ホームランとは野球において得点に繋がる安打の事。本塁打やHR、ホーマーとも表記される。
ホームラン(本塁打)には、出し方が以下の3種類存在する。
ドーム球場の場合、屋外球場であれば外野スタンドに入ったであろう打球が屋根に当たってしまうことが起こりえる。そのため、屋根に当たった打球の扱いをどうするかは球場ごとにルールが定められている。
西武ドームと札幌ドームの場合は、フェアグランドの外野まで行った打球が屋根で跳ね返っても認定ホームランとみなされる。また、東京ドームとナゴヤドームでは外野にある懸垂物(東京ドームであればスピーカーなど)に直撃させるとホームランになる。大阪ドームではスーパーリングの一番外側とその1つ内側のリングに入るとホームランになる。福岡ドームはドーム球場で唯一認定ホームランのルールが存在しない。
狭い屋外球場の場合、ホームランを打つと球場から飛び出す「場外ホームラン」が出る場合がある。時たま何故かドーム球場であるはずの西武ドームでも見受けられる。
直接打球が外野スタンドに入ったのではなく、フライを外野手が弾いてスタンドに入ってもホームランになる。また、野手がグラブを投げつける、飛んでいる鳥に当たるなどしてスタンドに入らなかった場合も、それがなければスタンドに入っていたと審判が判断すればホームランになる。
なお、打球がスタンドに入っても「ベースを踏み忘れる(長嶋茂雄)」「前のランナーを追い越す(新庄剛志)」などバッターランナーがアウトになってしまうとホームランは記録されない。
実乃梨:「一塁打♪イェイ!!二~塁打♪イェイ!!三塁回ってホームラン~♪」
投手が打者にホームランを打たれた場合は被本塁打として記録される。
本塁打や被本塁打の数の場合、当然ながら打数や投球回に影響されるため、本塁打率や被本塁打率という記録がある。
本塁打率は打数/本塁打であり、ホームランを1本打つのに平均何打数必要かというものになる。「率」がつく打者の記録としては例外的に、少なければ少ないほどいい記録となる。
一方で被本塁打率は本塁打×9/投球回であり、1試合完投した場合に何本ホームランを打たれるかというものになる。防御率の自責点を本塁打に変えたものと言えばわかりやすいか。
意外に思われるかもしれないが、野球の黎明期は外野スタンドという概念がなく、外野の広さは理論上無限遠であったため、「柵越えホームラン」という概念がなく、ホームランは全てランニングホームランであった。これは、野球の起源として、打ったボールをいかにして相手の守備をかいくぐるかというスポーツだったからである(実際に投手は下手投げのみで打者は投手にコースの注文ができ、ストライク・ボールのコールもなかったほどである)。
ホームランは元々三塁打の延長線上の存在でしかなかった。しかし19世紀後半になってアメリカでプロ野球リーグが創設されると、観客動員の観点から外野スタンドが設けられた。しかし、スタンドに入ったボールは外野手はどうすることも出来ず、苦肉の策として、四個の安全進塁権、つまり「本塁打」としたのである。
しかし、これが苦肉の策であったことは選手側も知っており、また野球のスポーツの本来の起源からも逸脱する行為だとして柵越えのホームランは「四塁打」などと呼ばれ野蛮だと考えられていたのだ。そのため、ボールも飛ばなく、球場も現在とは段違いに広かった時代であり、実際にランニングホームランの方が柵越えよりも多い選手も珍しくなかった。例えば、イチローが破るまで連続シーズン200安打記録を保持していたウィリー・キーラーは通算33ホームランのうち、なんと30がランニングホームランである。
1920年代以前までは、現在と比べはるかにホームランが少なく、例えば1909年のタイ・カッブは三冠王となるが、その時に打ったホームランは9本塁打でその全てがランニングホームランであると言った有様であった。守備技術こそ現在とは格段に遅れていたため、三塁打は多かったようである。
ところが、1920年代に入ってこの傾向が大きく変わった。ベーブ・ルースという打者が出現し、柵越えのホームランを次々放り込む。また、当時のヤンキースの球場も左打者のルースのホームランを出やすくするために右中間を狭くするといったことを行い始め、球場も狭くなっていった。こうしてメジャーリーグは熱狂的なホームラン時代に突入した。とはいえその中でも依然としてベーブ・ルースのホームラン生産力は群を抜いており、ルース引退時の通算ホームラン数714本はその当時の2位350本前後に対してダブルスコアであったと言えば現代人にも容易に想像がつくだろう。
