数学を勉強することの意味――「1+1」の思想


勉強することの意味を尋ねられたらどう答えようかな、などとはよく考えることがあるけれども、今日は特に数学に限定して考えてみようか。先日、数学を勉強するのは論理的思考を養うためだという旨の説明を横耳で聞く機会があって、それも一つの説明だろうなとは思いながら、ただそれだと国語との差別化が難しくなるだろうと感じていた(実際、その人は数学≒国語だと結論したのである)。

他の説明(説得?)の仕方としては、数学は現に「必要」になるし「役に立つ」んだということを示す方法や*1、数学は意味など無くても単純に楽しいものなんだよと見せつけるアプローチなどがあるのだろう*2。ただ、これらは誰にでも当てはまるわけではないという意味で、論理的思考の訓練であるという説明に比して汎用性は低いように思う。そこで、一種のトレーニングのためであるという説明の方向性を維持しつつ、国語とは区別された数学の独自性を損なわない形で論を立ててみよう。


一言で言えば、数学を勉強することで養成されるのは、「モデル化」の思考である。「モデル」とはプラモデルのモデルと同じで、日本語にすると「模型」とか「型」などといった意味だ。「〜化」とは、何か/誰かが他の何か/誰かに変わる(あるいは何か/誰かを他の何か/誰かに変える)ということだから、数学は模型や型の作り方をトレーニングする教科であることになる。とは言っても図工や技術とは違うので、数学での模型は、あくまでも頭の中やノートの上に作られる。つまり、単純なものから複雑なものまで、教科書や黒板に並んだ様々な数式の一つ一つが、その模型なのである。

じゃあ、それらは一体何の模型なのか。「現実」の模型である、というのが答えだ。地球儀は地球の模型である。私たちのほとんどは実際の地球を外から見ることはまずできないけれども、地球の模型を作ることによって、あたかも外側から地球の全体像を見ているかのような疑似体験をすることができる。模型は、そのままでは理解しにくい現実を身近なものにしてくれるのだ。

数学で鍛えられるのは、地球儀の作り方だと思えばいい。模型は出来てみるとどうってことのないように見えるが、自分で作るとなれば大変である。さて、見たこともない地球をどうやって模型にしたらいいだろうか。膨大で途方もない地球を、どのようにして卓上サイズに表現したらいいだろうか。地球儀の作り方は既に確立されているかもしれないが、まだ確立された模型の作り方が無い「現実」など、この世には腐るほどある。生活の中でそういう「現実」を理解する/させる必要のある場面にぶち当たった時には、自分なりに考えて何とか模型を作ってみせなければならない。そこに数学を勉強する意味が見つけられるのだ。

私たちの周りに在る現実は、途方もなく巨大・膨大なものから呆れるほど微小・細密なものまで、様々なものごとがあるけれども、どれもが互いに絡み合って、とんでもなく複雑な姿をしている。教科としての数学が養成している「モデル化」の力というのは、そういった複雑な現実を理解しやすくするために単純化する方法なのである。一個一個の具体的なモノゴトを数字や数式という形式的なもの(型)に落とし込むこと――難しく言えば「抽象化」――を通じて、色々なケースに共通して適用できる考え方や解決策を編み出す仕方を学ぶ。そうやって身に付けられた力は、複雑な社会を生きていく上で役に立たないわけがない。

大事なのはあくまでもモデルの「作り方」なのだということを、忘れないで欲しい。ただし、それは(よく言われるように)数学で習う様々な公式などは重要でない、ということではない。重要なのは自分でモデルを作れるようになることだが、全くのゼロから作られる完全オリジナルなモデルなど、まず無い。だから、既に出来上がっている模型をしげしげと眺め、それがどのようにして成り立っているのかということを頭に入れておくことは、自分で作る段にも考える材料として役立ってくれるのである。オリジナルはコピーからしか生まれないのだから、オリジナルであろうとすることをコピーから逃げることの言い訳にしてはいけない。


さて、ここまでが消化できたとすれば、さらにもうワンステップ進んでみようか。数学は「モデル化」を学ぶ教科であり、「モデル化」が現実の世界/社会を人々が理解する上で活用されている技術だとすると、数学で教えられていることというのは、世界/社会に対する私たち人間の理解を左右している有力な考え方の一つである、ということになる。少し大げさ気味に言うと、それは私たち一人一人の頭脳を通じて世界を支配している「思想」である、ということだ。したがって、数学の勉強を通じてこの「思想」にどっぷりと浸かり込むことは、世界を支配している考え方の特徴を深く理解することであると同時に、その考え方を成り立たせている「思想」的な前提にまで掘り進むことで、支配的な考え方から脱却する可能性を手にすることでもある。

