2024-12-07

⚫︎精神分析的な記述には、その分節・分析の鋭さへの驚嘆と、同時に必ず、ある種の香ばしさ・疑わしさの感覚があり、そこが面白くも怪しく、怪しくも面白い。ただそこで一つ不満に思うのは、精神分析的な問いば常に「主体をめぐる問い」であり、主体の謎へと着地するしかないところだ。主体にかんする問いは避けられないにしても、そこに着地するのではなく、そこから(世界や「外」へと)飛躍することはできないだろうか。

昨日の補足、『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』の6章「颱風の眼」の冒頭部分。

《ラカンは眼差しや遍在視という観念を、光の捕えがたい煌めきとして描き出している。主体はその煌めきを遮蔽するスクリーンとなり、あるいはそこに自らのシルエットを不在というかたちで浮かび上がらせることで、コントラストによっててこの煌めきを際立たせる。間欠的で点滅的な可視性という考え方は、絵画そのもののうちにその相関物を見出すことになる。「つねにタプローにおいてはその不在を指摘できるような何かがあります。これが知覚の場合と異なる天です。タブローに不在なのはその中心野、つまり、視覚のなかで眼の判別的な能力が最大限にはたらく領野です。(…)その結果として、またタブローが欲望と関係をもちはじめるかぎりにおいて、中心のスクリーンの場所がつねに印づけられることになります。そしてまさにそのために、タブローを前にするとき、私は実測的平面[平面図]の主体としては脱落するのです」。この中心の脱落は逆説的にも発見的にはたらく。つまり、埋合わせとして、瞬きのような周縁への落下を惹き起こすのである。思わず「私の眼差しを低く落とす」ことになる程、この落下は魅惑的である。羅漢は抒情的な調子で次のように述べる。「これら細かなタッチが、リズムを打ちながら、絵筆から雨のように降り注ぎ、やがてタブローという奇跡に到達する」と。それはあたかもダナエに降り注ぐ黄金の雨さながらの色彩の驟雨である。羅漢が引き合いに出しているセザンヌを検討してみることは興味深いだろう。カンヴァスの上には、あの「わずかな青色、わずかな白色、わずかな褐色」が、降雪のように全く即興的なリズムで置かれている。そしてこれらの色彩は、最終的に(また、デカルトの懐疑のように誇張された仕方で)、焦点化された表象ではどうしてもできなかったことを成し遂げているのである。それはまさに驚嘆すべきことだ。眼差しに内在する中心の脱落という意味での欠如が、この場合、実測的視覚の失敗という意味での欠如の埋合わせをしているのである。》

⚫︎セザンヌにかんしてはまず、解決(完結)しない焦点化という遅延(その都度現れる中心=焦点化からの脱落)があり、それゆえに決して姿を表すことのない「全体性」を希求する欲望に巻き取られて、どこまで見ても見終わらないという永久運動に導かれる、というような見方がある(決して到達しない全体性へ向けた果てのない運動)。しかしここでは、その「中心=焦点化からの脱落」という働きが、それがもつ否定生が、本来、見ることも触れることもできない「欠如」を表現する、という話になっている。

つまり、ポストモダン的な(というか、近代的な)無限後退、あるいは果てしない宙吊り状態ではなく、観ることは「欠如=主体の現れ」という終着点を持つことになる。終わりのない宙吊りではなく、遅延する「像としての解決しなさ」そのものが、それ自体で空隙となり欠如を表現している。それは(果てしない宙吊りよりは)良い。しかしここでは、その欠如が表現するものは「主体」だということになってしまう。

ここで、「像としての解決(完結)しなさ」という空隙を、それを観る者にその都度「仮想的全体像(閉じられていない全体の「予感」)」の発現を要請するもの、と考えてはどうだろうか。そこで要請されるのは全体像(完結した像)ではなく、全体(完結)への予感である。予感である限りそれは閉じられていないが、全体への予感であるので(全体・完結への指向性を持ち)、ただの断片ではない。

つまり、セザンヌを観るということは、その都度立ち上がる仮想的全体像(閉じられない全体の予感)の、絶えざる現れおなしを経験し、それによって、全体(の予感)の絶えざる組み換えと組み直しが要請される経験である、ということになるのではないか。ここでまた、終点がなくなり、果てしない運動が復活してきてしまうのだが、それは「到達できない全体性」へ向けた無限の探究(あるいは「全体の無限の引き伸ばし」)があるというのとは違う。