同時に1920年代は著しい打高の時代に入った。実際に4割打者にもかかわらず首位打者を取れなかった打者すらいたほどである。ベーブ・ルースの影響を受け、多くの打者がホームラン狙いに走った結果、それまでの野球の起源、柵越えのホームランに対する扱いは大きく変わった。更に守備技術の向上で、ランニングホームランが減少の一途をたどった。
もちろんこの傾向に反対する打者もおり、球聖と呼ばれたタイ・カッブはその代表的な選手である。即ち、ホームラン時代以前はフィールドを活かす野球であり、またカッブは単打と盗塁の応酬が野球の醍醐味だと言った。それまでの野球は、単打などで出塁しバントや盗塁で走者を進める戦術が一般的だったのだ。
また、ホームランが増えるに連れ、盗塁の数は減っていった。こうしてメジャーリーグは長いホームランの時代に入り、野球の哲学は大きく塗り替えられた。日本でも、「野球の華はホームラン」などと呼ばれているのもメジャーリーグの影響、究極的にはベーブ・ルースの影響でもある。
メジャーリーグではこうしたホームラン主義が日本以上に根強く、盗塁男と言われたリッキー・ヘンダーソンや、V9巨人の原型となった「ドジャース戦法」におけるスモールベースボールの採用などスピードや小技が注目を集めることこそあったものの大勢を覆すには至らなかった。
しかし、こうしたパワーに任せたホームラン主義は非常に魅力的ではあるが、もちろん影の側面もあった。「天敵なし」となったホームラン至上主義は暴走を極め、1990年代に入るとメジャーリーグでは薬物汚染が目立ち始める。
ホセ・カンセコを起源として、サミー・ソーサとマーク・マグワイアのホームラン競争では、これまでのシーズンホームラン記録を大きく上回るホームラン記録が出るなどして全米が熱狂。これに腹を立てたバリー・ボンズは、それまで走攻守揃っていたプレースタイルを捨て、薬物を使用して守備走塁を犠牲にし、打撃特化に走る。しかし2000年前後にはこうした打者が薬物を使っているという噂は公然の秘密となっており、ファンや識者の間では非難の声も上がっていたが、メジャーリーグ機構は野球の最大限の魅力であるホームランと、それを量産する打者の処分に躊躇していた。
こうしたホームラン至上主義を終わらせた存在は他ならぬイチローであった。彼はそれまで日本プロ野球でスター選手として過ごしており、2001年からマリナーズに移籍した。極東の島国である日本から来た彼の活躍は我々日本人が思う以上に大きな衝撃があったようである。
決して長打力こそないものの高打率でヒットを量産し、あるいは盗塁し、強肩と広い守備範囲による華麗な守備で魅了した。ホームランだけが野球の魅力ではないということを改めて示したのだ。
彼はその年、新人最多安打記録を90年ぶりに更新する242安打(もちろん最多安打)を打ち、打率は.350で首位打者、更に盗塁王であった。新人王とMVPを受賞すると同時に、シルバースラッガー賞とゴールドグラブ賞を受賞し、最多得票でオールスターにも出場した。実はこれと同じ年、バリー・ボンズがMLBシーズン本塁打記録である71本塁打を打ち立てたのだが、この頃は既に彼の薬物疑惑は多くの人に知れるところとなり、冷ややかな目で見る人も多かった。
イチローはこう言われた。「汚れたスラッガーたちが忘れた全てのことをやってのけた選手」と。
2004年にはイチローはシーズン最多安打記録を打ち立てた。2004年を遡ること84年前の記録を破ったのである。この年、バリー・ボンズは徹底的に勝負を避けられた結果、四球、長打率、OPSなど狂ったような記録を打ち立てたが、これらが「作られた記録」だということは誰しもが知る所であった。この頃になると先述のカンセコ、マグワイア、ソーサなど薬物を使用した長距離打者に対する批判は頂点に達していた。
2010年代に入るとステロイド規制が大幅に強化された影響でホームラン数や打率などリーグでの打撃指標が軒並み低下し、投高打低の時代に入った(統一球と被ったためあまりそう感じられないが)、未だにステロイドの検査に引っかかり出場停止処分を受ける選手は多いものの、ポストステロイド時代の幕開けとなったと見られている。メジャーリーグでも守備や走塁と言った価値が大きく見直され、守備技術・投手のレベルも2010年代はそれまでと比べはるかにレベルが上がっている。
2017年、総本塁打数が6105本とそれまで最高だった2000年の5693本を412本も上回る最高記録となった。この理由として挙げられているのが、「ゴロよりもフライの方がヒットの確率が高い」という統計に基づき打者がフライを打つようになったという「フライボール革命」である。これには以下のような背景がある。
