上杉房定(うえすぎふささだ 1431~1494)とは、室町時代~戦国時代の守護大名である。越後上杉家6代当主。
上杉憲顕 | ||||||||||||
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│ | │ | │ | │ | │ | <深谷上杉> | <越後上杉> | ||||||
上杉憲将 | 上杉憲賢 | 上杉能憲 | 上杉憲春 | 上杉憲方 | 上杉憲英 | 上杉憲栄 | ||||||
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上杉房方 | 上杉房方 | |||||||||||
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│ | │ | │ | │ | <上条上杉> | ||||||||
上杉朝方 | 上杉頼方 | 上杉憲実 | 上杉重方 | 上杉清方 | ||||||||
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上杉房朝 | 上杉定顕 | 上杉房定 | 上杉房実 | |||||||||
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上杉房定 | 上杉定実 | 上杉定明 | 上条定憲 | |||||||||
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上杉定昌 | 上杉顕定 | 上杉房能 | ||||||||||
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上杉定実 |
越後上杉氏は山内上杉氏始祖・上杉憲顕の七男・上杉憲栄を祖とする家柄。上杉氏の一族は少なくとも7種以上枝分かれており、各地の上杉氏に養子に入っていることもあり、分かり難いこともあり、色づけの家系図を用意した。
憲栄には子がおらず、甥・上杉房方(憲顕の五男・上杉憲方の次男)を養子に迎えた。
越後上杉氏は関東管領・山内上杉氏との関わりが非常に強い家であり上杉謙信に家督を譲った上杉憲政はこの家柄の出身である。
ただ、山内上杉氏も越後上杉氏も五男・憲方の子孫であり、両方を兼任するものもいた。
上条上杉家初代当主・上杉清方の次男という。関東管領で金沢文庫を再興した上杉憲実は伯父にあたる。
父・清方は越後上杉家2代当主・上杉房方の五男で家督を継げるような状態ではなく越後国の片隅に別家を興した。
だが、伯父・憲実が永享の乱の影響で心労を乱すと、父に山内上杉氏の家督を譲り、父は中継ぎの状態の上杉氏の頭領となり、関東管領も当初は幕府から認められなかったが、年月が経過すると認められるようになった。
しかし1444年に父が亡くなると当主不在となり憲実も復帰を拒否し、上条上杉氏も当主不在となり事実上越後上杉氏の管轄下に置かれる。
この時房定は京都にいたとされている。
結局宗家である山内上杉氏は1447年に憲実の嫡男・上杉憲忠が家宰・長尾景仲によって就任するが憲実により義絶され、のちに関東がいち早く戦乱の世に巻き込まれる一因となってしまった。
タダの人になった房定であったが、タダの人にならなくなった事情が発生した。
1449年、越後上杉氏の当主であった従兄・上杉房朝が29歳の若さで急死してしまった。
房定が家督を継いだ当時、越後国では越後守護代であった長尾邦景・長尾実景父子が越後国内で権勢を振るっており釘を差すために越後へと下向し直接支配を目論み長尾父子と対立した。
また、自分の力を誇示するために先代・房朝から続いていた享徳の乱で滅亡していた鎌倉公方を再興すべく足利持氏の遺児・足利永寿王丸(のちの足利成氏)への援助に尽力し、幕府より再興を認められる。(ただし1447年のことともされていてこの功績は房朝のもとになるが・・・)
また1450年には、成氏に次期関東管領を就けようとし、他の上杉一族の反対意見もあった中、同じく反対していた邦景に切腹を命じた。(長尾邦景は80代を超える老臣という。)
目の上のたんこぶであった長尾邦景を排除したが、長尾氏を完全に排除したわけではなく邦景の甥・長尾頼景を重用した。
また、邦景の子・長尾実景が信濃で挙兵していたが、1453年に根知坂の戦いで戦死し、房定への敵はいなくなった。
1454年、足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺する事件が発生し、享徳の乱が発生した。
この乱は30年に及ぶ大戦争となり関東にいち早く戦乱の世をもたらした。
幕命により足利成氏追討の兵を上杉房顕(憲忠の弟)らと共に挙げて成氏相手に連戦連勝を果たし、鎌倉から成氏を追放した。
追放されて鎌倉公方を廃された成氏は古河に新しく公方を設立し、古河公方として上杉氏と対立した。
房定ら上杉氏も成氏に対抗して武蔵国にある五十子に陣を張った。(五十子陣、五十子の陣、現在の埼玉県本庄市)
これにより越後に帰国する1471年までの16年間成氏ならびに成氏に味方する諸勢力と争い続けた。
1459年からは五十子を舞台とした闘争が幕を開け、戦乱に明け暮れた。
房顕には男子がおらず、長兄・憲忠は先述の通り暗殺され、弟3人がいたが予め父・上杉憲実の意向を受けて全員僧籍に入っていた。ただすぐ下の弟・周清は子供を作っていたが、そのお話は別の機会にて・・・。
さて、房顕から一番血が近いのは房定の一族であり、長尾景信(長尾景仲の子)の要望もあったが、山内上杉家中では憲忠の暗殺の件のことを忘れておらず、深刻な対立状態となっていた。
しかしまた山内上杉家を空位にするわけにもいかないので8代将軍・足利義政の幕命と岩松家純の説得により房定の次男・上杉憲定を山内上杉氏の家督を継がせた。
これにより関東にも影響を与えられることとなり、扇谷上杉氏もいるが事実上の上杉氏の頭領となり、支配していくこととなった。
このころになると越後に不穏な雰囲気が出だしており、越後の国人も元々は独立志向が高く1471年には嫡男・上杉定昌を上野国に残して自身は越後に帰国している。
1473年に長尾景信が亡くなるが、景信の弟・長尾忠景が家宰を継いだことで景信の子・長尾景春がこれに不満を抱いて1476年に長尾景春の乱を起こすとこれに成氏が乗じて上杉方の情勢は不利となった。
流石に自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければまずいと思った房定は和睦交渉の道を模索し、1482年に足利成氏と『都鄙合体』を成立させた。
先の項とこの項の詳細は『享徳の乱』をご覧下さい。
やっと関東の戦乱が収束したと思えば今度は次男・上杉顕定と扇谷上杉氏との対立が待っていた。
扇谷上杉家当主・上杉定正が1486年に太田道灌を暗殺すると、翌年に長享の乱が勃発した。
更に翌年には顕定を支援していた嫡男・定昌が定正によって白井城で自害に追い込まれた。
どちらも「うえすぎさだまさ」だからややこしい・・・。
その後は房定自身が顕定を支援し、定正からの攻勢に持ちこたえさせた。
越後国内では本庄房長(三河守、本庄繁長の曽祖父)が1489年と1493年に反乱を起こすが難なくこれを鎮圧した。
1494年に64歳で病没した。家督は三男・上杉房能が継いだ。
45年間越後に君臨し、関東に内乱を招いたものの自分で解決し、また越後国内の安定に導いて領国経営を万全なものとし、越後上杉氏の全盛期を築き上げた。
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最終更新:2025/01/11(土) 14:00
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