「閉じられない全体の予感」とは、その都度仮構される「未完成の全体」である。つまり、常に仮のもので、常に未完成である全体がその都度都度で現れている(断片から断片への移行ではない)。ただし全体とは、仮想的で未完成な、その都度使えるもので作られるブリコラージュでしかなく、それは次々に組み立てられては解体され、また組み直されていくという程度のものだ。

「全体の予感」に、そのような解体と組み直しを要請するものが空隙であり、それは表象(図と地)の外であるだけでなく、表象の舞台(基底材)の外でもある、と。

2024-12-06

⚫︎精神分析(≒ラカン)は、セザンヌの作品をかなり突っ込んだところまで解明している。ただし、一点、ぼくとしては相容れないところがある。それは、セザンヌの作品が作り出す「空隙」を、構造主義的な「ゼロ記号(null)」とみなしているところだ。たとえばミシェル・デヴォーは『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』の6章でセザンヌの空隙を《ちょうど数字並べのパズルにおける空白の枡目や数字のゼロのよう》なものとしている。しかしそれらは、構造の内部にあらかじめ組み込まれた空白・穴である。対してセザンヌの空隙は、どのような場合でも構造の外としてしか現れない「空隙」である。あるいは、構造の「外」としかいえない何かとワームホールのようなもので繋がっている「穴・空隙」である。

しかし、それ以外の分析は素晴らしいので、メモとして以下に引用する。不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』の6章「颱風の眼」より。

(とはいえこれは何かしらの結論めいたものではなく、ここから思考が始まる「前提」のようなものだ。ただ、何度でも前提を確認しておくことは必要だ。)

⚫︎否定性、台風の目=空隙、シニフィアンの示差的構造と想像的なもの。

《ラカンは彼が「絵筆の雨」と呼ぶものを力説している。「もし鳥が絵を描くとするなら、それは羽を落とすことによってではないでしょうか。もし蛇なら皮を脱ぐことによって、木なら余分な葉を取り除いて雨のように降らすことによってではないでしょうか」。》

《セザンヌがタブローのうちに吸い込まれてしまうのは、自らのうちに空隙をうがってから、つまり颱風の眼のように、彩色された微粒子の天変地異的な膨張の中心にエネルギー論的な空隙を穿ってからのことである。(…)古典的表象のこのような混乱、倒壊から、また、習慣的な視覚情報のこのような分解から、いかにしてこれほど暗示力豊かな風景が回復され、現れ出てくるのかという問題である。》

《(…)言語の三六音素、アルファベットの二四文字、音階の十二音、あるいはまさに画家の絵の具のチューブのような弁別的要素の全体を認めざるをえまい。肛門を起源とするシニフィアンの物質性がここですこぶる具体的に指示されているのである。したがって、まさに象徴的機能、より正確にいえばシニフィアンの操作こそが羽をもたない人間に報酬を与えてくれるのである。》

《(…)シニフィアンの分節は言語の専有物ではないし、想像的なものはイマージュの専有物ではない。この二つの対立はお互いに重なり合うのではなく交差しあうのである。》

⚫︎絵画的イマージュを生成するシニフィアンの構造

《幾何学的抽象の先駆であると誤解されている有名な命題も、同じように構造主義的な意味で解されねばならない。「自然界の一切は、球体と円錐と円柱をモデルにつくられている。これらの単純な形象に倣って絵を描くことを身につけねばならない。しかるのちに人は、好きなことができるようになる」。この命題によって理解すべきなのは、記号論における第二分節の単位――音韻論になぞらえられるもの――なのである。ディスクールが音素の秩序に従わなければならないように、絵画も形態素の秩序にしかだわねばならない。さらに次の言葉を聞いてみよう。「描くこと、それは目標を盲従的にコピーすることではない。それは数多くの諸関係のあいだのハーモニーを捉えること、それら諸関係を独自の色階のうちに移し入れて、新しく独創的な論理に従って展開させることである」。セザンヌは執拗に、また挑発的に自分が練り上げた体系について言及し、また主題や主張、メッセージに対する体系の優位を口にする。》

《言葉と色は一つの方向を向いている。画家は自らの文法を知っており、自らの文法を途切れなく極端にまで推し進める。》

⚫︎視覚は構成し、動いている

《すぐれたパースの記号論においては、類似性に基づくイコン的記号は、コンヴェンションに依存するコードに対立させられるのではないか。だが、そうすると、眼は見えるものを写真に撮るのではなくそれを構成するものだということを忘れてしまうことになろう。「知覚がすでに形式を与える」とメルロ=ポンティは指摘している。》