興行的な理由から半ば人為的にホームランを量産させるようになったベーブ・ルースの時代、本塁打数が個人記録としての注目度に終止したステロイドの時代と違い、この「フライボール革命」は「統計的分析に基づいたチームの勝利の最大化戦略」と「科学技術の発展に伴う守備と打撃の理論の向上」によって「純粋に野球という団体競技のゲームを追究した」ことから生み出されたものである。かつては限られた選手の特殊な才能であった「ホームランを打つ能力」が「鍛錬すれば得られるもの」になり、それが「チームの勝利とシーズン成績」に最も貢献できるとなれば、誰もが「必要とされる選手」になろうとそこを目指すことになる。これをイチローは引退時に「没個性化」「頭を使わない野球」が蔓延し始めているとして警鐘を鳴らしたが、「野球というゲームにおいて効率を最大限に重視した」結果がこれであるならば、話はそう単純にはならない。
このフライボール革命に対し、守る側もただ手をこまねいて傍観しているわけにもいかない。ホームランを打たれないためには「バットにボールが当たらない」ことが最も確実な対抗策である。つまるところ「強振する打者に対し三振が取れる」ことが最大の対策であり、三振を取りやすい「縦に曲がる変化球」が大流行するようになった。結果、本塁打数に比例して三振数も激増することになった。
日本では、日米野球開催によるベーブ・ルースの来日などから、「ホームランは野球の華」といわれることが多かった。しかし、戦前から戦後一時期にかけてはグランドやボールなどの環境も悪く、ボールも飛ばなかったため、超投高打低であった。スコアブックだけを見ると意外に乱打戦のようなスコアも多いが、これは失策の数が今よりもはるかに多かったためである。メジャーリーグでもそうであるが、昔の野球は守備技術及び野球用具が未発達であったため、失策が日常的に起こっており、むしろ失策のない試合はかなり珍かった。
こういった時代ではやはりスモールベースボールが力を持つ。単打や相手の失策などで出塁し、それをバントで送り、あわよくばバントで守備を乱れさせる。あるいは盗塁をする。そしてまた単打で返すという戦法である。
ところが1948年に入り、「ボール自動製造機」が開発され、1948年9月から1950年までの間に投入された。ボールの精度が格段に上がり、質の高いボールが作られたため、反発力が劇的に向上、特に1950年に松竹ロビンスが誇った「水爆打線」の破壊力やまさに水爆を名乗るに相応しいものであり、小鶴誠は打率.355、51本塁打と言った記録の他、更新不可能と考えられている記録の一つである161打点及び143得点をあげ、投手が打席に立っているにもかかわらず、1試合平均得点は6.63にも達した(DHありの近鉄のいてまえ打線が5.50、ラビット全盛期の2003年ダイエーでも5.87である)。もちろんこれには飛ぶボールとホームランの急増に支えられていた。
これではさすがにまずいということもあって反発力の規定が作られた。こうして1950年代半ばにはホームランも減ってすっかり投高打低に戻ってしまった。
しかし1958年、国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄が、翌1959年には王貞治が登場する。実際にはリーグ全体としては相変わらず投高打低であったが、この二人はとにかく打ちまくった。三番打者が王、四番打者が長嶋という「三番最強説」に立ったON砲は手が付けられなかった。仮に王を敬遠しても後ろにはチャンスに滅法強い長嶋が控えていたのだから。
1965年から1973年までの9年間、巨人は川上哲治監督のもとで前人未到の9連覇という偉業を成し遂げる。このチームは守り重視のスモールベースボールのチームであったが、王長嶋という長打力も活かしたチームである。
特に王貞治はホームランの象徴的選手であり、1964年にはシーズン本塁打記録である55本塁打の記録を打ち立てる。本塁打王になること15回、三冠王になること2回(長嶋茂雄に阻まれることも多かった)、圧巻は通算868本塁打であり、40本塁打を20年連続でも達成できないため、プロ野球史に残る不滅の大記録となっている。
通常メジャーリーグの選手はプライドが高く、あまりNPBの選手は尊敬しないものであるが王貞治だけは数少ない例外的選手である(イチローは普通にMLBの殿堂入り選手として尊敬されている)。日本よりも試合数が多いメジャーリーグでもホームランの記録はハンク・アーロンの755本、ステロイド時代を入れてもバリー・ボンズの762本である。
しかし、そうはいってもチーム全体はスモールベースボールである、徹底的に小技でランナーを進め王長嶋で返すという戦法であった。
