三毛別羆事件 単語

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サンケベツヒグマジケン

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未成年の閲覧注意 この記事にはあんなことやこんなことが書かれていますので、
クマーとってもかわいらしいAAで中和しております。
うっかり見るとトラウマになる可性があります。
あと、議論せずにAAを追加、削除しないようにお願いします。

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       羆

三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)とは、1915年(大正4年)12月北海道三毛別六線沢(現前町三渓)で発生した(ゆうがい)事件である。六線沢熊害事件、苫前羆事件ともいう。

冬眠失敗したヒグマが集落を襲い、死者7名、重傷者3名を出した。日本史上最悪の獣害事件として知られる。

概要

※記事内容が非常に長いものになるので、事件のあらましを記述します。日付をクリックすると、ページ内のその日、あった出来事の詳細へと飛びます。

日付
11月 クマが三毛別六線沢集落に出。退治しようとするも、弾をめただけで仕留め損ねる。
12月9日 クマ太田三郎宅に出現。太田にいた1人が殺される。
また、もう1人が殺された上クマに連れ去られる。
12月10日 クマから遺体を奪還するために遺体の捜索隊を組織。遺体を奪還することに成功する。
クマが通の最中の太田に出現。を放ったため、クマは驚き、逃亡する。
太田の隣の明太郎宅に逃亡したクマが出現。5人が殺され、3人が重症を負う。
12月11日 警察役場、野管理局に協力を仰ぐことを決定。
12月12日 北海道庁にの報告が入る。羽警察分署長、貢の揮により討伐隊が組織される。
被害者遺体を囮に用い、をおびき寄せる作戦を取る。しかし、失敗に終わる。
12月13日 クマが集落の農家10軒ほどに侵入。その、討伐隊がクマと遭遇するも仕留め損ねる。
12月14日 クマの被弾を確認し山狩り
宗谷サバサキぃ」こと山本兵吉の弾を受け、クマは絶命する。

事件は北海道天塩の開拓地、三毛別の地の六線沢で起きた。現在留萌振興局前町三渓となっている。日本海沿から30kmほど内陸に入ったところに在する。

被害者一覧

※( )内は事件当時の年齢

死者 重傷者

11月

11月初旬、三毛別の開拓者池田富蔵宅にて大きな物音が聞こえてきた。外に出ると、どうやらクマが出したらしい。が驚き暴れたため、クマ逃げた。その為被害は少しのトウモロコシに止まった。

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             ムシャ
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この当時、開拓地では野生動物の襲撃は日常茶飯事のことであった。ところが、この時ぬかるみに残った足跡は非常に大きいものであること、すでにになりかけている時期にクマが現れたことに池田はとても驚いたという。

20日を過ぎたころにもクマは出し、恐怖した池田は三毛別の2人のマタギ喜八、金子富蔵と協力してで待ちせをすることに決めた。マタギたちはそのクマを「持たず」、つまり冬眠失敗したヒグマだと推測した。ヒグマの中でも大きい個体は、冬眠のための自分の身の丈に合ったを見つけられず、冬眠に失敗することがあるという。

30日の午後8時ごろ、またもやクマは現れた。は制止したが、金子はこれを聞かずクマに発した。しかし、弾丸はクマめるばかりで結局クマを取り逃がしてしまう。闇へとクマのものであろう血が点々と続いていた。翌日、クマを追跡するものの地吹雪が強くなってきたため断念することになった。

これが、悪夢の前兆であることは、もが気づかなかったのだ。

12月9日

最初の被害は三毛別川上流、六線沢の太田三郎宅で起きた。太田の寄宿人、長要吉(通称・オド)が食を食べようと太田に戻ると、屋内が妙に静まり返っている。囲炉裏の側には太田に預けられている6歳の見幹雄が前屈みに座り込んでいる。オドは幹雄が狸寝入りをしているものだと思い、大をかけたが、それは間違いだった。オドがよく幹雄の顔を覗き込むと喉の一部が抉られて、顔の下部に固まった血が盛り上がっている。側頭部には大のが開き、幹雄は既に事切れていたのだ。

