ」の章に出てくる釈尊の言葉です。

 

修行僧のコーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナ(釈尊の十大弟子で、それぞれ「智慧第一」「神通第一」といわれた)に敵意を抱き、釈尊が何度諭しても悪口を繰り返したことから、やがて全身に腫物ができて死に至ります。

 

そして紅蓮地獄に生まれ変わり、鉄の串に突き刺され、銅製の窯で煮られるなどの苦しみを、「荷車に積んだ胡麻の数ほど」の長い年月、味わうことになります。

 

聖者の悪口を言っただけで、どうしてここまで悲惨な目に遭うのかと不思議に思わないわけでもないのですが、釈尊は言葉がもたらす災いの大きさを強調したかったのでしょう。

 

趣旨は若干異なるのですが、「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている」という言葉を、この年齢になって痛感しています。

 

これまでの人生において、「あんな台詞を口にするんじゃなかった」という後悔が実に多いのです。

 

自分が軽々しく発した言葉で深く傷つけてしまった人たちに、今からでも償えるものなら償いたいという気持ちです。

 

「言葉の暴力」とよく言われますが、言葉の破壊力はときに、殴る、蹴る程度の暴力では済みません。

 

まさに斧か、切っ先の尖った刃物と言っていいでしょう。

 

その言葉を口にした当時は「ずっと言いたかったことをようやく言えた」と清々した気分に浸るか、「高慢ちき野郎の鼻をついに折ってやった」と得意がるばかりで、言われた相手がその何倍、何十倍も心を痛めたことに思いを巡らせることができませんでした。

 

相手の何気ない言葉に自分が苦しんだ経験がありながら、それを性懲りもなく繰り返すのは、「世の中は言ったもん勝ち」という考え方が頭に染みついてしまっているからかもしれません(私のサラリーマン時代の職場は、まさにそんな風潮がありました)。


「正法眼蔵随聞記」には次のような件があります。

 

「学道の人、言(ことば)を出(いだ)さんとせん時は、三度(さんたび)顧(かえりみ)て、自利利他の為に利あるべければ、是を言ふべし。利なからん時は止(とどまる)べし(学道の人は、ものを言おうとするときは三度考えて、自分のためにも他人のためにも有益であるならば言えばよい。有益でなさそうな時には言うのを止めるべきである)」

 

三度は無理かも知れませんが、これを心掛けようと思っています。

日本の葬式仏教と僧侶の信仰心

現代の日本の仏教界を揶揄する「葬式仏教」という言葉をご存じでしょうか。

この言葉には、僧侶は葬儀や法要を形式的に執り行うだけで、人々の救済や人生の指針の提供など、宗教本来の役目を果たさないという批判が込められています。

 

もともと原始仏教では、葬儀を執り行うことは出家者の役目ではありませんでした。

 

パーリ仏典の「大パリニッバーナ経」によると、死が間近に迫る中、弟子のアーナンダから葬儀のやり方を尋ねられた釈尊は「お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ」と述べ、在家の信者たちに任せるよう命じています。

 

インドで仏教が滅びたのに対し、日本で仏教が根付いたのは、通過儀礼と結びついたからだという指摘もありますが、葬儀や法事にしか僧侶の出番がないというのは、本末転倒でしょう。

 

最近読んだひろさちや氏の本に、葬式仏教を皮肉るこんなジョークが紹介されていました。

 

子供の不登校に悩む母親が、お寺の住職に相談に行った。

 

すると和尚が言った。「わしはナマモノは扱わんのじゃ。死体になったら持っておいで」

 

同じ仏教に携わる身として、まったく笑えない話です。

 

私が子供のころ、つまり今から半世紀前になりますが、親の手に負えない子供を寺に預ける、というのは、社会の慣例として普通に口にされていたように記憶しています。

 

実際に見聞きしたわけではありませんが、不登校児(今でこそ当たり前になりましたが、当時は許されない雰囲気がありました)を一時期寺で預かり、修行させるようなこともあったのではないでしょうか。

 

つまりこの50年で、日本の仏教の形骸化はさらに進んだようです。

 

もし今、人生に思い悩んだ大人が、仏教に救いを求めようとしてお寺を訪ねたら、住職は一体どんな対応を示すでしょう。

住職はまず最初に「あなたはうちの檀家かね?」と尋ね、当人が否定すれば、「菩提寺がきっとあるはずだから、そこに相談に行きなさい」と勧めるでしょう。

 

あるいは「それは私の専門じゃないから、精神科医か心理カウンセラーを訪ねなさい」とたらい回しにするかか、もっとぞんざいに「今は忙しいから、またにしてほしい」と断るかもしれません。

いずれにせよ、「自分にも家庭やほかの仕事があり、面倒なことには関わりたくない」というのが多くの住職の本音であり、仏法を広めようなどとは少しも思わないでしょう。

 

檀家制度の崩壊から仏教の危機が叫ばれて久しいですが、何より僧侶本人が信仰心を取り戻すことが最優先の課題かと思われます。