この頃はまだ後楽園球場や川崎球場をはじめ、狭い球場や、甲子園球場のように広い球場でもラッキーゾーンが設けられていることも多かった。しかし、国際試合が盛んになるに連れ、こうした狭い球場やラッキーゾーンはなくなっていった(今や「からくり」「ドームラン」など(主にアンチ巨人から)インチキ球場呼ばわりされることも多い東京ドームは開業当時は広い球場として有名であった)
球場が広くなったのに伴い、やはり日本の野球は投高打低傾向になる。そのため、イチローの傑出が目立つ結果となるとともに、V9に続いて西武黄金期の影響から更にスモールベースボールが力を持つようになっていった。
日本では特に一発勝負のトーナメントの高校野球の力が強いため、ホームラン狙いの選手は少なく、アメリカほどホームラン主義ではなかったが、やはりホームランこそ野球の醍醐味と語る人も多かった(王長嶋の人気もその長打力が必要不可欠であった)
1990年代にも、松井秀喜を始めとする長距離打者は数多くおり、1993年には17-16という馬鹿試合が発生するなどしていたものの、当時のメジャーリーグと比べて投高打低と言われていた(尤も、この時代のメジャーリーグはステロイドが横行していた時代であるが)
2000年代前半にはこうした状況を打開し、乱打戦を増やす目的でラビットボールを導入。目論見通り本塁打数が急増したが、あまりにも大味なゲームが多く、特に投手陣から批判されることが多かった。
こうした大味なゲームとしては、2003年に起こった福岡ダイエーホークスとオリックス・ブルーウェーブの間で起こった29-1などである。また、個人記録としても2001年にはタフィ・ローズが、2002年にはアレックス・カブレラが王貞治と並ぶシーズン55本塁打を打つなど、打率3割、30本塁打、100打点は珍しくなかった。
こうしたラビットボールを活かそうとした打線としては、ホームラン攻勢を全面に押し出した巨人の「史上最強打線」が挙げられるが結果は振るわなかった(投手陣の不振とする説があるが、昨今では守備指標が発達しており、いわゆる「ファイヤーフォーメーション」であり守備が壊滅状態であったがために投手陣の成績が悪化したとする説が有力になりつつある。)
また、投手側もこういった環境で鍛えられた選手もいた。ラビットと打者有利で悪名高かった旧市民球場のダブルコンボで鍛えられたのが黒田博樹である。この時代の経験がメジャーリーグで役立っているとする声もある。
しかし、ラビットボールはあまりにも打者有利であったため、2000年代後半にはこうしたボールは使われなくなり、各会社でボールの仕様はまちまちだった(ちなみに、メジャーリーグのボールも反発力などはバラバラである)。しばらく打高と投高を行ったり来たりしていた。
しかし、2011年に形勢が一気に変化する。統一球が登場する。詳細に関しては「統一球変更隠蔽問題」の項目に譲るが、とにかく飛ばないボールだった。
兼ねてから日本は様々な要因からスモールベースボールの影響が強かったこと、この頃になるとメジャー殿堂入り確実と目されていたイチローの権威は絶大で(特にイチロー自身が何か日本球界に向けて言ってるわけではないにも関わらず)メジャーでのイチローのスモールベースボールの象徴とも言えるプレースタイルは日本の野球にも大きな影響を与えていたため、12球団が一斉にスモールベースボールに舵を取り、2012年になると殆どの野手が単打狙い、更にバントや盗塁が激増するに従いホームランは更に減少した。
とにかくホームランが出ない。防御率1点台が当たり前という異常事態によってついに2013年にボールが変更された。ただし、現在の水準でも今なお投高打低のままであり、ホームランが少ないという意見は強い。
このように、日米共にホームランは野球の華と認めつつも、極端に多かったり少なかったりすると様々な問題を引き起こしてしまう。
多すぎてもいけない、少なすぎてもいけない。この問題は永遠に解決しない問題なのかもしれない。
日本プロ野球(NPB) | メジャーリーグベースボール(MLB) | ||||
---|---|---|---|---|---|
順 位 |
名 前 |
本 塁 打 |
順 位 |
選 手 名 |
本 塁 打 |
1 | 王貞治 | 868 | 1 | バリー・ボンズ | 762 |
2 | 野村克也 | 657 | 2 | ハンク・アーロン | 755 |
3 | 門田博光 | 567 | 3 | ベーブ・ルース | 714 |
4 | 山本浩二 | 536 | 4 | アルバート・プホルス | 703 |
5 | 清原和博 | 525 | 5 | アレックス・ロドリゲス | 696 |
6 | 落合博満 | 510 | 6 | ウィリー・メイズ | 660 |