これに呆然となったオドは、に返ると太田三郎内縁の妻阿部マユ名前を大で叫んだ。しかし、答える者はいない。ばら撒かれた小豆馬鈴薯、血に塗られたまさかりなどがあるのみである。血は外の御料まで点々と続いた。

オドは下流の氷(すがばし:移動のため、期に氷で作られた。開拓時代の北海道ではよく見られた)の架現場に走る。騒ぎを聞きつけた男達が太田を調べると、どうやらこの被害クマによるものらしい。マユはどうやらクマに連れ去られたようだ。手形の付いた血マユ必死抵抗したことを如実に、そして生々しく物語っていた。

午前10時頃、三毛別の青年松永太郎太田の前を通り過ぎたが、何も異常はなかった。しかし、11時頃にまた太田の前を通ると血と、何かが引きずられた跡があった。松永はこれをマタギうさぎか何かを仕留めて引きずってきたものだろうと思い見過ごしたが、ともかくこの言よりクマに襲われたのは午前10時から11時の間と推測される。

男達は幹雄の遺体太田の寝間に安置し、太田の隣(といっても500mほど離れている)の明に身を寄せ、善後策を話し合った。もう既に日が傾き、クマを追跡するのは難しかったのだ。

この時点で被害者は2人。

も想像し得なかった悪夢が、ここから始まったのである。

12月10日

捜索隊・クマとの遭遇

が明けるのを待ち、役場や警察、幹雄の両への連絡のために使者を送ることになった。北海道は広い。一番近くにある古丹別の駐在所まで19km、役場までは30kmも離れているのだ。当然、連絡するための使者が必要になる。くじ引きで中川孫一が使者に決まったが、中川は気が進まない。中川は人のいい斉藤五郎に使者の役を代わってくれるよう頼み込んだ。結局石五郎が使者に決まった。石五郎の妻子は明に避難することになった。

五郎が出発すると、男達はクマ退治とマユ遺体の捜索・奪還のために30名ほどの捜索隊を組織した。既に太田報は集落中に伝わり、集落は大きな騒ぎとなっていた。

捜索隊はトドマツの生い茂る御料へと入っていった。太田より150m程進んだ時だった。やや小高い場所にあるトドマツの根元にい塊が見えた。それが、件のクマであった。巨大で、胸のあたりには懸けのようにい斑がある。

クマは捜索隊へと襲いかかる。あまりに近い場所でクマの襲撃にあったため、捜索隊の男達は仰し、焦燥した。喜八、金子富蔵ら5人のマタギ猟銃を放ったが、を発射できたのはその内、喜八のみだった。の手入れが行き届いていなかったのだ。

怒ったクマに対し、捜索隊は逃げ惑い散り散りになった。しかし、クマはどうしたことか向きを変えて逃げ出していってしまった。

逃げ出した者たちが戻り日も傾き始めた頃、捜索隊が改めて付近を調べてみると先刻クマが襲撃してきた辺りのトドマツの根元付近にトドマツ小枝が積み重なっている。血を染め、。死臭が辺りに立ち込めていた。小枝の間からはマユの片足、そして黒髪が僅かに覗いていた。マユは既にクマにより食いつくされていたのである。

マユ遺体はようやく太田へと戻ったのである。変わり果てた姿で。

太田家・通夜への襲撃

太田ではその日の内に速、幹雄とマユの通が執り行なわれることになった。しかし、集落の者は恐怖のあまり太田へ近づかない。参列者は力からやってきた幹雄の両など、9名だけであった。

