最近つくづく思うんですけど、「人の命」って、値段のつけようがないようで、実際にはどこかで“見えない価格”が設定されている気がするんですよね。 たとえば、事故の補償金、医療費、安全基準、そして企業のコスト削減――そのすべてが、ある種の“命の相場観”を前提に動いている。誰もそんなつもりはないのに、知らないうちに「このくらいなら仕方ない」と、見えない値札を貼っている。 しかも、それがすごく曖昧で、人によっても、国によっても、状況によっても、ころころ変わる。 あるときは命が何より重く扱われ、あるときは数字の片隅に追いやられる。まるで、心の中に隠れた為替相場みたいなものがあって、その日の気分やニュースの温度でレートが上下しているような感じです。 でも、考えてみれば、それもまた“人間らしさ”の表れなのかもしれません。完全に合理的に割り切ることもできず、感情に全部を委ねることもできず、その間で揺れ続ける。 命というテーマに値段をつけようとするたびに、結局「見えない価格」の正体は、自分の中の価値観や、他人への想像力の深さそのものなんじゃないか――そんな気がしてきます。 ところで、思考実験が大好きです。 飛行機の高度が下がって来ました、エンジンの故障! パラシュートで飛び降ります。 日本製が70万、中国製が3万です。 さあ、どっちのパラシュートにしますか? 車の部品の値段はムチャクチャ叩かれます。 例えば、エアバッグ! 「競争相手が1700円なのに、お前のところは2200円かよ! 高過ぎるだろ! 企業努力が足りんのじゃないか?」という具合に(笑) これ、いいのかよ?と思いませんか? でも、これが現実なんですよ。 「核弾頭1発で、x人やれるから、1人あたりy円か、高いな!」 と計算してる人とあまり変わらないんです。 むちゃくちゃですよ。 そこで質問ですが――こういう話になると、つい「現実は現実だから」と割り切ってしまいがちですが、ほんとうにそれでいいのかな、と思うんです。 たとえば、空から落ちるパラシュートを選ぶ瞬間や、車の安全装置をめぐる値引き交渉の裏側には、どこか“人の命”という曖昧な温度が潜んでいますよね。 「安いほうが合理的」なのか、「高くても信じられる方を選ぶべき」なのか――この線引きって、いったいどこに引かれているんでしょう。 お金の話をしているはずなのに、気づけば人間そのものの価値観の話になっている気がします。 あなたなら、どこでその“見えない価格”を決めますか? ๑๐/๑๐