福永洋一 単語

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福永洋一とは、高知県高知市出身の元騎手である。

天才」と称えられ一世をしながら、事故により僅か11年で引退を余儀なくされた悲運の名騎手

来歴

福永洋一
ふくなが よういち
基本情報
日本JPN
性別 男性
出身地 高知県高知市
生年 1948年12月18日
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 栗東武田文吾
(1968-1981)
免許 1966年
免許区分 地・障害(-1969)
引退 1981年
最終騎乗 1979年3月4日
重賞勝利 49勝
GI勝利 7勝
通算成績 5,086戦983勝
記録
関西放送記者クラブ
(1968年)
JRA賞
最多勝利騎手(1970-1978)
騎手者(2004)
関西テレビ放送
(1975-1978)
騎手テンプレート

1948年高知県出身。地だったが戦後の農地改革により極貧に陥った福永に生まれた洋一は、の放蕩生活に呆れたが失踪したために育てられた。その高知競馬騎手結婚、3人の騎手になったことがし、洋一も騎手を志望。1964年騎手養成長期課程が設置されていたに向かった洋一は、15期生の一員として騎手に入る事となるが、入学条件である中卒まで待ちきれなかった洋一は、と死別以降身を寄せていたぎ先を離れ、先行して騎手デビューを果たしていた長・甲がいた京都に向かい、中学卒業までの一年は甲の恩師である武三の元で過ごすことになる。なお、恩師の名前からお察しの通り後の強敵&友である武邦彦戚(三とは叔父と甥の関係)であり、この頃から二人は深い面識を得ることとなる。

この15期生、洋一の他に、武豊に抜かれるまでJRA最多勝利記録を保持した岡部幸雄GI級競走15勝を挙げた柴田政人八大競走2勝の伊藤正徳が顔をえ、後に「の15期生」と称される黄金世代であった。福永はどちらかといえば天才であったという。この逸材の噂を聞きつけ獲得に動いたのが、名門武田文吾厩舎のエース騎手栗田勝であった。栗田は噂レベル情報から洋一の才見抜き、洋一の厩舎での実地研修を自身所属の武田厩舎で行うように画策。こうして、洋一は名門厩舎所属と言う好条件での騎手デビューへの足がかりを掴むこととなった。

3年の騎手課程を終えた洋一は、最初の免許獲得の試験に落第し1年の浪人と言う誤算はあったものの、1968年武田厩舎所属騎手としてデビューし、1年から14勝を挙げ関西新人賞を受賞。しかし、デビュー当初しばらくは荒っぽい騎乗が立ち、2年には負担重量が不足したことで3ヶ騎乗停止を食らい、さらに師匠の武文に追加で1ヶの騎乗自粛を言い渡されてしまう。しかし、この間や自粛明けに学ぶことが多かったらしく、この年45勝を挙げ全11位という大戦果。特に、自粛時にダート競馬ノウハウなどを手に入れるために次二三雄のいる大井競馬場を訪れ、その際に「周りの騎手だって馬鹿じゃない。同じ作戦ばかりじゃなく、たまには逆をいってみろ」と窘められたことが、洋一の変自在の騎乗スタイル構築につながる事となる。

翌3年に初のリーディン騎手となるも、一部では「数でこなしただけの勝ち漁り」とも揶揄されるなど、リーディン騎手なりたての時期の評価はそこまで高くはなかった。その評価を一気に覆したのが1971年菊花賞であった。ニホンピロムーテーとのコンビで圧倒的一番人気を背負い挑むことになった洋一は、最大の難所と言われる第三コーナーアップダウンはるか手前の第二コーナー出口あたりからスパートを掛け先頭に躍り出る。第三コーナースパートし菊花賞を制した1966年の勝ちであるナスコトブキと言う実例があるものの、これはナスコトブキの気性難を危惧した結果の奇策であり、一歩間違えればほぼ同着で入線したスピードシンボリに足元を救われかねなかったことを鑑みると、このロングスパートは謀とも思われた。だが、「ニホンピロムーテー1600メートルならにも負けない。あそこで先頭に立てばゴールまで1600メートル。このペースなら逃げ切れる。」と考えた洋一は、一見破天荒とも思われるこの騎乗術を実行し遂。見事、八大競走の一つである菊花賞制覇を成し遂げることとなった。

菊花賞制覇という偉業の前に、これまで罵倒を浴びせてきた面々も沈黙。天才二つ名を与えられた洋一はその後も勝ちまくり、9年連続でリーディングを獲得するという快進撃。1977年には野平祐二記録を塗り替え当時最多の126勝、さらに翌年には131勝を挙げた。この間に八大競走で6勝を挙げている。

しかし1979年3月4日毎日杯での騎乗中に前を走っていたの落に巻き込まれて洋一も落。深刻な挫傷で重度の後遺症が残り、決死のリハビリのおかげで1984年にはに乗れるまでに回復を果たしたものの、騎手ライセンス更新には間に合わずこの事故を最後に騎手引退余りにも突然にターフを去ることになってしまった。

2004年に顕騎手として殿堂入り。なお、この時の選考基準は「通算勝利度数がおおむね1000勝」というやけに引っかかる条件になっていた。(調教師1000勝以上と明確だったが、後述の改定により2016年橋口次郎、元・調教師が991勝で調教師として殿堂入りしている)

これは、「洋一は983勝とわずかに1000勝にとどいてはいないものの、洋一ほどの騎手を顕しないのはありえない」ということで、特別に洋一が用意されたものと見られている。