では太田太田三郎は変わり果てた2人の姿を見て男泣きをしていた。幹雄の両も放心状態であった。

が終わり、8時頃。マタギ喜八が訪れ、悪態をつきながらも参列者たちを励ました。喜八は口は悪いが気が良く、集落のからもされていたという。

その30分後、8時半頃のこと。幹雄のチセが参列者にの酌に回っていた時だった。辺りをつんざく音が太田を揺らした。

を突き破り、い塊が太田へと押し入ってきたのだ。件のクマであった。クマは2人の入った棺桶をひっくり返した。部屋に幹雄とマユ遺体が散らばった。クマ人間の味を覚えたのである。その為、遺体を奪還しに来たのだ。

居合わせた斉藤信之助が絶叫した。クマの出現に驚愕した人々は皆悲鳴を上げ、ある者は天井の梁へと、ある者は便所へと散り散りに隠れた。を持ち込んでいた堀口清作がを放つと、さしもクマも驚き、の外へと逃げ出して行った。太田から300mほど離れた中川家食事をとっていた50人ほどの男達が騒ぎを聞きつけ太田へと駆けつけた。

因みに、この時幹雄の実である嘉七は妻であるチセ踏み台にして屋根の梁に一散に逃げたという
その後、嘉七は生涯に渡りチセに対して頭が上がらなかったと他ならぬチセさん本人が木村盛武氏の取材の時(当時82歳!)に言している…。

何がともあれ太田の9人は九死に一生を得た。

しかし、隣の明にはい脅威が刻一刻と迫っていたのだ。

明景家・残された者たちが遭遇した惨劇

太田で騒ぎがあったすぐ後のことである。隣の明では救援隊が集まることになっていた為、残された女子供たちが救援隊に振舞う夜食を作っていた。当太郎の妻、明ヤヨ。オドこと長要吉。警察へと向かった使者斉藤五郎の妻、斉藤タケ。また明斉藤子供たち合わせて10名が明にいた。当の明太郎は所用で不在であった。

にいた人々は既に太田での騒動を聞いていた。「クマは火を恐れる」という迷信に従い、どんどんをくべ火を燃やしていた。

一方太田に集まった人々は、なんとなく付近にクマがまだ潜んでいるような気がしていた。そんな時、午後8時50分頃のことだった。

からしい物音と絶叫が聞こえてきたのだ。

では巨大なヒグマが居間へと崩込んで来ていた。たちまち焚き火クマによって消され、居間はっ暗闇と化した。赤ん坊の四男明吉を背負った明ヤヨが前へとつんのめった。この隙をクマは見逃さなかった。クマ吉に噛みついた。さらにヤヨに乗りになり、ヤヨの頭、顔に思い切り噛み付いた。クマはさらに側にいた次男の明次郎にも噛み付こうとするが、ヤヨが邪魔になり、思うようにいかない。

その時、オドが外へ向かって逃げ出そうとしていた。これを見るや否やクマは標的をヤヨ子からオドに変えた。ヤヨは必死に勇次郎って逃げた。クマは凄まじい勢いでオドに襲い掛かった。逃げることわずと見たオドは咄嗟に物陰に隠れも、クマには通用しなかった。クマは物陰へと入り込み、オドののあたりに噛み付いた。から右股にかけてのを抉り取ったのである。オドの絶叫いた。

クマはここで方向を変え、泣き叫ぶ女子供たちのいる居間へと戻った。クマは三男明金蔵を殴殺すると、更に斉藤三男斉藤、四男斉藤義を襲った。瀕死の重傷を負い、義は即死した。物陰に隠れていた斉藤タケは息子たちの悲鳴を聞いて思わず顔を出してしまった。クマはこれをも見逃さなかった。鋭いを突き立て、タケを居間のん中へと引きずりだした。タケは、妊娠中であった。クマはあろうことか臨の身のタケの部を破ろうとしていた。

タケは

破らんでくれ」!!「のど喰って殺して」

現在三毛別集落に存在する説明の史実文より引用

絶叫し続けたものの、為す術もく胎児はより掻き出されてしまった。更にクマはタケの上半身を食い始めたのである。



三毛別羆事件復元現地の史実文

タケと一緒に隠れていた10歳の明力蔵はこのままでは危ないと、更ににある俵の陰へと逃げ込んだ。クマ人間を貪るというあまりに惨たらしい物音を必死に息を潜めて聞くまいとしていたが、それでもクマ不気味な息遣い、女子供の断末魔の呻きが噛み砕かれる音が勝手にに入ってきてしまう。言い知れぬ、名しがたい恐怖が明を支配していた。クマ斉藤タケを貪り終わると、今度は明金蔵、斉藤を食い始めた。

