崇徳天皇 単語

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崇徳天皇すとくてんのう(11191164)とは、日本の第75代天皇である。諱は顕仁。

歴史教科書では保元の乱を扱う際に登場するため、崇徳上皇と記載されることが多く、崇徳院・讃岐院・新院などとも呼ばれる。

概要

小倉百人一首77番、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」の作者系譜の上での鳥羽天皇(第74代)、藤原子(待賢門院)。

鳥羽天皇の第一皇子として誕生するが、実は曾祖である白河法皇子と密通してできた子と言われている。そのため、鳥羽天皇からは「叔父子」と呼ばれて疎まれていた。なお、平清盛白河法皇の落胤という説があり、もしこれらが本当なら清盛と崇徳天皇は異母兄弟ということになる。もっとも、この話が載った文献は説話集「古事談」のみであり、実は本当に鳥羽天皇だが、1123年に白河法皇がわずか5歳(これ以降、全て数え年)の崇徳天皇を即位させ、鳥羽天皇を退位させたことが原因で恨んだという説の方が、むしろ正しいのかもしれない。

白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇院政を開始すると、崇徳天皇の立場は不安定なものになっていく。鳥羽上皇子を疎んじ、寵する藤原得子(美福門院)との間に生まれた近衛天皇を2歳で即位させると、天皇の座を追われた。しかもこの際、近衛天皇を崇徳天皇の皇太子とするはずだったが、その約束を反故にされて皇太としたため、院政をすることができず、政治の場から遠ざけられ、屈とした日々を送るようになる。

1155年に近衛天皇が数え17歳若さで病死すると、次の天皇補として、子の重仁王が有力視されたが、信西の進言によって彼の妻がを務める同後白河天皇が即位し、またも院政する権限を逃す。翌年、鳥羽法皇が亡くなった時も、いまわの間際に立ち会うことができなかった。

不満を募らせた崇徳上皇は、近衛天皇を呪詛した疑いを掛けられて失脚した藤原頼長と手を組み、源為義忠正らの武士を集めて保元の乱を起こす。しかし後白河天皇側の夜襲に遭いわずか一日で惨敗、世をんだ崇徳上皇は出を志すが、罪人とされたために出すらままならなかった。捕らえられた崇徳天皇は、うどん県讃岐へ流罪された。天皇の流刑は、天皇藤原麻呂恵美押勝)の乱で淡路に流されて以来、392年ぶりのことである。最後の期待であった重仁王にも先立たれた崇徳天皇は、に帰ることも許されないまま讃岐の地で、失意の内に悲運の生涯を閉じた。享年46歳。

崇徳院と怨霊伝説

軍記物語「保元物語」によると、崇徳上皇は配流先で五部大乗経の写経を行い、戦死者の福を祈った。これを朝廷に出して納経をめたが、後白河上皇は経典に呪いがかけられているのではないかと疑い(後述の「物語」では信西が讒言して)、これを送り返してしまう。崇徳上皇は怒りと絶望のあまり、舌をかみ切って、「日本国の大魔縁になる」と言い残し(文献によっては経典に血で書き記したとも)、生きながらにして天狗となり、その死後も霊となって人々に恐れられたと記されている。江戸時代作家上田成が記した伝奇小説物語」のエピソード峯」では、西行霊となった崇徳上皇と出会う話が描かれている。

あまりにも恐ろしく悲しい崇徳上皇の最期だが、実際の上皇の晩年はそれとはかけ離れたものであったらしい。歴史物語「今」によると、崇徳上皇はが身の不遇を嘆くものの、保元の乱で対立した者達を恨むことはなく、ひっそりと亡くなったと記されている。霊説の発端は、平安時代卿・吉田経房の日記「吉記」にあるが、記述は崇徳上皇が亡くなってから数十年経ってからのことであり、話自体も伝聞なので信憑性には乏しい。

