2025-01-05

⚫︎戯曲『想像の犠牲』を、ようやく読み始められた(半分くらい読んだ)。ひとまず、読み進めるための整理。

⚫︎設定として、まず、アメリカにいる「演出家」と呼ばれる人物によって書かれた戯曲(「想像の犠牲」)があり、それは(演出家の)〈弟〉経由で土井に届けられた。「演出家」はこの戯曲をアンドレイ・タルコフスキーの映画『サリファイス』を下敷き書いたとされる。戯曲はかつて一度だけ上演された。その上演は、統括的な演出家を置かずに、土井がリーダーシップをとりつつも、出演者全員がクリエイションメンバーとして参加する形でなされた。これは、(フィクション内での)事実として戯曲(テキスト)の外にある。

そして、その一度だけなされた上演の経緯を、(アーカイブとして)出演者の一人であった土井が戯曲という形で書くことになる。それが戯曲『想像の犠牲』の元になっている。さらに、土井によって書かれた戯曲に対して、当時上演に参加した出演者(クリエイションメンバー)たちが、それぞれ名前入りでコメントを書き入れている。土井が書いた部分に対して、コメント部分は太字で示されている。土井の書いた戯曲と出演者たちのコメントの二層によって、現に、読むことのできる戯曲『想像の犠牲』というテキストが成り立っている。ここまではフィクションである。

それは実際には、山本ジャスティン伊等が書いた。山本ジャスティン伊等によって書かれた『想像の犠牲』は、タルコフスキーの映画『サリファイス』を下敷きにしている。

(「演出家」の戯曲がタルコフスキーを下敷きにしているという設定だから、山本の戯曲も結果としてタルコフスキーを下敷きにすることになる、のか、山本がタルコフスキーを下敷きにしたから、「演出家」がタルコフスキーを下敷きにしたという設定になった、のか。)

(1)「演出家」が書いた戯曲の上演がなされたという事実(その戯曲が〈弟〉を介して土井に託されたという事実)がテキスト外に想定される。(2)「戯曲の上演」の顛末を書いた戯曲・テキスト(土井が書いた)がある。(3)土井の戯曲に対して、上演時の出演者たちのコメントが書き足される(太字で示され、レイヤーの違いが可視化されている)。(4)以上、(2)と(3)とが重ね合わされたものが戯曲『想像の犠牲』であり、(1)から(3)までの三つの層を、山本がフィクションとして設定し、実際に戯曲『想像の犠牲』を書いた。

(Dr. Holiday Laboratoryの前作『脱獄計画(仮)』、山本による短編小説「想像のなかの役回り」も、『想像の犠牲』のフィクション世界と繋がりがある。)

さらには、(5)山本による戯曲『想像の犠牲』は、それだけで言語表現として自律的に存在するように書かれている。逆にいえば、これを「そのまま」上演するとどういうことになるのか、よくわからない。あるいは、「このテキストだけ」をみても「上演されたもの」を想像できない。ただし山本はこの戯曲を、自分が主催する劇団の上演のために書いた。

そして、Dr. Holiday Laboratoryによる公演『想像の犠牲』が、昨年12月13日から15日にかけてロームシアター京都で実際に行われた(ぼくは観られなかった)。この公演においては、「演出」に山本の名前がクレジットされている(演出家が存在する)。

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