北家藤原氏のうち、摂関を務める九条流藤原氏ではなく、外戚化に失敗した本来の長子の一門である小野宮流藤原氏の出身。普通に有能な親戚のおっさんとして藤原道長に頼られ、儀礼に明るく長年朝廷のナンバーツーを務めたが、決して藤原道長などナンバーワンに対抗したわけではなく、独自のポジションを築いた。
長期にわたって記録された日記『小右記』でも有名。というか、藤原道長が望月の歌を詠んだ記録は、この『小右記』に記されたことで残った。
小野宮流藤原氏の藤原斉敏と、南家藤原氏の藤原尹文の娘を両親として生まれた。ただ、経緯は不明だが祖父・藤原実頼の養子となった。おそらく蔭位なども考慮して高位にある祖父の子となったのだと思われる。
実際、安和2年(969年)に元服と同時に13歳という若さで従五位下となり、現職の関白を養父にしたおかげで初手から高位についた。この辺は、父・藤原斉敏が17歳でこの序列になったことや、兄・藤原懐平がまず六位から始まったことからも、藤原斉敏一門では、藤原実資に限った事例である。どちらかというといとこの藤原公任が、同じく父・藤原頼忠が関白だったために元服と叙爵を同時に行った例などの方が近いと思われる。
また、この現職関白である祖父・藤原実頼を養父としたことは、藤原実頼没後、彼の遺産は息子の藤原頼忠を経由して、藤原頼忠の息子である藤原公任と、養子となった孫である藤原実資・藤原佐理にわたったので、実父の遺産とは別に、祖父の遺産をも手にすることとなった。
ただし、天禄元年(970年)に藤原実頼を、天禄3年(972年)に藤原斉敏を失う。とはいえ、小野宮流藤原氏にはおじであり、義理の兄弟にあたる藤原頼忠が現職の大臣に登っており、右近少将を経て、貞元2年(977年)には円融天皇の下で藤原頼忠が関白になると、藤原実資も天元4年(981年)に蔵人頭に任じられた。つまり、身分相応の順当な出世街道となったのである。
ところが、寛和2年(986年)に花山天皇の出家事件である寛和の変が起き、現職関白が藤原頼忠から藤原兼家に移った。その結果、公卿層に上がれない段階で、藤原実資は蔵人頭を去る羽目になった。
だが、ここで救いの手が入る。『小右記』によると、円融上皇がかなり裏で圧力をかけたようで、永延元年(987年)に蔵人頭に復帰し、永延3年(989年)に参議入りする。つまり、藤原兼家一門躍進にもかかわらず、公卿層に上がれたのである。
ただし、藤原頼忠はこの年に亡くなり、正暦2年(991年)には藤原佐理も参議を辞すと、小野宮流藤原氏に公卿は藤原実資一人しかいなくなってしまったのである。つまり、一門の唯一の期待の星が、彼になってしまったのである。
しかし、ここで再度よくわからない事態が起きる。藤原道長に必要とされたのか、長徳元年(995年)に藤原道長が内覧になると、藤原実資は急に権中納言に昇進されたのである。さらに長保3年(1001年)には権大納言・右大将とされた。
左大将が藤原公季の後、藤原頼通や藤原教通といった藤原道長一門に回されたのに対し、右大将はずっとそこそこの親戚である藤原実資に任されていたというのは、実際のところは置いておいて以下の2つの理由であったと思われている。一つ目に、藤原実資は普通に有能だったので若年の息子の手本になり廟堂の威厳も損なわない人選として最適だった。二つ目に、藤原道長はおそらく藤原実資がそんなに権力欲のなさそうな人物だったとみなしていた。
実際、藤原実資は、朝廷で反主流派だった三条天皇にもかなり期待されていたのだが、だからと言って藤原実資は何もしなかった。本来の嫡流という自負はありそうなものの、テクノクラート的な性格に徹していたのが、彼の基調であったのだ。
また、藤原道長にとって、中関白家を一通り追い出し切った後、ナンバーツー以下にいたのが、いとこの藤原顕光、叔父の藤原公季、兄の藤原道綱と、無害だが無能というどうしようもない面々だったのが作用した。つまり、彼らをわざわざ追い出す義理もないが、それはそれとして邪魔はされないように無理はしない政策を取らざるを得なかったのである。