一方、太田にいた男達は明での悲鳴を聞きつけ明へと急行していた。50人ほどの男達はすぐさま明を包囲した。

ヤヨと明次郎、明吉、オドこと長要吉は命からがら逃げ出したが、まだ中には6人取り残されている。しかし男達は明よりく悲鳴、呻きを前にして為す術なかった。明っ暗闇だ。残された6人とクマの位置関係が掴めない。闊に中に突入するわけにもいかなかったのである。

男達の中からは「に火をかけてしまえ」「外から一斉射撃してしまえ」などの乱暴な意見も出たが、子供たちの生存を信じる明ヤヨが必死に反対した。だが、なおも明からはの噛み砕かれる音や断末魔の呻きが聞こえていた。着状態で男達は為す術もくただ息を飲むばかりだった。

やがて呻きは消え、クマの中を荒らしまわる物音のみ聞こえるようになった。「クマはひと通りを満たし満足した」と判断した男達は玄関と裏手の二手に分かれた。裏手に回ったマタギ喜八がへ向けてを2発放った。

これに驚いたクマは玄関より飛び出してきた。玄関で待ち構えていた男達はすぐさまを構えるも、またもや不発に終わってしまった。クマはこれを嘲笑うかのごとく、然とへと消えて行った。

男達は松明を手に明へと崩れ込んだ。室内は血ので、血天井にまでかかっており、なんとも言えない死臭が漂っていた。奇跡的に力蔵と、失神していた明家長女、明ヒサノは恐怖も出ない状況であったが傷で助かった。生きたまま食われた斉藤三男、斉藤はすぐに3km離れた蔵宅にて手当を受けた。泣きわめきながら、「おっかあ!クマとってけれ!」と既に死んだに助けをめていた。しかし、はどんどん細るばかりで20分後に死亡してしまった。斉藤タケから引き摺り出された胎児はまだ息があったが、しばらくして死亡

この日亡くなった者は胎児を入れ、5人。重傷者は3人。集落の人々はとてつもない恐怖、同時に強い憤りを覚えていた。「あのクマだ」「このは絶対に取る」、男達はこう決意する一方、集落から逃げ出す者も現れ始めていた。

深夜、捜索隊の男達を残し集落の人々を三毛別分教場と蔵宅に避難させることになった。人々は松明を燃やし、開拓民を1軒1軒大から呼び出し、列に加えて行った。恐怖のあまり泣く者やに足を取られて転ぶ者もあった。その光景は陰惨極まりなく、さながら「都落ち」のようだったという。

その頃、小畑旅館では使者の大役を果たした斉藤五郎が妻子の死亡も知らず、を飲んで眠りについていた。

12月11日

集落からの避難者が集まった三毛別分教場は期休校となった。各部落の長老、駐在所の巡査、御料局(御料を管理する役所)古丹別分担区員、分教場教頭などが話し合った結果、警察役場、野管理局の協力を仰ぐことになった。

その日の頃、使者の斉藤五郎が三毛別集落へと戻ってきた。妻子の受難を聞き、石五郎慟哭し、に倒れすしかなかった。

また明の当、明太郎も所用を終えて三毛別へと帰ってきた。妻子の不幸を聞き、怒りに燃えた。斉藤、明両名は怒りに任せクマを倒すために六線沢に乗り込もうとするも、周囲に制止された。

12月12日

討伐隊・戦いの始まり

12日、北海道庁に三毛別集落に現れたヒグマの報せが届いた。

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庁保安課から羽警察分署長、貢警部宛に「地方青年アイヌなどの協力を得て、クマを討伐すべし」との示が打電された。

