上杉顕定(うえすぎ・あきさだ)とは、日本の武将である。
父の従兄弟にあたる上杉朝定の養子となるが、2歳の時に養父が死去している。誕生まもなく養子に出されたか、朝定死後に形式的に養子とされたかと思われるが詳細は不明。朝定には実子である上杉朝顕もおり、養子となった経緯も不明瞭である。
貞治年間(1362~1368)に関東に下向して、鎌倉公方・足利氏満に仕えて鎌倉・扇谷(おうぎがやつ)を居住地とし、扇谷上杉家を立てた。扇谷上杉家はその後、武蔵を中心とした一大勢力へと成長していく。なお義兄弟の朝顕は京都に残り続け、こちらは八条上杉家として続いていく。
わずか30歳の若さで病没し、家督は甥・上杉氏定(兄弟である上杉頼顕の子)が継いだ。
関東地方の乱世の始まりである享徳の乱~長享の乱~永正の乱の時代における関東管領。その職を44年の長きに渡って務めて、西関東における一大勢力を築いた。
しかし、実家である越後上杉氏において守護代・長尾為景が下克上を起こし、実弟の上杉房能が死に追いやられた。その仇討ちの為に越後へと出陣するも、為景の反撃により彼もまた自害する。
その生涯は戦国時代初期そのものであったと言える。余談ながら、南総里見八犬伝にも登場する。
1455年、関東管領(山内上杉家)と古河公方(はじめ鎌倉公方)の対立が激化して、享徳の乱が発生。山内上杉氏の当主であった上杉房顕は、古河公方・足利成氏を中心とした勢力と、武蔵・五十子(いかっこ/いらこ)での睨み合いを続けていた。
その房顕が1466年に五十子陣にて病没したため、8代将軍・足利義政や家宰・長尾景信(白井長尾家)の推挙より13歳で家督を継いだ。血縁としては養父・房顕と実父・房定は従兄弟にあたる。
幼少の頃は実父・上杉房定や長尾景信らの力を借りて、古河公方軍と戦っていた。
1471年に父が越後に帰国し、代わって兄・上杉定昌が関東を任され、兄弟で古河公方軍に立ち向かうこととなった。同年には景信が古河御所を落とすなど有利な展開で押していたが、翌年に奪還され、更にその翌年には景信が病死してしまう。
この時、後継の家宰に景信の子・長尾景春ではなく、景信の弟・長尾忠景を任命したことが、後々に繋がる失策となってしまった。
忠景自体は決して無能ではなく有能な人物であり、白井家の親戚にあたる総社長尾氏の家督を継ぎ、うまく立ち回っていた。また景春は白井長尾氏の家督を継いだが、景春を家宰とすると白井家が三代続けて家宰を務めることになり、あまりに力を持ちすぎてしまうために家宰になれなかったとも言われる。
ともかく、後継者人事に不満を抱いた長尾景春は1475年に叛旗を翻し、五十子陣の顕定はこれを迎え撃つも敗戦する。この時、顕定の山内上杉家に協力して活躍したのが、扇谷上杉家家宰の太田道灌である。
景春は古河公方軍と手を結ぶなどしたため情勢は不利となり、父の奔走により1482年に古河公方との和睦が成立した。
しかし古河公方との和睦の直後、今度はそれまで協力していた扇谷上杉家と対立するようになる。
上杉氏分家のひとつ・扇谷上杉家は当初は武蔵の一勢力であった。それが、太田資清・太田資長(のちの太田道灌)父子の活躍により勢力を拡大しており、目の上のたんこぶのような存在であった。
1486年、扇谷上杉家の当主である上杉定正が太田道灌に謀反の疑いをかけて暗殺すると、これを好機と見た顕定は翌年に攻め込み、開戦。これが長享の乱の幕開けとなる。
特に1488年に行われた実蒔原・須賀谷原・高見原の三つの合戦は「長享三戦」「関東三戦」と言われる激戦となった。が、どれも山内軍の敗北に終わっている。
山内軍1千余、扇谷軍2百余の戦いであったが、扇谷軍が勝利した。地の利を用いたのであろうか。足利成氏と長尾景春が扇谷方に味方していたので気楽になったのであろう。
定正に敗れた顕定であったが、態勢を整えて養子・上杉憲房と共に定正に立ち向かう。一方定正も足利政氏(成氏の子)と長尾景春を味方につけた状態で養子・上杉朝良と共に河越城を出陣した。山内軍2千余、扇谷軍7百余の戦いであり、6月18日に衝突した。当初は数の利で押すが、景春の奮闘で敗れてしまった。
1度目は相模、2度目は武蔵が舞台であったが、3度目も武蔵が舞台となる。合戦は11月15日に行われた。
定正は足利政氏と長尾景春の援軍を再び得て顕定に対峙する。顕定も父・房定に援軍を請い、兵を出してもらった。山内軍3千余、扇谷軍2千余の戦いであったが、三度定正の勝利となり顕定は鉢形城へと逃亡した。
・・・ここまで見ると顕定はただの戦下手のようにも見えてしまう。また、須賀谷原の戦いの直前には兄・定昌が上野白井城にて扇谷方により自害に追い込まれている。