7 | 張本勲 | 504 | 7 | ケン・グリフィーJr. | 630 |
衣笠祥雄 | 8 | ジム・トーミ | 612 | ||
9 | 大杉勝男 | 486 | 9 | サミー・ソーサ | 609 |
10 | 中村剛也 | 478 | 10 | フランク・ロビンソン | 586 |
日本プロ野球(NPB) | メジャーリーグベースボール(MLB) | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順 位 |
名 前 |
所 属 |
本 塁 打 |
試 合 |
年 度 |
順 位 |
名 前 |
所 属 |
本 塁 打 |
年 度 |
1 | ウラディミール・バレンティン | ヤクルト | 60 | 144 | 2013年 | 1 | バリー・ボンズ | SF | 73 | 2001年 |
2 | 村上宗隆 | ヤクルト | 56 | 141 | 2022年 | 2 | マーク・マグワイア | STL | 70 | 1998年 |
3 | 王貞治 | 巨人 | 55 | 140 | 1964年 | 3 | サミー・ソーサ | CHC | 66 | 1998年 |
タフィ・ローズ | 近鉄 | 140 | 2001年 | 4 | マーク・マグワイア | STL | 65 | 1999年 | ||
アレックス・カブレラ | 西武 | 140 | 2002年 | 5 | サミー・ソーサ | CHC | 64 | 2001年 | ||
5 | ランディ・バース | 阪神 | 54 | 130 | 1985年 | 6 | サミー・ソーサ | CHC | 63 | 1999年 |
6 | 野村克也 | 南海 | 52 | 150 | 1963年 | 7 | アーロン・ジャッジ | NYY | 62 | 2022年 |
落合博満 | ロッテ | 130 | 1985年 | 8 | ロジャー・マリス | 61 | 1961年 | |||
8 | 小鶴誠 | 松竹 | 51 | 140 | 1950年 | 9 | ベーブ・ルース | 60 | 1927年 | |
王貞治 | 巨人 | 130 | 1973年 | 10 | ベーブ・ルース | 59 | 1921年 | |||
タフィ・ローズ | 近鉄 | 140 | 2003年 | ジャンカルロ・スタントン | MIA | 2017年 |
▼メジャーリーグオールスター初となるランニングホームラン(イチロー)
▼代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン(おつり無し)(北川博敏)
▼12-12で迎えた9回裏、サヨナラ満塁ホームランを放つが…?(新庄剛志)
▼来日初ホームラン、と思ったらベースを踏み忘れて取り消された実例 ※記録は三塁打(クリス・マレーロ)
▼開幕戦初回先頭打者初球ホームラン(高橋由伸)
野手の記録 |
---|
打席 - 打数 - 得点 - 安打 - 二塁打 - 三塁打 - 本塁打 打点 - 盗塁 - 犠打 - 犠飛 - 四球 - 死球 - 三振 併殺打 - 打率 - 出塁率 - 長打率 - OPS |
掲示板
90 ななしのよっしん
2023/03/18(土) 11:48:00 ID: 0IbmYF7GBW
本塁打がこの記事へのリダイレクトになっているのは分かるけど
被本塁打もなっているのか
流石に被弾は違うようだけど
91 ななしのよっさん
2024/05/10(金) 12:10:53 ID: NOeuM9G0Gm
普段パ・リーグしか見ないから知らなかったんだけど、つべでおすすめに大山のホームラン集みたいなのが出てきたから観たけど大山のホームラン華があって良いな、かっこいい
ちなみに一番好きなのは里崎のホームランと里崎のバット投げです(興奮しながら)
92 ななしのよっしん
2024/09/11(水) 14:43:38 ID: eP3nXLq3S1
シーズン本塁打記録に村上が入ってなくていつから更新されてないんだろと思ったら今年更新してんじゃーん
とりあえず(2023年終了時点)が大嘘になってるから誰か訂正してくれんかね
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最終更新:2024/12/23(月) 10:00
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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