正午ごろ、現場検証と検死の為に駐在所巡査と古丹別の沢房吉医師が三毛別へとやってきた。そこには点々とクマが排したが落ちていた。沢医師がよくを見ると、にはクマが消化できなかった人と人、また人毛が混じっていた。

その日の夕方には青年会、消防団、アイヌたち、また志願の農民、若者による討伐隊が組織された。その武装は日本刀村田マサカリ、、サッテ(の一種)、ガンタ(木の切り出しに使う、丸太を移動させる具)、など、各自様々な物を持ち込んでいた。鑑札さえ、の黙認の上供出された。

狩りの本部は六線沢の農家大川与三吉に設けられ、羽分署長貢が隊長となった。実際の揮は、土地勘のある副隊長野管理局、喜渡安信が受け持った。狩り本部の至上命題は「いかなる事態が起ころうとも、三毛別クマに渡らせてはならぬ」ということだった。六線沢から平野の三毛別周辺にが入ってしまえば、更なる被害は免れない。

討伐隊は要所要所の農家に射手を配置。更にクマに追っ手を差し向け、の這い出る隙間も作らせなかった。しかし、クマもさるもの。射手のいる付近には近づかず、のらりくらりとかわす。

黒い悪魔との戦いが、幕を開けた。

前代未聞・遺体を囮に

討伐隊が恐れたのはこのまま「籠り」、冬眠されてしまうことだった。このままあの暴なクマを野放しにしておくことは出来ない。が変わって吹雪にならないうちに、何としてもクマを仕留めなければならなかった。

そこで狩り本部ではなんとも奇抜な策が立案された。

内には餌がない。狙われるとすれば開拓小屋だ。クマ人間の味を覚えた。ここは被害者遺体を使ってクマを小屋へとおびき寄せよう」

遺体を囮にクマをおびき寄せようというのだ。これには狩り本部内でも意見が割れた。しかし、クマを倒すためは一刻の猶予もない。断腸の思い隊長被害者遺族へと了承の取り付けに向かった。村人や遺族からの罵や怒号を覚悟したが、一人反対せず、静かに提案を受け入れた。事態はそれ程までに切迫していたのである。

クマの襲撃によってボロボロになっていた明の居間に、筵が敷かれ、見幹雄、阿部マユ、明金蔵、斉藤タケ、斉藤義、斉藤タケの胎児の6人の遺体が並べられた。屋内の上部には櫓が組まれ、そこに座が設けられた。撃隊員には精鋭の山本兵吉喜八、南部禿マタギ、徳井健蔵、加藤士、千葉幸吉、仁右衛門の7名が集められ待機することになった。

やがて、クマが現れた。しかしクマはいきなり飛び込んでくるようなことはしなかった。何もせず、の周りをゆっくりと回り始めた。

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クマは射手の気配を察したのだろうか、そのまま暗闇へと消えて行った。

撃隊員は翌まで櫓で待機していたが、クマはとうとう現れなかった。

その頃、クマといえば…

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                 ぷちっ     /
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2度の惨劇が起こった太田に3たび侵入し、食料を食い尽くしていた。13日ののことであった。

12月13日

奇策は失敗に終わった。狩り本部は打つ手なしとして旭川日本軍第7師団に協力を要請した。一挙に山狩りをして討ち取る作戦だ。歩兵第28連隊より将兵30名ほどが旭川より出動した。

クマは打つ手なしの討伐隊を嘲笑うかのごとく、数軒の農家乱入し始めた。

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ニシン漬け、舎のニワトリ、雑穀、調味料等を食い尽くし、更にそれぞれのの中に尿をまき散らした。やがてクマは遂に三毛別の落ち合い付近にやってきた。ここを突破されれば、最為す術はない。

