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ヒンドゥー教はアートマン説を採用する宗教ですが、仏教はアートマン説を採用しない宗教です。 仏教とヒンドゥー教は同じと主張する人、及びにテーラワーダの教えを否定しヒンドゥー教の教えの信奉者を称賛するタイプの大乗仏教徒はどのような考え方でそうなると思いますか?

宗教 | 哲学、倫理114閲覧

回答(5件)

自分は永遠不滅の存在だと思いたいから。

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無我は合理的で理解できるし信じられるけど、個人的には大乗の如来蔵思想(仏性論)は信じられないんですよ。 無我で輪廻で良いやん、問題なしと思うんですけどね。 「輪廻を繰り返すのは救いやん、ラッキー」と思った人が中国でも多かったとか。たぶん、日本人でも統計上は輪廻派が天国派・浄土往生派より多いこともその表れなのかと。 輪廻思想に救いを見出すのは欧米でも同じだとか。これを神秘主義・スピリチュアリズムの悪影響としてキリスト教メディアが警鐘を鳴らしていると記事で読みました。瞑想ブーム・ヨーガブームも批判的に伝えていましたね。

仏を内に見るか、外に見るか、の違いが進むとそうなっていくと思います。

>臨済宗の僧侶、玄侑宗久氏が 賢い人だと思っていたのですが、頭の良いことと信仰の方向性とは 全く別物なんですよね。 大乗がヒンドゥー教を混入させたのにはいくつかの理由があります。 仏教の衰退と教理の難しさからくる大衆離れ。 神信仰の簡単さ。 それによるヒンドゥーの神を守護役として仏教に混入。 「宇宙と我は一体」という包容的思想。 そして仏教が大陸を渡る間の各国の民族文化との混淆、等。 まあ、それらは仕方のないことと思います。 ただ、同じ大乗でも日本の大乗仏教の今日はお寒いばかりです。 前に、ベトナム僧(ハン師ではない)が、死に際の女性につきっきりで 励ましながら死の瞬間まで一緒に念仏を唱えているのをみた時、 (ああ、ベトナムにはちゃんとした大乗仏教があるなあ)と思ったものでした。

分かりやすい方が哲学的存在論にのめり込まないですみます。 悟りにしても無我であるけれど悟るという事に頭を悩ます必要が無いです。 断見でも常見でもない存在論は納得がゆかなければ迷いですし信じているふりは出られない泥沼です。 執着が問題なら非我で十分です。

>仏教はアートマン説を採用しない宗教です。 そうとも言えないです。釈迦自身はアートマンの存在について「肯定も否定もしない」という沈黙の姿勢をとっていたようで、これは「無記」と呼ばれていて、形而上学的な議論よりも、苦しみの終滅に集中するという実践的な姿勢だったようです。 ですので、 ・「仏教とヒンドゥー教は同じと主張する人」とは、同じインド発祥だからでしょうね。 ・「テーラワーダの教えを否定しヒンドゥー教の教えの信奉者を称賛するタイプの大乗仏教徒」は、テーラワーダ仏教の厳格な無我思想や戒律中心の教えに拒絶反応があり、ヒンドゥー教的なアートマンや梵我一如の思想に親しみを感じているのでしょうね。

臨済宗の僧侶、玄侑宗久氏が「仏教は梵我一如の教え」と言い切っていたんですよ。 同氏は相当なインテリだと思われるし、作家なので言葉のチョイスには慎重だと思われるので、”確信犯”的に「梵我一如」だと断言していると思うんですよね。 どうしてそういう発想になるのか興味があります。気になるのは同氏が相当な宗教団体遍歴があるということです。”ワンワールド”的な発想になっている可能性があると思います。その考え方だと宗教の垣根はないも同じになりそうですし、それが「理想」と思うことにもなりそうです。

歴史的に大乗仏教がヒンドゥー化した仏教であることは否定できません 菜食主義や苦行の要素もインドの伝統的なヒンドゥー社会のものです 釈迦のみを仏として菜食主義や苦行もない上座部仏教が本当の仏教ですが 架空のいろんな仏様を拝んで菜食主義や苦行がある 大乗仏教はヒンドゥー教と同じなのです