例えばそれはこういうことだ。数学では、事物Aと事物Bが在る状態を「1」と「1」で記述し、併せて「1+1」すなわち「2」と表現する。しかし、その時に異なる事物を同じ「1」として、「1+1」を成り立たせている前提は何だろうか。箱の中にリンゴAとリンゴBが在る時、それを「1+1=2」で「リンゴが2個在る」と私たちは言う。その際、AとBが確かに異なる個体であるということは、捨象されている。モデル化である。何かが「2つ」と数えられる時、いや実際には「1つ(の〜)」と数えられる時には既に、個体間の「絶対的な差異」というものは考えないことにされているのである*3

注目されているのは同じ「リンゴ」であるということだ。実際、箱の中にリンゴAとミカンBが在る時、私たちはそこに「2個在る」とは、先程と同じ仕方では、言わない。そこでは、同じ「リンゴ」であることと、同じ「ミカン」であることの相対的な差異が効いている。言うまでもなく、リンゴAとミカンBを同じ「果物」であると考えれば、私たちは「果物が2個在る」と言うことができる。相対的な差異を効かせるグルーピングの範囲を移行させているわけだ*4。同じように、私たちは箱の中にリンゴAとヒトBが在る状態を見て「2個在る」とは普通言わないが、「有機物が2個在る」とか、あるいは単に「物体が2個在る」などと言うことはできる。

「1+1」を可能にしてる相対的思考を理解できただろうか。相対的であるとは恣意的であるということで、つまり数学の問題でリンゴやミカンやヒトやウシやエンピツを同じ「1」に数える問題が出ないのも、恣意の結果である。何も無い部屋に自分とケシゴムだけが在る場面を想定する場合、私たちは自分とケシゴム「2人/2つ/2個」きりだとは思わないだろうが、それは私たちが勝手にグルーピングの設定を選択しているだけで、外から部屋を監視している誰か/何かは閉じ込めた対象を「2個」と数えていて不思議でない。「1+1」を可能にしている前提の中でも、個体の「絶対的な差異」を便宜的にでも消去することが可能であるとする数学的思考と、その結果為される恣意的なグルーピングの設定を本質化しようとする政治的思考を区別しておくことが必要だろう。

「思想」の問題として重要なのは個体が「1」と数えられて(しまって)いることであり、ヒトとケシゴムを同じ「1」と数えるべきか否かは、政治の問題である。個体が「1」と数えられるのであれば、ヒトもケシゴムも同じ「1」と数えられる(したがって「1+1=2」とできる)ことは自明なのであるから、それは選択であって原理ではない。ヒトのために世界を改善しようとするのも、ケシゴムのために世界を改善しようとするのも、思想的には等価だ。

つまり、思想的に尖鋭なところは、対象が人間であるかどうかなど無関係である。焦点は、形も色も模様も大きさも重さもなった木も来歴も今の位置も何もかも違うリンゴ「この」Aとリンゴ「その」Bを、それぞれ同じ「1」と見做し、「1+1」なる形で足し合わせることがなぜ可能なのか、という単純な問いに定まっている。「見做し」という行為はそれとして可能なのだから、「なぜ」を問うても意味が無い、との指摘にはそれなりに首肯しよう。ただし、それは問題を技術的な水準に還元する身振りを以て、既にして一つの思想に身を委ねていることではないのだろうか。見做すべきではない、などと主張するつもりはない。しかし見做すか否かに議論を限定することで、見做すことを可能にしているものについて考えることをしないのであれば、それは私たちの世界認識のかなり原初的な前提についての問いに封をすることになってしまうのだと思う*5

随分個人的な問題関心に話が偏ってしまったように受け取られるかもしれないが、ともかくも数学を学ぶことは、技術的な意味だけでなく、思想的な意味でも世界についての認識や理解に深くかかわっているのだということを解ってもらえれば、それでいい。

*1:例えば以下。

*2:とっかかりとしては、小島寛之さんの一連の著作を読めばいいのかな。

キュートな数学名作問題集 (ちくまプリマー新書)

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*3:しかし、それは考えないことにできるのだろうか? もちろん少なくとも数学は――そして私たちを支配している「思想」は――それができるという前提で成り立っている。

*4:別に「食べ物」でも「丸い物」でもいいわけで、「果物」であることに必然性など無い。

*5:こう言い換えてもよいだろう。すなわち、特殊性と単独性の区別に論を集中させるだけではなく、特殊性の「はじまり」にも論を進めるべきである、と。