美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 36

放心から覚めやまない孝之は自身のいきさつを語ることより、フカサワと名乗る男が超常現象とやらでここに存在している理由を切に欲した。
「わかりました。魚たちが飛びまわり始めるには少し時間があるようです。あなたが探している女性もそのとき見いだせるでしょうから、お話しましょう、この場にこうしているわけを」
フカサワの口調には、漂白され糊付けされたシャツのように端正で邪気がなく、整然とした配列を乱しはしない一貫した秩序が感じられた。
見たのですよ、、、唐突に、いや予期されていた心象に舞い降りる陰鬱な木の葉の様相で、いま初恵の事故の情況が詳らかにされようとしている。
純一から知り得た、幾重にも解釈し尽くされ不備だらけの、もっと掘り下げれば、他人事と聞き流すべき危惧をはらんだ真相がようやく手もとに戻ってきた。空を切ったブーメランのごとく。

運転する走行車のサイドミラーに映じた転落する浴衣姿、まぼろしとは言いがたい確信を裏打ちしている視覚、それは分析心理学者らが秘められる意味を再構成してゆく過程より、遥かに優れた解答へと導かれるはずである。
ここに佇んでいること自体が、そしてこうやって明解な論理を伝達していることがなによりの証左ではないか。
超越者の存在、それはこの世界以外の場所から訪れると聞かされて、容易に信じられないのは無理もあるまい。しかし、いくら文明が発達しようと科学が進歩しようとも、この天空をつきぬけ無限大にひろがっている大宇宙の神秘にどれだけ肉迫出来ると云うのだろうか。
個と個は断絶した入れものでしかないなどと云う考え方は、所詮矮小に定義された民主主義的なうさぎ小屋でしかなく、その精神はまさに進化を肯定し認知する一方で、不確かな領域への足踏みをかたくなに拒んでみせているだけなのだ。
それは安住を得たいが為の方便に過ぎない、なぜならばいかにも肥大した情報社会に生きるすべを身につけようと躍起になったところで、その情報自体がちょうど巡回する海流のように、めくるめく季節の到来のように、信頼と安寧で保たれているからであって、真に貴重で重大な情報など一般社会には決して流布されることなどない。
歴史の隠蔽は突然変異体の発覚を怖れるがゆえに、われわれの目のまえからあらゆる革新的な事象を消しさり、緩やかな進化と約束された未来を提示してみせる。
たとえば地球外生命体の確率を推定した「ドレイクの方程式」は一見数式を踏まえた理論であるが、銀河系における恒星惑星の計量はさておき、そこからなしくずしに展開される独断とも云える思弁は決して綿密なものではなかろう。
あくまでも仮説のうえの仮説に過ぎないのなら、せめてそこにより豊かな可能性を希求する精神を芽生えてさえてはいけないなどと言えまい。知的生命が有する星間通信手段が光速の域を脱しえない理屈そのものを疑ってみる、つまりは現代物理学の成果とは別の位相で宇宙をとらえなおしてみれば、おのずから人類科学の限界を知らしめる嚆矢となるのではないか。
個と個は断絶などしていない。
山川草木にいのちが宿り、そこから様々な生命連鎖がくりひろげられ、言葉なきゆえにわれわれは直接コンタクトすることが出来ないけれども、大いなる力はすべてを熟知し、言葉が抱える矛盾を解くことを知らしめてくれる。
それは夢のなかに送られる真実のメーセージなのだから、秘められたものを探りだそうとか、新たに意味を付与しようなどとしてはいけない、ただ耳を澄ましひたすら受信機のように待てば、むこうから顕われてくるのだ。

ここで孝之は重い口を開いた。無論ある種の快感をともないつつ。
「ではあなたは、何が目的でここに」
「確認に来ただけです。能動的夢想による超越で示される可能性を検証したかったのです」
孝之にとって腑に落ちない論旨ではあるし、随所にさながら焼き印をあてているかの飛躍した思考に違和を覚えながらも、実際こうやって夢見を通じて顕われてくるものに向かいあう態度には共通するものがあり、宗教学者としても、彼の抱く異界への深い憧憬は理解しうる範疇にあった。
そもそも超常現象と宗教は切っても切れない紐帯で固く結ばれているのではなかったか。
仏陀入滅後、数十億年後に姿を見せる弥勒菩薩も、その気の遠くなる年月が授ける異相も、遥かかなたの星雲から人智を越え飛来する宇宙人のような尊厳を備えていればこそ、崇拝の対象として連綿と伝えられたのだ。
気休めにも似た、いや、不思議な親和が胸のなかで温かくひろがってゆく安心感に身をまかせようとしたのは、フカサワなる人物に遭遇したからに違いないのだが、孝之にとっては不埒な闖入者であることに変わりはなかった。
しかし彼を追い払う理由はどこにもない。己の陰に浸透し、持論を披瀝してくれたこの来訪はとてもこころ強かったからである。他者であろうと影法師であろうと、もはやそんなことに拘泥しなくてもかまわない。個と個は断絶していないのだ。
「さあ、魚たちが水面をはねています。そのさきにあなたの探している姿が見えるはずです」
フカサワの口吻は、運動会のかけ声のように勇ましく楽し気であった。