※なお2015年の改定により現在の選定基準は騎手は概ね2000勝以上、GIを10勝以上などを含んだ条件に、調教師は概ね1000勝以上、GIを5勝以上などを含んだ条件になっている。

特徴

逃げで追い込んだり、追い込み逃げ切ったりと常人には考えつかないような騎乗で勝利を重ねた。そのような騎乗の代表格に、差しニホンピロムーテー中半ばの向正面から先頭に立たせ押し切った1971年菊花賞、直線で内埒沿いの恐ろしく狭いスペースを突破し他騎手に「ラチの上を走ってきたのかと思った」と言わしめた1977年皐月賞(勝利ハードバージ)がある。

自然美しいフォーム、類まれな判断力、競馬にまつわる膨大な知識等、洋一の才は多くの関係者が語り継いでいるが、総じて言われるのは「そのような言葉では説明できない何か特異な力を持っていた」ということである。

当時の競馬ファンの間でも洋一の信頼は別格で、如何にであろうと高率で2着、3着に入線するため、普通なら即消すような馬券でも騎手が洋一ならとりあえず買いとされるほどの力を持っていた。他にも、洋一が騎乗すると庸なでもたしかにその時は走するのであるが、まるで燃え尽きるように以降まるで走らなくなるなんてことも言われており、そういった神話性が福永洋一という騎手を特別な存在足らしめている。

主な競走実績

桜花賞(1977年インターグロリア1978年オヤマテスコ)

皐月賞(1977年ハードバージ)

天皇賞(1972年ヤマニンウエーブ・1976年エリモジョージ)

菊花賞(1971年ニホンピロムーテー)

上記の通り八大競走では6勝を挙げ、八大競走に準じる重賞では宝塚記念(勝利エリモジョージ)・エリザベス女王杯(勝利インターグロリア)・阪神3歳ステークス(勝利ヒデハヤテ)を勝利し、現在で言うGI級競走を9勝と言う戦果を挙げている。

ダービーの夢

上記の実績に東京優駿が含まれていない事からお察しの通り、洋一が最も欲していたダービーは未勝利1978年カンパーリでの3着がベストリザルトとなってしまった。お世辞にも長いとは言えない11年の実働期間内でダービージョッキー称号を得るチャンスは少なくなかったものの、ヒデハヤテは脚部不安・ハードバージは騎乗を断りホリエンジェルに騎乗・カツラノハイセイコ騎乗での挑戦も落による再起不能で果たせずに終わった。

しかし、そのは約40年を経て息子の手により果たされることになる。

福永洋一と福永祐一

洋一が落事故に遭った時、長男祐一は2歳。したがってリハビリをするの姿は見ていても、騎手としてのの姿は記憶になかった。しかしその一は近所に住んでいた8歳年上の武豊に憧れ、「父親のような悲惨なことになって欲しくない」という母親の反対の説得や一浪の末競馬学校入学1996年デビューを果たす。

名前も手伝いデビュー時から非常に多くの注と期待を集め、1年から53勝を記録武豊がいたこともありほど抜きんでた存在とはならなかったがトップジョッキーに成長し、史上初となる子でのリーディングも達成。さらに2018年には一がダービー勝利し、洋一が果たせなかったえた。

祐一は「は一生洋一の息子でいい」と語っていたが、後に洋一の勝利記録えて1000勝に到達した際には「これで福永祐一個人として歩み出せた」とコメントしており、騎手としての記憶になくても、一が父親背中を追いかけ続けていたことがうかがえる。

福永洋一記念

2009年には、武豊高知競馬トップジョッキー修次の縁で、武の他一や川田将雅関西騎手高知に招いて行われたトークショー内での一の一言がきっかけとなり、翌2010年高知競馬場地方重賞福永洋一記念が創設。賞金等は高知競馬が出資、協賛金や副賞などは一が提供した。記念すべき初代覇者は、レース創設の大きなきっかけを作った上に迎えたフサイバルドル。そして、表式では洋一がプレゼンターとして事故以来31年ぶりにファンの前に登場し、高知競馬場は大歓に包まれた。第1回を終えた後、一は「の中のヒーロー親父だったんだと初めて思った」とコメント。また勝利騎手となったも「洋一さんは中学校先輩。絶対に勝たなきゃならないという思いで、久々プレッシャーを感じました」とコメントした。

第2回以降も徐々に賞金が増額されるなど順調に継続されており、開催に合わせて様々な企画が行われる、高知競馬場の一大イベントに拡大。洋一も毎年のようにプレゼンターとして訪れているほか、2015年の第6回競走では一が初めて騎手として騎乗した(4着)。高知競馬は将来的に福永洋一記念交流重賞にすることをしており、福永洋一の名前はこれからも永く刻まれていくことだろう。

主な騎乗馬

勝ちは本人騎乗時のみ。太字は記事のある

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関連コミュニティ

関連リンク

関連項目

JRA調教師騎手
騎手 野平祐二 | 保田隆芳 | 福永洋一 | 岡部幸雄 | 河内洋 | 郷原洋行 | 柴田政人 
調教師 尾形藤吉 | 松山吉郎 | 藤本冨良 | 武田文吾 稲葉幸夫 | 二本柳俊夫 | 久保田金造 | 伊藤雄二 | 松山康久 |
橋口次郎 | 藤沢和雄
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