しかも、藤原道長にとってかなり誤算だったのが、これらの人々が思ったより長生きしたことである。よって、藤原道長としては、本来後述の政権構想があったのだと思われるが、かなり気を使いつつしばらくの間政権を運営し続けた。
かくして、寛仁元年(1017年)に藤原頼通が内大臣になり、治安元年(1021年)に藤原顕光の病気による辞職と藤原公季の太政大臣就任が起きると、朝廷のトップは左大臣・藤原頼通、右大臣・藤原実資、内大臣藤原教通と、若い藤原道長の息子の間のナンバーツーに藤原実資が挟まれている。
つまり、藤原道長は、強引にでも自分の子弟に任せるのではなく、形式上は自分の息子をトップに立たせつつ、ナンバーツーに親戚のなんか有能なおっさんに任せ、政権を安定化させようとしたと言われている。
そしてこの藤原実資は、万寿4年(1027年)に藤原道長が死んだ後まで長生きし、寛徳3年(1046年)に90歳で亡くなることとなった。
平安時代の貴族にとって、日記とは政務や儀礼の洗礼を覚えておくメモとして書かれ始めた。この主体となったのは大臣クラスであり、彼らは外記などの記録を参考にしながら日記をつけ始め、この日記が後世の参考として婚姻を通じて譲渡されていった。
また、この時代の高位貴族は、いかに天皇のミウチになるかを志向する者と、官僚的性格を優先させたものにわかれ、日記というのは後者の貴族に習慣化していったようである(こう書くと、藤原道長が急に父親などと違って日記を書いたのも文脈が出てきたりする)。
で、そんな藤原実資の日記が、例えば藤原道長の『御堂関白記』や、藤原行成の『権記』、源経頼の『左経記』に比べて何が特徴的かというと、外記日記などの公的記録や、清涼殿で参照可能だった醍醐天皇・村上天皇の日記、養父・藤原実頼の日記などを、敬意をこめて頻繁に引用したことである。
この辺、出世街道を走りだしたころ、養父も父も失っていたことが大きいとされている。つまり、『小右記』で距離感を見て取れる実際の指導者である叔父・藤原頼忠に比べ、藤原実資は過去の日記のアクセスを自分なりに消化して、自分のものとしていったようである。
ちなみに、このソース元とした養父・藤原実頼の日記は、いとこの藤原公任が、藤原教通のために『北山抄』という儀礼書を作る時にバラバラにした後、紛失してしまい、藤原実資はかなり嘆いていたりする。また、後世の藤原忠実は、「藤原実頼は日記を秘匿したので子孫がいない」とディスっている。
なお、『小右記』原本は、まさにこの『小右記』によると娘の千古を介して中御門流の藤原兼頼にわたったと思われるが、その後彼らが『小右記』を参照した逸話は全くなく、おそらく小野宮第の何回かの火災で焼失してしまったのだろう。
また、では男系はどうなのだという話になる。ただし、ぶっちゃけ、ここまで全く出てこなかったので察するところがあるが、藤原実資には実子の男子は居なかった。しかし、小野宮流藤原氏の中で最高位にいたというのが作用し、兄弟の子たちを養子にしていたのである。
ここで養子の中で主要な存在となったのは、兄・藤原懐平の息子・藤原資平の系統である。彼らは何かあると様々な場で『小右記』など藤原実資の先例を引き起こし、独自の「家風」を形成したが、院政期の藤原資信を最後に公卿から脱落し、中世まで生き残ることができなかった。
とはいえ、これが功を奏したのか、家はなくなったものの、『小右記』は価値の高い書物として、読み継がれ、書き継がれていった。
たとえば後世の藤原定家が、「藤原実資が夢に出てきて、あなたのようになるにはどうすればいいかは聞けなかったものの、夢に出てきてよかったなあ」という話や、花園天皇が「最近、藤原実資を神道家として評価する人間が多いが、『小右記』にはそんなこと書いてあったか?」といった話を記録している。つまり、中世期においても、藤原実資はあの藤原実資として神格化されていたのである。
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最終更新:2024/12/23(月) 05:00
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