午後8時頃、落ち合いを監視していた討伐隊員が本部へと駆けてきた。対の切りの陰に人のようなものが見えたというのだ。隊長以下討伐隊はすぐ現場へ駆けつけた。たしかに対い塊が見えた。隊長は「人か!!か!!」と大で叫んだ。この辺りを警する隊員の可性もあるのだ。辺りはっ暗闇で見当がつかない。「人か!!か!!」の合言葉事前に決めてあった。これを3度叫んだ。

応答はなかった。

それを見て数10丁の村田が火を吹いた。い塊は一散にへと逃げていった。

再びクマを取り逃がしてしまった。またもや不発に終わったが多かったのだ。一部のマタギたちは自信をくした。

しかし、隊長たち数名はたしかに手応えを掴んでいた。

12月14日

宗谷のサバサキの兄ぃ・黒い悪魔の最期

14日になった。既に最初のクマの襲撃があってから6日が経っていた。

討伐隊隊員が氷を通り、昨クマがいた辺りに行くと上にクマの物と思われる足跡、そして血が残っていた。クマは被弾していたのだ。そういえば11月末にもそのクマは被弾していた。動きが鈍るはずと踏んだ狩り本部は取り急ぎ討伐隊を差し向けることになった。

クマ足跡を追う討伐隊。山へと続いている足跡や血はその間隔がどんどん狭まっている。千鳥足になっている。クマが弱っている拠だった。

その頃、討伐隊とは別に行動している者があった。山本兵吉山本鹿温根の住人で、若い頃に樺太サバサキ(小)一本でクマと対峙し、これを屠ったことから「宗谷サバサキぃ」との異名で呼ばれていた。常に軍帽を被り、日露戦争の際、ロシア兵から奪ったというで多くのヒグマを屠った天塩マタギだった。

山本代の為にを質に入れていたが、明太郎からの依頼を受けて質屋に頼み込みを引き出し、急いで三毛別へと駆けつけてきたという。

山本は討伐隊よりいちクマを発見した。クマはミズナラの木に寄りかかっていた。クマは人の気配を伺っているようだったが、山本には気づいていない。絶好の機会だ。

山本クマににじり寄り、クマから20メートルほど離れた楡の木に隠れた。狙いを定め、を発射した。が山にこだまとなってく。次のクマはふらつき、仰け反って倒れた。

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   |l     { 彡|.      ゝ  ;:i' `''''ー‐-'

クマはまた立ち上がり山本に襲い掛かったが、山本はもう1発を発射。これがクマの頭部を貫き、クマはようやく絶命した。12月14日午前10時頃のこと。

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   と,-‐ ´ ̄          / / (⊂ ●      |
  (´__   、       / /    ̄!,__,. ○   |

を聞き急いで駆けつけた討伐隊が見たものは、絶命し横たわるの姿だった。

羆風・悪夢の終焉

クマは大きさが約2.7メートル、体重が340kgほどの大きな個体であった。金毛が褐色の体毛に混じり、胸に懸け状に斑が通っていた。推定7、8歳。体にべて頭が異様に大きかった。この様な特異な特徴を持つクマはその場に居合わせたもが見たことがなかった。

討伐隊の人々は仇討ちとばかりにクマ遺骸に手を掛けた。棒切れでく者、物で掻っ捌く者、蹴りつけ、踏みつける者、口や肛門に棒切れを突っ込む者など様々だった。討伐隊の200名はその場で勝鬨をあげた。200名の歓山々いた。全てが、悪夢が漸く終わったのである。

討伐隊結成から3日間、動員は延べ600名ほど。アイヌの出動10数頭、導入されたは60数丁を数えた。ちなみに、動員された歩兵第28連隊は留萌に滞在していたが、クマ討伐の報告を受け、旭川に引き上げた。

クマ死骸葡萄蔓に絡められそりに乗せられた。山下まで運ばれ、そりに積み替えようとした時である。

にわかは鈍色に染まり、が降ってきた。非常に強いを伴ってだ。この3日間はが続いていたが、突然天気吹雪となったのである。この日の最大風速は4、50メートルにも達したといわれている。このを殊勲者山本兵吉は「」と呼んだ。

