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●『ユリ熊嵐』、最終話。おそらく、この作品を駆動させている根本的な欲動は、殺しても殺しても何度でも蘇ってくる(まさにゾンビのような)不気味なるるの弟(みるん)に最も直接的に現れている。それは、システムの側からみれば、透明さを維持するためにいくら厳重に配慮しても、必然的にわき出てきてしまう「スキをあきらめない」存在と重なる。システムは、その透明性を保つために必然的に排除されるべきスケープゴートをつくらなければならない。だが、そのような、システムの都合によって仕立て上げられる排除の対象と、内発的にわき出てしまう(自らそこをハズレようとする)「スキをあきらめない」存在たちとは異なる。前者はシステムの一部だが、後者はその破れであろう。
その不気味さと釣り合うように過剰にかわいく造形されているみるんの存在は、「スキをあきらめない」ことを正当化する根拠は別にどこにもないということを示してもいる。みるんは、何故かわからないが(たんに)死なない。同様に、排除のシステムは変わらないし、断絶の壁はありつづけているとしても、それを越えようとする者は(何故かわからないが)繰り返し現れるだろう。紅羽や銀子やるるは、いわば、『マトリックス』のネオのように「この世界の内部」でまどろみから目覚める者だ。しかし「ユリ熊」の世界には、仮想と現実というわかりやすい対立はない。人の世界も熊の世界も、どちらも現実であり、どちらも仮想である。この世界(現実=仮想)の外には、また別の世界(現実=仮想)がある。世界は一つではない。
(「この世界」しかない、という)まどろみからの目覚めは、偶発的な出会いから生じる。殺しても死なないみるんが、殺しもしないのに死んでしまうことによって、るるははじめてみるんと出会う。みるんの死によって、その不死性(何度も何度も蘇ってはスキと蜜を与えつづける何か)と出会う。るるはみるんと、事故死という偶発的な事件によって出会うといえる。そして、るるはまどろみから目覚める。だが、目覚めただけではまだ何もできない。ただ「この世界」をどこか遠いものとして感じるようになるだけだ。
そして、みるんの蜜壺は銀子によってるるの元に返される。るるは、銀子との出会いを通じて(それを媒介として)、みるんとの出会いを取り戻している、といえる。銀子への思い、紅羽への嫉妬と和解、そして銀子と紅羽の関係のために銀子を銃弾から守ること。それらの行為を通過することで、るるは、みるん(ひたすら与えつづける何か)との出会いを取り戻している。それが自分を変化させる。それは、紅羽が、純花との出会いを媒介にして、銀子との出会いを取り戻していることと同じだ。あるいは、銀子から見れば、るるとの出会いを媒介として、紅羽との出会いを取り戻していると言える。偶発的な出会い(出会い損ない)は、間に媒介者を介することにより、やり直され、再び取り戻される。というか、媒介を介した出会いの取り戻しこそが、(相互変化を伴う)真の出会いとなるのだ、といえる。
輪郭線やシルエットとして示され、ずっと顔がなかったクマリア様に、最終回で具体的な顔(姿)があらわれた。しかしこれは、あくまで紅羽にとってのクマリア様だから、この姿をしているのだと思われる。「ユリ熊」の世界で「神」とは、出会いの取り戻しを媒介する媒介者のことであるはずで、だから神の姿は出会いを媒介する者の数だけあると考えるべきだと思う。クマリア様は世界中に散らばっており、ただ、具体的な出会い(の取戻し)が実現される時にだけ、その媒介者の姿となって統合される、ということではないか。
何度殺しても生き返りつづけるみるんは、何度拒否されても与えつづける存在でもあった。彼は与えるだけで「キス」を得ることはない(最後には「キス」すら自ら与える)。利己的であるか利他的であるかが問題なのではなく、交換の原理を越えて「ただ与える」という行為が相互変化へとつながるカギなのではないか。
媒介者Cは、例えばAとBとの出会いの取り戻しを実現すると、その三者関係の場から消滅する。媒介者もまた、ただ(関係を)与えるだけで、何も得ることはない。だけど、これは自己犠牲ではない。媒介者るるは、銀子と紅羽の出会いを取り戻した後、この関係(この世界)から消えるが、同時に、媒介者銀子は、るるとみるんとの出会いの取り戻しをした後、二人の関係の場から消える、とも言えるのだ。ここで「出会い」を取り戻した二人の世界はそれぞれに分岐する。もし、銀子と紅羽の世界が「現実」であれば、るるとみるんは死んでいるが、るるとみるんの世界が「現実」であれば、銀子と紅羽こそが死んでいる。銀子の世界とるるの世界は、同一平面では両立しないかもしれないが、別平面としては両立している。
これは、人と熊との遠近法主義的な相容れなさ(ヒトもクマもどちらも「人間」だが、一方が人間の時に他方は獣であり、両方同時に人間であることはできない)とは異なっている。銀子-紅羽平面とるる-みるん平面とは、同一平面では両立することはないとしても、食う-食われるの関係にはなく、争うこともない。るる(と純花)の媒介によって、銀子-紅羽平面が創造され、銀子の媒介によって、るる-みるん平面が創造され、つまり二つの相互変化がお互いを媒介し合うことによって、排除と抗争のヒト-クマ平面とは別の世界を創造し、彼女たちは共にヒト-クマ平面を越えた地点に達した、と考えることができる。
(これを「天国で幸せになる」ととると、やや危険な感じになる。そうではく、「ここ」は現実であると同時に仮想でもあり、「ここ」とは別の場所もまた同様に現実=仮想であるはずで、ならば、それは創造可能であるはずだ、ととるべきだと思う。)
●紅羽の罪は、自ら変わろうとせずに、一方的に相手の変化を望んだことだった。しかし、自分を変えるということは、自分の「図」を変えるのではなく「地」を変えることで、それを自力で行うことは原理的に可能ではない。自分で自分を変えることはできない。それは、「あなた」との偶発的な出会い(出会い損ない)と、媒介者を介したその取り戻しによってのみ可能であるだろう。この物語は、基本としては、紅羽にとってのその過程が描かれていた。だが同時に、同型の出会いと媒介と相互変化が、作品の様々な処に再帰的に、そして反転的に(様々な視点において)埋め込まれ、響き合い、相互に作用し合っていると思う。その響き合いが、排除システムより強くなる時に、世界は革命される、のかも。