言語をひもとくと、その背後にある思考のクセや文化の息づかいが透けて見えることがあります。 文字や単語の選び方ひとつにしても、単なる文法の規則ではなく、長い歴史の積み重ねや、人々の考え方、ものの見方が絡み合っているのだな、と気づかされます。 ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えば オランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。 それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を習得していて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も小さく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、次の英文です。 ① "That not only justifies their efforts but also demands their dedication." 諭吉なら、「エゲレス語の "not only A, but also B"は 蘭語の "niet alleen A, maar ook B"に當るなり」という感じで すんなり呑み込めたでしょう。 ② "Dat rechtvaardigt niet alleen hun inspanningen, maar eist ook hun toewijding." ところが、明治になると オランダ語は途端に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。 ③「それは彼らの努力を正当化するだけでなく、彼らの献身をも要求する。」 そこで質問ですが、「not only A but also B」という構文の「but」が「and」ではなく用いられるのは、英語の文法的な必然性や、この構文が持つ修辞的な効果、あるいは歴史的な経緯など、どのような理由によるのでしょうか。 また、「their」という同じ単語が繰り返されることは、英語において「同じ単語の繰り返しを避ける」という一般的な傾向とどのように解釈すべきでしょうか? ๑๐/๑๓