は翌15日も続き、クマ逆鱗に触れたためだと恐れられた。現在でも北海道留萌地方にはにまつわると見られる都市伝説がいくつか残っている。

そりに載せられたクマ吹雪の中、三毛別青年会館に運ばれた。

「このクマは数日前に女性を食い殺した手負いに違いない。拠に実弾と女性い肌着が出るはずだ」、アイヌ夫婦は言った。

「このクマ旭川で女を食い殺しただ。色の脚が出てくるぞ」、とあるマタギは言った。

「このクマ天塩で飯場の炊婦を淵で食い殺して逃げ延びただ。3人組のアイヌに追われて山を越えて六線沢に逃げてきたんだ」、山本兵吉は言った。

解剖してみると、阿部マユの脚に続いて、い肌着、色の脚、かなり古いものとみられる実弾が出てきた。これに野次たちは然とするばかりであったという。

クマは供養の為に皆で食されたが、筋が多く味はイマイチだった。皮はに貼り付けにされ、しばらく三毛別会館にて天日干しにされた。北海道各地から見学者が集まったという。

その後

・明ヤヨの背に負われたまま噛み付かれた赤ん坊の明吉は、その後遺症で2年8ヶ後に死亡した。吉も合わせて犠牲者数は8名とする資料もある。を抉り取られたオドこと長要吉は回復を見せ、仕事に復帰したが翌年1916年4月に転落、死亡した。

ヤヨは顔に傷が残ったものの、回復を見せ1963年昭和38年)に82歳で病した。に守られて一命を取り留めた明次郎太平洋戦争に従軍。1942年昭和17年)に戦死した。じっとしていた明ヒサノは事成人を迎え結婚し、幸せ庭を築いたようである。

三毛別長:大川与三吉の息子であった当時6歳の大川春義は、犠牲者の慰霊のため成人後ヒグマ撃ちとなった。37年かけて102頭のヒグマを仕留めたところで引退し、三渓神社に犠牲者の名を刻んだ慰霊碑を建立。また、後述の木村盛武が事件の取材に訪れた際に情報提供するなど、事件の風化止めに一役買っている。その後義は事件の70回忌の式典に出席し、講演会で「えー」と話し出そうとした間、その場に倒れこみ急逝したという。

悲惨な事件は六線沢の住人に大変な恐怖を与えた。また、クマに破壊されつくしを修復するのは大変労力のいることであった。外に知人のある者は、知人を頼りに集落を去った。開拓民には何の補償もない。

残された者たちは怯えながらも協力しあい何とか生活していた。しかし、限界があった。ぽつりぽつりと集落からは人が去っていった。下流のを除き、集落は人となった。

太平洋戦争後、大惨事を知らない開拓者が六線沢へと入植したものの、昭和45年にはまたもや人となってしまった。

クマを屠った山本兵吉はその後もマタギとして活躍し続けた。1950年に92歳でこの世を去るまでに延べ300頭のクマを仕留めたという。

事件の考察

この事件での問題は、まず農民たちが持ち寄ったの不発である。クマを仕留める機会は何度かあったものの、不発に終わったことが多かった。農民がを用いる機会などい。それに加えて「今までクマは出していたものの被害はなかった」との安心感が、の手入れを怠らせたと言われる。

また、11月下旬にクマが現れた際、クマを手負いのまま逃がしてしまったというのも初歩的なミスだったと言われる。

そして何よりも、クマの生態と習性の無知がここまで被害を拡大させたと言われる。

         /\
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     熊出没注意 \
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     \    ヽノ    / 
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        \   / ゙̄`∩  熊って恐ろしい動物らしいクマー
         \/ノ  ヽ, ヽ
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          | | (_●_)  ミノ  ヽ ヾつ
          | | ヽノ  ノ●   ● i
          | {ヽ,__   )´(_●_) `,ミ  そんなのが出てきたらどうするクマー
          | | ヽ    /  ヽノ  ,ノ

