河越夜戦(かわごえよいくさ/やせん)とは、1546年5月に北条家と関東管領・山内上杉家、その庶家・扇谷上杉家、古河公方足利家の連合軍との間で起こった戦いであり、桶狭間の戦い・厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つに数えられる戦いである。
以下、この戦いの要因、経過を噛み砕いて述べる。
北条家が台頭する前、関東地方での室町幕府の代理人・鎌倉公方を補佐するために設けられたのが管領(かんれい)職であり、この頃になると上杉氏が世襲で務めるようになっていた。ガンガン周りの武士達へ影響を及ぼすようになった管領の権力は公方をしのぎ、一度は滅亡にまで追いやった(後にその子どもが下総国古河を本拠として「古河公方」となる)。しかし管領上杉家の傍流にあたる扇谷上杉家も勢力を強め始め、この三者によるgdgdな争い(長享の乱)が続いていた。ざっと18年ぐらい(しかも、その少し前にも28年程、享徳の乱という戦いをやっていたまるで成長していない)。
そこで扇谷上杉家は膠着した戦況を打破しようと助っ人を呼ぶようなつもりで北条家を呼び込んだからさあ大変。世継ぎ争いなんかもあり弱っていた管領上杉家と古河公方家を横目に、もっと評価されるべきに定評のある二代目・北条氏綱のもと扇谷上杉家はあっという間に滅亡寸前に追い込まれてしまう。
氏綱が死ぬと跡を継いだのは当時バカ殿に定評のあった氏康くん。これは大チャンスとばかりにgdgdな戦いを続けていた三馬鹿トリオ三家は大連合。管領と公方のネームバリューを最大限に使って関東一円から7万とも8万とも言われる大軍勢をかき集め、自分達に突きつけられた刀の切っ先・河越城を包囲した。さらに、駿河の今川義元と手を組んで、駿河の北条領を攻めさせた。1545年10月末の事である。
さて8万もの大軍に囲まれた河越城には北条戦隊ソナエンジャーのソナエイエローでおなじみ、地黄八幡こと北条綱成(福島綱成)が3千で守っていた。既に戦力比80:3なんだからそのまま力攻めすりゃ落ちるだろう、と思うのが普通だが、この城は上杉家の築城マニアこと太田道灌が全精力を込めて造り上げた三堅城の内の一つであった。しかも守るは猛将綱成である。攻城戦はずるずると長引き途中からはほとんど放置プレイとなって兵糧攻めすることとなった。
一方の北条氏康、義元と和睦をしたものの、相手は8万の大軍だっつってんのに本国から率いてきたのは僅かに8千人。その姿を見た三馬鹿トリオ「これは勝つる!」と思ったか早くも戦勝気分。氏康が何回か送った停戦要請にも応じずふんぞり返っていましたとさ。氏康軍に攻撃を仕掛けてみてもろくに戦おうとせずに逃げるだけ。そんなの何回か続けばそりゃあ緩んで緩んで緩みきってた連合軍、気付けば包囲してからもう半年以上も過ぎた1546年5月19日(旧暦4月20日)夜、その油断を突く形で氏康が動く!
鎧兜を脱いで身軽になり、敵味方識別用に腕に白い布を巻きつけた兵達とともに上杉連合軍本陣にドーン!と突撃。侮りまくってた相手からいきなりストレートを叩き込まれた連合軍は大混乱に陥り、混乱の中で扇谷上杉家当主上杉朝定が戦死。この大混乱を見て城内から打って出たソナエイエロー綱成が古河公方足利晴氏の陣に突撃しこれを敗走させると、結局は寄せ集めの軍勢だった連合軍は一気に瓦解。関東管領上杉憲政も3千あまりの兵を失い撤退を余儀なくされた。
この機を逃さず追撃しようとした氏康だったが、あまりに深入りしすぎたため後詰を任せておいたソナエブラックこと多目元忠に法螺貝でドツかれ引き上げを命じられた、と言うオチがついた。
連合軍の死傷者は1万3千と伝えられている。繰り返すが、北条家の兵は城兵3千と救援8千、計1万1千である。
この一戦で当主を失った扇谷上杉家は程なく滅亡。古河公方晴氏は北条軍に包囲されて降伏し、北条家から養子を迎え公方職を譲ることになった。
管領・上杉憲政は、信濃にちょっかい出して信玄にボロ負けしたり、すっかり名君になった氏康に追撃されたりして上野・平井城を追われ、一旦常陸の佐竹氏を頼るものの、「源氏の末裔である俺が何で上杉の名を継がなきゃいけねーんだよ」という佐竹義昭の心温まる一言であっさりと追い払われ、越後の龍こと長尾景虎(上杉謙信)に身を寄せる(ちなみに景虎の父為景は憲政の祖父顕定を討った仇である。仇の息子に頼らなければならないほどに落ちぶれたということだろう。)
北条家はこの一戦で関東での確固たる地位を築き上げ、豊臣秀吉の小田原攻めに至るまでの繁栄の礎となった。
なお、これらは信頼性のある一次資料が現存せず、『関八州古戦録』にある記述が元になっており、細部に疑問や錯誤の可能性を残している。秀吉による関東侵攻や家康の関東統治に当たって北条家時代の文献などが相当数廃棄されたのが理由とも。しかし、この年この時期にこの場所でそれなりの規模の会戦が行われたことは確かであり、この戦いを契機に上杉・足利が衰退したことも事実である。
▼history-reproduction「河越夜戦」
掲示板
17 ななしのよっしん
2022/06/13(月) 16:07:56 ID: EiTq3ckK3Y
>>16
たぶんこの戦はフィクションに近いのだろうし、確かに軍記物のソースとしての信頼性はとても怪しい(記された当時の文化などを知るのに役立つだろうが)と思うけど、
「何か大きな出来事があったなら、感状や日記、手紙が必ず発見できる」という信念があるとすれば、それはかなり問題があると思う。まして、「より多く信頼性の高い史的証拠の存在が、より重要な出来事の発生を強く示唆する」という判断はより問題があるだろう。
仮にそれが一般的な日本史学的態度だとすると、史学が特定の出来事を強調する方法にはいちおうの懐疑を持つべきだと思う
個人的には、むしろ、軍事史の世界では、西洋中世軍事史学で言われているように、ブルート・ファクト(不変の自然法則と物質的証拠からの考察)を活用すべきだと思う(まあ、その種の方法では河越夜戦の存否自体は決して明らかにならないけどねw)
18 ななしのよっしん
2022/07/19(火) 13:02:27 ID: 2x7+HmnN0U
川越夜戦について北条の遺臣三浦浄心の書いた「北条五代記」に「四月二十日午の刻に至って合戦」とあり、この戦は夜戦でなかったらしく、「新編武蔵風土記」には「川越夜戦の年月区々の説あり、或いは天文七年七月十五日、或いは十一年七月十五日、或いは二十年とも云う」と、十五年四月は全く出てこない。
「和田系譜」は「和田兵衛大夫信輝、天文七年七月二十日川越討死」と七年七月に川越に激戦のあったことを裏づけている。
川越には数回の合戦が数年にわたって繰り返され、上杉方は敗戦を重ねて、次第に衰退していったのだろう。
19 ななしのよっしん
2022/07/19(火) 13:06:49 ID: 2x7+HmnN0U
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最終更新:2024/12/23(月) 20:00
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