《(…)さきに引いておいたラカンの言葉、すなわち網膜の焦点に当たる明瞭さの中心野がタブローにおいては不在であることに関する彼の言葉については、その含意をしっかり汲み尽くしておくべきだろう。その言葉がいわんとしているのは、結局、逆説的にも視覚的注意はその移動に応じて、まさにその照準点に当たるものを暗転化してしまう、ということである。それは、すでに指摘しているように、ブルネレスキの中央に穴の開いた小板絵や、さらに別の例を求めるなら、アリスが眼差しを向けるが早いか空っぽになってしまう飾り棚(…)が典型的に描き出してくれていたような効果である。》

《この点をもっとも感覚に訴える仕方で描き出してくれるのが、やはりセザンヌの絵画なのである。すでに観てきたように、カンヴァスの上の色のタッチは、風景の現実の色を直接に指示するの出来なく、色目の全体という媒介を水平的に、あるいは連辞論的に経由する。また、この色目の全体は、フェルナン・ド・ソシュールの表現を借りるなら、「ポジティブな項を欠いた差異の体系」と考えられるものである。実際、セザンヌの諸作品の全体は力動的で振動性に富み、連続する水平的指示、もしくは不均衡を埋め合わせるはたらきや捉えようのない波動回析から生まれてくる。それらはまた、本質的に回避的で、私たちの期待をはぐらかすものである。私たちはただ一つの細部に注意を固定することすらほとんど不可能である。というのもまず第一に、対象がそれ自身について何も明かすところがないからである。身体はその解剖学的構造を、木々はその正確な形態を、風景はその現実の形状を明かしてはくれない。さらに、なによりも、個々の形態に遠心力的な力が負荷されているため、私たちがその形態に注意を向けるやいなや、それは解体してしまうからである。》

⚫︎セザンヌは空隙を描く

《セザンヌは事物、身体だけを描いたのではなく、それとともに、そしてまずなによりも、それらを隔てている空隙を描いていた。空隙しか描いていなかったとすらいうべきかもしれない。個々の事物は、それらを取り囲むもの、それを包囲する=輪郭づけるものによって不在として浮かび上がらされる。その包囲=輪郭づけはまるで空間恐怖からきているかのようである。おそらくセザンヌは、ある事物の形と色を決定するためには、彼の視覚をその事物にではなく、逆説的にも他の事物や山や空によって構成される背景に対して調整し、背景の形と色を決定するためにはそれと逆のことをしようとしたのではないだろうか。その結果、ある形態は閉じた単位になることは決してなく、中間に置かれるもの、つまりラカンのいうスクリーンになる。》

《このように個々の事物は、その固有の存在によってではなく、ネガとして、つまり、それではないものの全体、それが否定するもの、隣接する諸々の事物へと送り返されるアレルギー反応によって決定される。隣接する事物は、この個々の事物を無として取り囲み、周辺へと眼差しを惹き寄せるのだが、こうして次にそれ自体が照準点になると、今度は自らの姿をくらませてしまうのである。》

⚫︎どこまでも遅延する構造は、見るものに「未来の先取り(的な予感)」を要請する。

《現に置かれているタッチは、それ自体としてまだいかなる具象的価値も有していない。それにもかかわらずこのタッチが自己を主張するのは、そのタッチが、絵画がやがて獲得するはずの色彩の体系に、横断的、先取的、想定的に関連づけられることによってである。》

《水平的な回避や先取観念、あるいは際限のない遅延といったこの絵画的戦略があれほど強い喚起力をもつにいたるのは、まさにこの戦略が生きた知覚にこそ対応するものだからである。》

《視覚というものは、途切れなくつづく忙しない両眼の細かな動きによって働く。眼は、中心の小窩からくる視覚喪失を予防しているかのように、視野をあちこちに走査するのである。あれこれと詮索するからこそ眼はものを見ることができる。差異を際立たせるこの構造主義的な跳躍から、形態は生じてくる。事物の隔たり、比較、シンコペーション、見積もり、待機、先取りによってのみ、人はものを見るのである。》

《色彩にしてもやはり、モザイクのように点から点へと記録できるような所与の性質を持つわけではない。客体性を生起させる諸対立の体系として、色彩に能動的にコントラストを与え、それを安定化させるのは、やはり眼なのである。必要となれば、眼は周囲の照明の色調を中正化することによって、色彩の差異を保持し、さらには強化しさえする。》