この事件で確認されたクマの行動パターン

火を恐れない
よく、「クマは火を恐れる」と言われる。この事件でも各庭や分教場などで多く焚き木が燃やされたが、襲撃があった太田、明では多くの焚き木が燃やされていたにも関わらずクマの襲撃があった。クマは火を恐れないのだ。寧ろ近づいてくる。襲撃があったっ先に火が消されたのは、好奇心を持っていたためと言われる。
異常な執着心
この事件では、執拗に女性が狙われている。阿部マユ、明ヤヨ、斉藤タケ、3人の女性が襲われ、うち2人が殺された。ここでクマ解剖されたときの人々の話を思い出してみよう。そう、各地でこのクマによって女性が襲われているのだ。クマは味を覚えると暫くその味のものを追いめるという習性がある。その為、この事件では女性が執拗に狙われたと言われる。1度人間の味を覚えたクマは果てしなく危険なのだ。人間の味を覚えたクマにはでこちらの居場所を示すのも意味だ。かえって、餌の場所を教えることになり危険である。
背を向けて逃げるものを追う
ヤヨら子は逃げるオドにクマが気を取られた事によって九死に一生を得た。クマ捕食中であっても動くものを追う習性があるのだ。ただ、死んだふり意味である。じっとしていた明ヒサノや斉藤タケの胎児は傷だったが、これは他に食物があったからだと言われる。クマに遭遇した場合、背を向けず、クマの様子を伺いながらジリジリと遠ざかるのが良い。


射止近くの看板


クマイラスト看板

現場の現在

現在の六線沢は前述通り人となっている。三毛別の住人はこの事件を風化させないように六線沢に事件現場を復元した。「三毛別羆事件復元現地」がそれである。当時の屋が再現され、開拓生活を垣間見ることが出来る。その横には、今まさに屋の中の人を襲おうとしている巨大なヒグマの像が設置されており、事件を起こしたヒグマがいかに規格外の大きさであったかをい知ることができる。

また、この地を通る北海道1049号線は三毛別羆事件にちなみ「ベアロード」と名付けられ、可らしいクマイラスト看板が各所に飾られている。ちょっとした観光となっているようだ。ほのぼのとしすぎじゃね?

また、この地にあるは最初のクマの被弾地点に近いということで「射止(うちどめばし)」と名付けられた。

射止のさらに下流側には三渓神社があり、大川春義が建立した慰霊碑を見ることができる。

最後になるが、現場付近は今も手つかずの自然が多く残されており、ヒグマもたびたび撃されている。現地を訪問する際は、携帯する・ニオイのある食べ物を持ち込まない等、ヒグマとの遭遇を避けるよう十分に留意いただきたい。

この事件に関する書物・作品

北海道の営署に勤務していた木村盛武は、事件のあらましを聞き、「事件を風化させてはならない」と事件の記録を取ることにした。当時はこの事件の前後に起こった2つの事件の方が有名になっていて、この三毛別羆事件の記録は誤記も多く、ほとんどまともな内容が残っていなかった。
そこで木村生存者や遺族たちや討伐隊に参加した人々の言を熱心に聞いてまわり、この事件の全貌を把握。それをまとめたのが「慟哭」という書物である。

前町郷土資料館ではのぼりべつクマ牧場発行の冊子「ヒグマ No.10別冊」を複製した事件記録がまとめられ、1部600円で販売されている。

創作作品においては、作家吉村昭がこの事件を元に「」という小説を著した。「」は、映画化、ラジオTVドラマ化もされた。また、戸川幸夫の原作矢口高雄漫画が出版されている。

上記通り、三毛別羆事件はその衝撃的な事件の経緯から、現在創作ネタになることが多い。

関連動画

↑「三毛別羆事件復元現地」を訪れた車載動画

吉村原作小説」のラジオドラマ版。脚本・倉本演・高倉健

↑「パワプロクンポケット7」のプレイ動画大正冒険奇譚編のミッション殺人恐怖」は三毛別羆事件を元ネタにしているとされる。

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