しかし、根本的な力関係は山内方が扇谷方を圧倒しており、越後の父の援軍もあることから、全体の戦局としてはじわじわと扇谷家を追い込んでいった。
ところが、ここで思いもよらぬ方向で事件が勃発する。1493年に伊勢盛時(北条早雲)が伊豆国へと討ち入りし、深根城の関戸吉信を攻めて皆殺しにしたのである。
伊豆国は元々山内上杉氏の領国であったが、足利義政の要望で義政の兄・足利政知が関東入部する際に伊豆1国を譲った経緯がある。これを堀越公方と呼ぶが、早雲によってそのまま滅亡に追い込まれてしまった。
翌1494年には上杉定正が落馬で事故死するという事件も起こり、対立していた古河公方を味方に引き込むことに成功した。ただ、同年には越後の父も病死している。
定正の跡を継いだ上杉朝良にはそれほどの力量がなく、次第に河越城に閉じ込められる形となり、扇谷方の滅亡は時間の問題であった。そこで、駿河の今川氏や伊豆の伊勢氏と同盟を結び、対抗を図るようになった。
1496年、顕定は伊勢盛興(伊勢弥二郎、北条早雲の弟)の拠る小田原城を攻めて降伏させている。
1504年には当時扇谷上杉氏と同盟を結んでいた今川氏親が朝良救援で伊勢盛時と共に出兵してきた。ここにおいて武蔵国の立河原において、上杉顕定 対 上杉朝良・今川氏親・伊勢盛時の合戦が勃発した。
名将揃いの敵に対して顕定も負けじと力量を発揮するも、双方死力を尽くした戦いとなり、顕定は多数の有力家臣と2千余の戦死者を出す大敗を喫した。が、敵にも相当な損害を与える事に成功した。
また、父の跡を継いだ弟・上杉房能は立河原の戦いでの敗戦を聞くと守護代・長尾能景を関東に派遣し、合戦で手薄になっていた扇谷軍に大打撃を与えた。翌1505年には朝良を降伏に追い込み、20年弱に及んだ長享の乱は山内上杉家の勝利で終結した。
1507年、越後の弟・房能が突如養子・上杉定実と守護代・長尾為景(能景の子)に襲われ、自害に追い込まれる事件が勃発する(永正の乱)。
これに激怒した顕定は、1509年に仇討ちの軍を派遣し、定実と為景の両者を佐渡へと追放した。
こうして山内上杉家は上野国・武蔵国・相模国に加え越後国の4ヶ国を領する大大名となったが、翌1510年、再び挙兵した為景らと長森原で合戦となる。当初は8千という兵力で有利な展開を見せていたものの、敵の援軍である高梨政盛の横槍もあり、衆寡敵せず自害した。享年57歳。
越後国は守護代である長尾為景が実権を握り、上杉定実を傀儡として操るようになった。
相模国には、伊豆国へ撤退していた伊勢盛時が相模統一の野望のために再進出、西相模を支配下に置き始める。
また領内では養子・上杉顕実(足利成氏の子で足利政氏の弟)が家督を継ぐが、同じ養子である上杉憲房と内乱を起こして大きく力を削いでしまう。
上杉顕定の死によって隆盛を極めた山内上杉家、そして上杉氏そのものが急速に衰退していくこととなった。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける上杉顕定(2)の能力一覧。
関東管領の政治力と足利成氏や扇谷上杉氏との戦闘が評価されてシビアな能力ばかりの蒼天録の中で70台となっている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | |||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 72 | 知略 | 36 | 政治 | 71 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
掲示板
1 ななしのよっしん
2021/01/06(水) 12:36:18 ID: d+Fe+W/U0J
長尾景春・北条早雲・長尾為景と超面倒くさい奴らを相手に戦いながら混沌とした関東情勢を切り盛りし続けたのは凄いよなー
この時期の関東情勢の中心軸と言える人物
2 ななしのよっしん
2021/07/11(日) 16:36:05 ID: V7p9cLXaLT
享徳、長享の両乱を乗り越えて関東の西半分を支配したってのになんでこんなことに…
3 ななしのよっしん
2021/11/06(土) 22:06:24 ID: u+S1SG6b41
かなり有能だったと思われるが最期はあっけない
殺した為景も越後を安定させられないまま
浦上村宗とかもだがこの人前後ぐらいの時代は、結構な大物っぽい武将もふとした拍子にあっさり死んでしまう
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 20:00
最終更新:2024/12/23(月) 20:00
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