では、なぜ崇徳上皇=霊が定着したかというと、上皇が亡くなって約10年後、後白河上皇の身内が相次いで亡くなり、の都では火災や強竜巻か?)が多発し、鹿ヶ谷の陰謀など社会情勢や治安が大きく乱れたことが最大の原因とされる。すなわち、崇徳上皇本人は菅原道真のように、生前は静かな晩年を送ったが、相次ぐ災害のせいで祟り神と見なされ、災害を鎮めるために鎮の対になった。これに伴い、崇徳上皇は恨みを残して死んでいったという話が急速に広まり、菅原道真平将門と共に日本三大霊と呼ばれるまで、恐れられる存在になってしまったのではないか?と言われている。考えてみれば、勝手に魔王とされてしまうなど、崇徳上皇にしても迷惑な話なのかもしれない。

物語における崇徳上皇

吉川英治の小説「新・平家物語」で描かれた崇徳上皇は、かつて上皇に仕えていた守の阿部小説オリジナルキャラクター)が上皇を慕って流刑地である讃岐を訪れ、傷心の上皇を慰めようとを吹くなど、部下に慕われる悲劇の人物として描かれている。
原作では最終的に闇落ちしてしまうが、本作を枝が脚色した1972年大河ドラマ版では、「悲憤のうちに生涯を終えた」のナレーションに留め、麻との再会と別れで幕を閉じている。この大河ドラマ「新・平家物語」では若き日の田村正和が、崇徳上皇を好演した(現時点で、田村正和最後の大河出演作である)。
2012年大河ドラマ平清盛」では、映画ピンポン」などで知られる実力俳優の井新(旧芸名・ARATA)が演じた。重仁王の死によって絶望のあまり発狂般若のごとき恐ろしい姿をした生き霊となってを呼び起こし、厳島神社へ向かう清盛らを苦しめるが、最期は暖かな日の子供達の遊ぶによって浄化され、元の穏やかな姿に戻って息を引き取った。

崇徳上皇は歌人としても名を残しており、百人一首に「瀬をみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」の歌が乗せられている。
江戸時代には、この歌を素材にした落語「崇徳院」が作られ、現在でも人気の高い名作である。
余談だが、大河ドラマ平清盛」の作者である藤本有紀は、かつて連続テレビ小説ちりとてちん」を手掛けたが、劇中では落語の「崇徳院」もエピソードのひとつに取り上げていた。

落語の崇徳院

落語の『崇徳院』も元々は滑稽噺として作られたのだが、感動的な人情噺としての要素が強くなった。噺は凄く単純で、ありがちなすれ違いの恋物語なのだが、サゲの存在について色々物議を醸し出す噺にもなっている。

ある商若旦那原因不明の大病となった。だが、染みの五郎が訳を聞けばそれは煩いであり、どうやら参詣帰りに落とし物の錦紗を届けたにぞっこん惚れ込んだというのである。しかし、名前も聞いておらず、手がかりはそこでお礼に受け取った『崇徳院』の短冊一枚だけ。だが、旦那五郎に対し、3日以内に見つけ出したら借金を全て帳消しにする上に蔵を5つくれてやるとまで告げる。

しかし、肝心の五郎は全く当てもなく徒に2日を過ごした。経緯を妻に話せば、妻は「あんたがその崇徳院のを詠めばいい」と助言をくれた。そして、手当たり次第でなく、床屋など人の噂話がよく入る場所を当たればいいと聞くや、彼は翌から手当たり次第に床屋を回る。そしてとうとう剃るもの一つなくなってしまった頃に、ある客が急いでやってくる。その男は、出入りの店の煩いになったというので、お茶会で出会った若い色男を捜しているというのだという。五郎はやっと見付けたとを挙げ、思わず男に飛びついた。

…尚、その後は普通めでたしめでたしと語ったり、従来の地口オチのサゲを演じたり(飛びついた拍子に割れて、床屋から弁償しろと迫られると『割れても末に買わんとぞ思う』と弁解を入れるというもの。崇徳院の下の句のもじりである)、独自のサゲを作ったり、噺によって区々であるが、笑福亭松鶴などのようにサゲを蛇足と感じていた噺も少なくないようだ。

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