三条天皇(さんじょうてんのう、976~1017)とは、日本の第67代天皇である。諱は居貞。
藤原兼家を外祖父に持ち、一条天皇が即位すると、皇太子となった。15年にわたる皇太子の期間を経て、1011年に一条天皇が崩御すると、36歳にしてようやく即位した。しかし、次の皇太子・敦成親王を早く天皇にしたい彼の外祖父の藤原道長にとって、三条天皇は目障りな存在であった。道長は次女の妍子を嫁がせていたが、間には内親王しか生まれておらず、道長が妍子の出産時に生まれたのが男子でないと知ると、露骨に機嫌を悪くしたらしい。
早く天皇を退位させたい道長の圧力に抵抗する三条天皇だったが、この頃から彼は眼病を患うようになる。当時の薬は、水銀などの毒薬を含んでいた実例も多く、眼病予防の薬がかえって毒となり、視力を奪ったとも言われている。もちろん当時はそのような科学知識もなく、目の病は天狗の仕業と噂された。おまけに、三条天皇の御代では、二度も大規模な火災が起き、そのたびに内裏が焼け落ちるという悲惨な事件が起こった。こうした出来事も、道長にしてみれば天皇の徳が足りないから起こったという退位の大義名分となって、ますます天皇を苦しめた。
1016年、目の病気の悪化に加えて道長のいじめに絶えかねた三条天皇は、自分の子である敦明親王を皇太子にするという条件で、遂に敦成親王(後一条天皇)に譲位した。だがこの直後、自分の退位に伴って伊勢から京へ戻った愛娘の当子内親王が、藤原道雅と密通するという事件が発覚。反対の声を押し切って、三条院は二人の仲を引き裂いてしまった。単に娘を奪われただけでなく、この背景にはこの事件で道長が更に圧力を加える危険性があったからとも考えられる(道雅は道長との権力争いで敗れた、藤原伊周の子であるため)。翌年に三条院は出家し、ほどなく病で悲運の生涯を閉じた。
百人一首に選ばれた彼の和歌「心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」は、「栄華物語」によると、退位する前年、妍子に詠みかけた歌と記録されている。ほとんど視力も失った目で、彼はどのような思いで月に向けて詠んだのだろうか。日本文学者の青柳隆志氏は「肉体的にも精神的のもボロボロに疲れ果てた三条天皇にとって、暗闇を照らす月の光だけが癒やしの光だったのではないか」と評している。漫画「うた恋い。」では、道雅との仲を裂かれた失意の当子内親王に罪悪感を抱きながら、自分が出家をすることを告げる場面でこの歌を詠んでいる。
残された三条天皇の遺族にも、波乱の人生が待ち受けていた。三条院の崩御からわずか6年後、当子内親王が23歳の若さで急逝、翌々年にはその母で三条院の皇后娍子が我が子に先立たれた悲しみから病没、そのまた翌々年になると父・道長と夫の板挟みとなった中宮妍子が、出家の願いも叶わぬままやはり病で亡くなった。皇太子の敦明親王は道長の圧力を恐れて、自ら皇太子を辞退して、皇位継承の争いから身を引いた。これにより、逆に道長から手厚い待遇を受け、小一条院と称された。名より実を取ったわけである。四男の性信入道親王は出家し、高野山で修行して最終的には仁和寺の門跡となって81歳の長寿を保った。そして、妍子との間に生まれた禎子内親王は、後朱雀天皇に入内し、尊仁親王を生んだ。藤原氏と外戚関係を持たず、藤原氏の摂関政治を終わらせた後の後三条天皇である。
余談だが、百人一首で三条天皇の歌番号は68番と、同時期の歌人に比べてかなり遅い。何しろ66番の作者である行尊は三条天皇の曾孫で、ずっと後の時代の人物である。なぜ彼だけ番号がかけ離れているのかは、未だによく分かっていない。
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最終更新:2025/01/09(木) 08:00
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