なんと、黒川弘務東京高検検事長が辞意を表明した。
2020年に入ってからというもの、毎日のようにびっくりすることばかりが続いていて、何かに驚く感受性自体が、たとえば去年の今頃に比べて、50%ほど鈍化した気がしているのだが、それでも今回のこのニュースには仰天した。
黒川氏は、5月21日発売の「週刊文春」誌がスクープしている新聞記者との賭け麻雀の事実関係を認めて、辞意を漏らしたもののようだ。
してみると、3日前(18日)に政府が検察庁法の改正案の今国会での可決成立を断念した理由も、安倍総理が説明していた「国民の皆様のご理解なくして前に進めて行くことはできない」という筋立ての話ではなかったことになる。
「ネット世論が政治を動かした」
というわたくしども野良ネット民の受け止め方も、こうなってみると、ぬか喜びというのか、勘違いだった可能性が高い。
政府が法改正を断念した理由は、あらためて考えるに、黒川氏失脚の可能性が18日の段階で政権中枢に伝わっていた(週刊文春の記者が黒川氏に直接取材を持ちかけたのが17日だったと伝えられている)からなのだろう。そう考えた方がのみこみやすい。つまり、政府には、法改正を強行せねばならない理由がなくなったわけだ。というのも、総理周辺が検察庁法の改正を急いだのは、閣議決定で半ば脱法的に留任していた状態の黒川氏の定年延長を事後的に正当化(あるいは「合法化」)することと、もうひとつは黒川氏を検事総長に就任させるための道筋を作ることが彼らの急務だったからだ。
法改正の理由(あるいは「ターゲット」)であった黒川氏その人が、職にとどまることのかなわぬ人間になってしまった以上、法案は、根底から無効化することになる。目的の人間を目的のポストに導くことができない法律は、すなわち法案を起草した人間たちにとって、ものの役に立たない空文だからだ。
なんと。
これは、おそらく関係者の誰もがまるで予測していなかった結末だ。
少なくとも私は、ひとっかけらも想像すらしていなかった。
後知恵で個人的な空想を開陳すればだが、もしかしたら、当の黒川氏だけは、自分の近未来を半ば予知していたのかもしれない。
つまり、今回のストーリーが進行している中で
「オレがこの一蓮托生のがんじがらめのレールから脱線するためには、それこそ懲戒免職相当の何かをやらかすほかに方法がないのかもしれないな」
と、どこかの時点で、黒川氏は、自分の行く末を自らの意思において選択する唯一の方法として、危険牌を切りに行ったのかもしれないということだ。
……というこのお話は、もちろん私が面白がって考えているアナザーストーリーにすぎない。この筋立てで考えると、黒川氏の役柄に人間的な苦悩が付け加えられる分だけドラマとしての深みが増す気がする……ということで、こんな与太話に信憑性があると考えているわけではない。
真相は、依然として、まるでわからない。
独自取材の事実をつかんでいるわけでもない私が、これ以上、報道済みの記事をネタに空想を書き並べたところでさしたる意味はない。
なので、この件についてはこれ以上書かない。事実関係が明らかになって、事件の背景がよりはっきりしてから、あらためて触れる機会があるかもしれないが、どっちにしても、それまではおあずけだ。
ここから先は、話題を変えて、私が個人的に注目している案件について、個人的に考えている内容を書き起こすことにする。
これも黒川氏の案件と同じく「文春砲」が明らかにしたスキャンダルだ。
前にもちょっと書いた気がしているのだが、私は、この「文春砲」という言い方に、ずっと反発を感じている。いち雑誌の編集部が自ら名乗る名称として、いくらなんでも生意気だと思うからだ。僭称というのか、夜郎自大に見える。
しかし、この何年かのなりゆきを見て、私は、彼らが「文春砲」を名乗ることは、もはや誰にも阻止できないことを悟るに至った。
私の負けだ。あなたたちは、「文春砲」なる調子ぶっこいた名前を名乗るに足る仕事をしている。
