右の頬を罵倒されたら、左の頬を差し出す(Q)

私は日記を書くのが好きだし得意だと思っているが上手ではないので、書こうとしていたことが全く書けていない、かもしれない、なぁ、日記に書いたことが間違っていないか、というのは自分でもある程度検証できるだろうけど、最初から日記に書かれている情報量が不足しすぎで自分以外には理解できない、という状態になっても自分では脳内補完して自分の日記を読むのだからそのこと(情報の不足)に気付けないのでおそろしいことだ。私は他の人の日記を読んでいて意味が分からないと思うことはほとんどないので自分の日記もそうだろうと思っていたけれど、私の日記は特別に情報が足りなすぎて他人には理解できないものであるかも知れない、そして私は日記上での対話をほとんどしないからそのことに気付いていないかも知れない。そういう悩みを解消するためにはtellは確実に有効だろうから、それをする理由が一つ見つかった、もちろんこれは自分にとって有用であると言うことでしかないので、それを他人に要求するには相手も同じように自分の文章が理解できないものであるかも知れないという悩みを持っていることが明らかであるか、自分が彼の文章を読んで実際に意味が分からない時にはそれが出来る、という気がしますが、そうでない場合にどうすればいいのか。そこで私は一つの商売を思いつきました。投げ銭を対価に文章を要約する、と言うものです。一文字1ptで引き受けます。6ptなら六文字なので要約は大体の場合こうなります。「色々あった。」。このビジネスは高い読解力、特別な要約技能をもつ人がやれば良いというものではなく、特殊な読解力、平均的な感受性を対象に文章を練り上げた方が良いと言うこともありますから、簡単にどなたでも始められます。
要約と言えば清水義範の『国語入試問題必勝法』(ISBN:4061847740)を思い出します、と言うかさっきの六文字で要約、もこの本に載っていたものです。国語が入試問題として成立しうる、ということは、良い読解悪い読解があるのかどうかと言う問題をおくとしても同じ文章を読んでもかなりの割合でそれぞれが違う解釈をする、ということなので、このビジネスはかなりの需要があるのではないかなぁと思っていますのでよろしくお願いします。投げ銭はこちらからどうぞ。
まだ依頼が来ないので自分の文章の解説をします。改めて読み直してみるとひどい。説明不足すぎるので。自分でもかなりギリギリだ。

"その時私が正しいと思っていること"は"その時私が正しいと思っていること"でしかなく、それが変化する、ということは今の私から見て将来の私は正しくない方向へ変化する、ということなのだから、今の私の正しさを信じている私はそんなことを望めるはずがないのではないか。

"でしかなく"がおかしい。"その時私が正しいと思っている価値の基準"が私が評価する際の基準なのだから、私の持つ基準とは別にもっと正しい基準があることを想定しない限りその基準がより正しくなることは想像できない、そして私は自分の外に誰から見ても公正であるような基準があるとは思っていないので、そのようなことは想像も期待もできない、という意味です。

経験的に、その時正しいと思っていることが後で正しいと感じられなくなることがあるのは知っているけれども、それを期待する、自分の今を特別なもので無いように感じることが出来るのだろうか、出来ない、と思う。

"自分の今を特別なもので無いように感じる"が完全に唐突で意味不明なので解説します。自分の人生を連続して変化するものとして俯瞰する立場からすると、私の<今>はそのうちの一点でしかないので、<今>の私がもっている価値の基準は、時間的に連続する<私>からすると唯一の基準ではない、<今>の私の価値が一番正しいかも知れないし、もっと未来か、もっと過去の<私>の価値が正しいかも知れない、と比較することが出来る。そういう、<私>の人生を俯瞰する<メタ私>のようなものは想像できるけれども、実際にそうなることは出来ない、というような意味です。それが実際に想像できるという気がする、そしてそれは<今>の<私>が持っている価値とは異なっている、という状態になりうるかどうか? なり得ない、と言う話です。

どこかに理想の議論の進め方があってそれに従えばどの集団にとっても同じ答えが出るというものではない、と詩的には思うけれども世の中にはそうでない議論も沢山ある、人や集団に従属しない結果が出る種類の議論もある、と言うことで、議論という言葉を使うのは止めます。

ここはなんか嫌味な書き方になっているので申し訳ないですが、実際に私が議論を凄いものだ、とする言い方に出会った時に抱く思いに近いです。
人によって"議論"の定義が違うので、あれですが、きちんと説明しようとすると例え話になってしまいますが、例え話にすると、"議論"が"ゲーム"であり、"正しさ"が"ルール"です。「議論は正しさを志向して行わなければならない」し、「ゲームはルールに則って行われなければならない」けれど、「ゲームに参加するのはルールに規定された動きを全うするためではない」し、「議論に参加するのは正しさに奉仕するためではない」と言うことです。「議論は正しく行わなければならない」けれど、「正しさを求めて議論に参加しなければならないわけではない」。参加する動機は別にあるけれども、正しさには従わなければならない、と思います。
ここで、「正しさに従わなければならない」というのは、それが道徳的だからとか、無根拠にそうでなければならない、と言うことではないです。正しさに従わなければ、議論において疎外され、正しさとは別にある動機、目的が達成できない、合目的的でないからです(ここで合理的と言わずに合目的的と書いたのは、全ての出来事には理由が見つけられるので合理的であると言い得るかも知れないので、合理的、と言う言葉は何も言っていないと考えることも出来るのに対して、合目的的と言えば、意識されている目的とあっているかどうかを重要視しているような感じが出るのと、合目的的という言葉が面白いからです)。
あと、書きたいこと。pending

  • 議論において"正しさ"とは別に"勝敗"が決まるという言い方はよく見るし、実感としてはそういうことはあると思うが、そのような事態はなぜ起こるのか(誰が正しさとは別の観点で勝敗を決めている、騙されているのか?)
  • shoutとtell
  • 今の私が美しいと感じるものではなく、もっと違うものを美しいと感じるようになりたい、ということは想像できるし実際にある、ので、それと"正しいと感じること"はどう違うかについて