文学の価値がわかりません。森鴎外を読んだのですがその辺の大衆小説と違いが無いと感じます。(質はいくらか良いと思いますが) 純文学はメッセージや表現など芸術性に重きを置いていると言われますがイマイチぴんと来ません。 もっと正確にいうと、言葉による芸術性の追求における文学の優位性は無いとしか思えません。 以下私の少ない読書体験について書きますので、よろしければそれを参照して私に文学の価値がどういうものか教えてください。 鴎外のヰタセクスアリスは普通に面白く読むことができましたが全く深遠さを感じませんでした。 心情の機微とか、自分の知らない時代の描写とか、そんな世界観が面白いと言うだけで、マンガと一緒でした。 夏目漱石のこころも同様です。 吾輩はネコであるは途中で嫌になってやめました。 (中学時代の塾の先生はあの作品になにやら現代思想じみたカタカナ語で高尚らしい形容を与えていましたが、ハッタリがすぎると思います。) 川端康成の眠れる美女も読みました。面白かったですがやはり価値は無いと感じます。 雰囲気は好きです。 場面に対する心情の描き方がリアルで、自分の深層心理を掘り起こされたような感覚になりました。 ただ芸術性と言われるほど大したものだとは思いません。 そんな表現はごく日常的なもので、わざわざあのような長い活字に目を通す必要が無いかと思います。 ドストエフスキーの罪と罰も読んでみましたが、表現も堅いだけ(訳が悪かったのでしょうか?)で描写が無駄に細かくまたしても呆れて途中でやめました。 殺しと言う極端なテーマも浅く感じます。 ドストエフスキーが面白くないということに関して、文学はこちらの側から理解しに行くものだという反論を見ましたが、その質の良し悪しの分からないものに初めから服従する動機がわかりません。漠然とした憧れ? ハリークルーズのゴスペルシンガーも読みました。 世界観は好きです。しかしそれだけなら極めて過激な部類のロックバンドの歌詞にはもっとすごいのがあります。またしても訳が悪いのか… 南部の嫌な感じを描くのは良いですが、すぐ出オチ感にうんざりしてきて、最後の軽すぎる"どんでん返し"などは本当に蛇足だと感じます。 やたら物語らしく書こうとする所も文学の疑問点です。 ウィリアム・バロウズの裸のランチは明らかに間違った買い物だったと思います。ただ最初の方のページにギャグとして最高のものがいくつかありました。 それが枯れ始めてからはドストエフスキーのように嫌になり、結局読んでいません。 ジャン・ジュネの葬儀は冒頭しか読めませんでした。 川端康成の表現をさらに詳細に作りこんだような凄い箇所がいくつかあり、その部分は芸術性は高いと思いました。 しかし、それは数十ページの中に私がたまたま理解出来る部分があったのみで、「葬儀」は作者の頭の中だけで成立していればよく、読者に伝えることを想定して書かれたものではないと考え、アホくさくなり読むのをやめました。 ジョナサン・スウィフトの穏健なる提案はジョークとしては面白かったです。