⚫︎差異化の過程そのものを捉える

《(…)セザンヌがついにはエスキスをその唯一の表現手段とするにいたるのも、(習作として)完成作を準備しているというより、知覚そのものを捉えなおすためだ、ということになる。つまりセザンヌは、事物中心主義的なイリュージョン、もしくは想像的なレアリスムが強く押しだされてくるまえの知覚そのもの、エスキスとしての、あるいは差異化の過程としての知覚そのものょ捉えなおそうとしたのだ。現実的効果によって捕らえられるがままになるのではなく、逆に効果としての現実を演出すること。私たちが見てきた表象=再現の禁止がもたらす副次的な利得とはこのようなものである。》

2024-12-05

⚫︎父親が突然、UFOが見えると言ってきて、は、何言ってんの ? 、と思いながらも空を見てみたら確かに、月のすぐ脇に、明らかに星とは違う、奇妙な発光物体があった。父親が見ていた双眼鏡を借りて覗くと、点のような小さな光の集合体がたくさん集まって円の形を作っている(光の剣山みたいな感じ)。明らかに金星じゃないよね、と思って、ネットで検索してみたら、五時十五分くらいから関東では国際宇宙スターションがよく見える日だということが書かれていて(この時は五時半過ぎくらい)、ああ、あれは宇宙ステーションなのかという話で落ち着いた。

lookup.kibo.space

2024-12-04

⚫︎下の画像は、竹橋の国立近代美術館が収蔵しているセザンヌの「大きな花束」(1892-95年)という作品。晩年のセザンヌの作品の中でも特にすぐれたものの一つで、よくぞこの作品を購入したものだ、と思う。

(画像は、美術館がこの作品を購入した当時、美術館のウェブサイトからダウンロードしたもの。自由にダウンロードできる状態にあったということは、自由に使用しても良いのだろうと判断しました。今はダウンロード出来ないみたいだけど。)

フィレンツェからバスで一時間半くらいはなれたモンテルキという小さな村に、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた「出産の聖母」という壁画がある。これは、ぼくが今まで観た絵画の中で最も美しいと思ったものの一つだ。元々、村から少し離れた教会にあったものが、小学校を改装したという美術館に移されて、そこではこの作品一点だけが展示されている。他にこれといった観光資源もない小さな村に、この絵を観るためだけに多くの人が集まってくる。ぼくが行った時も、小さな美術館の前に何台もの観光バスが所狭しとひしめき合っていた。

セザンヌの「大きな花束」も、この作品一点を常設展示するためだけに、一つの小さな美術館があってもいいのではないかと思う。

⚫︎下の画像は、掬矢吉水さんがKENSOというバンドのアルバム「An old warrior shook the Sun」のジャケットのためにデザインしたもの。掬矢さんによると、四ヶ月以上かけて、AIと共同制作したそうだ。

ぼくは最近よく、この二つの画像をPCのモニターに並べて表示してみるのだけど、同じくらいの強さで拮抗していると思う。セザンヌの「続き」がここにあると感じる。

 

2024-12-03

⚫︎U-NEXTで『蛇の道』(黒沢清)、2024年版。ラストがちょっと違う以外は、基本的なアイデアや展開はオリジナルとあまり変わらない。ただ、主演が哀川翔から柴咲コウになり、90分の映画が120分の映画になったという変化は大きいと思った。柴咲コウの「夫」が「リモート」で出てくるというのも大きい違いか。

(柴咲コウが「精神科医」というのはちょっとベタすぎないかとは思った。)

オリジナル版は、必ずしも「哀川翔の映画」というわけではないが、2024年版は明確に「柴咲コウの映画」になっていると思う。内情とかはまったく知らないが、柴咲コウと仕事をするという話がまずあって、それならこういう企画がいいのではないか、みたいなことなのではないか(根拠のない推測)。90年代の黒沢清は明確に「男性的」な映画作家で、女性はいつも「傍」にしかいないが、徐々に意識的に女性俳優を前面に出すようになり、特に最近の『旅のおわり世界のはじまり』、『スパイの妻』、『蛇の道』という三作でははっきりと女性を中心に据えた映画が続いている。特に『蛇の道』は、外国という環境で、外国人に囲まれ、セリフも外国語でという、アウェイの中で柴咲コウが自然に一人際立つという形になっている。

(追記。一人の女性を、外国の慣れない環境に置いて孤立させることでその存在を際立たせるというやり方は、前田敦子主演の『セブンスコード』、『旅のおわり世界のはじまり』で試みられているが、『蛇の道』も、そのやや違った角度からのバージョンとも言えるのではないか。)

また、オリジナルの90分の映画のリズムだったら、西島秀俊の場面とか、街でお茶している間に警察に咎められる場面とか、そういうのはいらないという感じになるだろう。緑の中で寝袋を引き摺って逃げている場面のカット数が明らかに多い、とか。リズム感が明らかに違う感じ。

ぼくとしてはオリジナル版の方が好きだ、というのはもうどうしようもない。90年代の黒沢清には、90年代の黒沢清にしかない独自の質感があり、それは今の黒沢清にはない。もちろん黒沢清が悪いということではなく、作家が時代と共に変化し、成熟したりするのは当然で、90年代の黒沢清を特別視するのはあくまで「ぼくの側の事情」でしかない。

(追記。オリジナルでは、哀川翔は子どもたちに数学を教える塾講師だった。それも、学習塾ではなく、特別な数学的資質を持つ子どもたちにとても高度な数学を教えている講師で、「ここでプライとマイナスを間違えると宇宙がひっくり返っちゃうぞ」みたいなことを言う。この飛躍力はおそらく脚本の高橋洋によるものだと思われ、黒沢清にはこのような、ある意味で陰謀論的とも言える想像力はなくて、けっこう「精神科医」みたいな常識的な設定に落ち着いてしまいがちなところがあると思う。まあ、この2024年版では突飛な想像力は必要ないと思うが、それでも精神科医はベタすぎるのではないかと思った。)

2024-12-02

⚫︎Netflixで『ペドロ・パラモ』(ロドリゴ・プリエト)。これはひどかった。世界中の『ペドロ・パラモ』好きの人が怒っているのではないか。Netflixで『ペドロ・パラモ』が映像化されるという話を知った時、小説から「あらすじ」的なものを抽出して、それをべたっとドラマ化するみたいな作品になるのではないかという嫌な予感があったのだが、そういうものですらなかった(嫌な予感をさらに下回る)。『ペドロ・パラモ』のような難物を、何の狙いも、戦略も、コンセプトもなく、ただ、「中途半端に(表面的に)原作に忠実に映像化」するなんてあり得ないだろう、という感想だ。何にも考えていないに等しいと思った。

おそらく、小説を読んでいない人には何が起こっているのかさっぱりわからないのではないか。断片的な場面が、ただ支離滅裂に並んでいるようにしか見えない。もちろん、小説を読んでいるから、ああ、これはあの場面で、あれはこの場面なのか、ということはわかるが、それがわかったから何だというのだろう。小説自体が、断片的な場面の非連続的な羅列で出来ているのだが、それをそのまま映像でなぞればいいということはあり得ない。

小説が、この小説として、このような形になっているということの意味を、映画として、どのような形に変換するのか、その変換がどのように面白いのか、というのが、小説をわざわざ映像化することの意味だと思うが、そういうものがまったくみられず、ただ、小説の場面を大した考えもなしに映像に移し替えて、割りと忠実に並べてみました(この「忠実さ」も「割りと」でしかない)、というものにしかみえない。映画(映像)作品として自律していると思えない。

たとえ、断片的な場面が支離滅裂に並んでいるだけだとしても、それぞれ個々の場面が工夫して作られていれば、まだ面白く観られたと思う。しかし、場面場面の演出や構成をみても、通り一遍の凡庸な演出、凡庸な場面でしかない(単調な切り返しを用いて「セリフで説明する」映画みたいになっている)。この小説で最も美しい場面の一つである、少年時代のペドロ・パラモがベッドで寝ていて父の死の知らせを受ける場面が開始から早い時期に出てくるのだが、この場面をこんなにいい加減に撮るのか ! 、と呆れるような作りだった。この時点でまったく期待できないと思った。

ただ、相当にお金がかかっているようで、美術などはすごく豪華で、さぞ贅沢な撮影だったのだろうとは思う。演出があまりに凡庸なので、その豪華さがより空虚を際立てている。小説の表面づらだをなぞっただけの、豪華だがひたすら空虚な映像が、手応えもなくただカラカラと流れていく。登場人物たちの深みなどもまるでない。これよりもっともっと少ない予算でも、もっと野心的な作家が作ればこんなに悲惨にはならなかっただろう。

ラストシーンも、小説に忠実ではあるのだが、忠実なのは表面だけで、そもそも、アブンディオがなぜ、どのような経緯で、あんなにベロベロに酔って、ペドロ・パラモを刺すことになってしまうのかが、まったくわからない(そもそも小説を読んでいない人にとっては「え、こいつ誰 ? 」でしかないだろう)。こんないい加減なラストある ? 、と唖然とした。