実際、週刊文春の編集部は、この国の政治経済社会芸術ノンセクションのあらゆる分野において、めざましい実績を積み重ね続けている。日本の事件報道のおよそ半分は週刊文春一誌が動かしていると言っても過言ではないかもしれない。おかげで、20世紀の報道をリードしていた新聞各紙ならびにテレビ各局は、文春砲のおこぼれで拾い食いをしているていたらくだ。
文春に関しては、そんなわけで、あっぱれと申し上げるほかにないのだが、その一方で、文春以外のメディアが、どうしてこれほどまでに弱体化してしまったのかについて、思いを馳せずにおれない。
そして、その答えのひとつが、これまた文春砲の記事の行間に書いてあったりする。なんという運命のめぐりあわせだろうか。既存メディアはもはや文春砲の標的であるのみならず、火薬供給源にその身を落としているのだ。
新聞が御用告知機関に成り下がり、テレビが馬鹿慰安箱に転落したのは、これはもはや時代の必然というのか自業自得以外のナニモノでもないわけなのだが、私が個人的に残念に思っているのは、自分自身がその周縁で糊口をしのいでいる出版の世界が、全体としてゆっくりと死滅しつつあることだ。
今回の文春砲は、そのわれらが出版業界の醜態を撃ち抜いている。私は自分の心臓を撃ち抜かれたような苦い痛みをおぼえながら、当該の記事を読んだ。
記事は、文春オンラインに掲載されている。ネット上から閲覧することができる。ぜひ一読してみた上で、当稿に戻ってきてほしい。
詳細はリンク先の記事の本文に譲るが、要するに大手出版社の社員編集者が、女性フリーライターにセクハラを仕掛けたあげくに、ボツにした原稿料を踏み倒したというお話だ。
ここまでのところで
「なるほど、よくある話だ」
と思ったあなたは、業界の現状をよく知っている事情通なのだろう。
しかしながら、この話を「よくある話」として聞き流してしまえる人間は、世間の常識から考えれば、非常識な人物でもある。
別の言い方をすれば、わたくしどもが暮らしているこの出版業界という場所は、世間のあたりまえな常識とは別の、狂ったスタンダードがまかり通っている、狂った世界だということだ。
私が、世間的にはずっと大きいニュースである黒川検事長の辞任問題よりも、この小さな出版界で起こったちっぽけで異様でケチくさくてみっともない下品な箕輪厚介氏の話題を今回のテーマに選んだのは、箕輪セクハラ案件の扱いが「あまりにも小さい」と思ったからだ。もう少し丁寧な言い方で説明すれば、文春砲以外のメディアがこの事件を扱う態度が、あまりにもお座なりだったからこそ、私は、自分が微力ながら力を尽くして原稿を書かなければいけないと決意した次第なのである。
当初、私の頭の中にあったのは、「ナインティナイン」の岡村隆史氏が、つい先日、女性蔑視発言で四方八方から盛大に叩かれていた事件との比較だ。
岡村氏の事件についてあらためて説明する行数はないので、各自ごめんどうでも検索してください。
とにかく、私が思ったのは、岡村氏の発言が、どれほど不適切かつ無神経かつ不穏当かつ不潔であったのだとしても、あれは、直接のフィジカルな被害者のいない、言葉の問題にすぎなかったということだ。
一方、箕輪氏の今回のセクハラ案件は、言葉の上の問題ではない。概念上の不具合でもない。生身の肉体を持った実在の女性に向けて発動された具体的な行動としてのセクハラ行為だ。犯罪として直接に立件可能な性被害としてはギリギリ未遂に終わっているものの、企図は明確だ。繰り返し明示的に被害者たる女性ライターを脅かした事件でもある。証拠も揃っているとみられる。
とすれば、どちらが悪質であるのかは明白ではないか。
しかしながら、世間の扱いは逆だ。
岡村氏の事件は、発言の直後から複数の新聞紙上で記事化され、様々な回路を通じて盛大に報道された。しかも、生放送のラジオ番組を通じて、本人が公式に謝罪したにもかかわらず、いまだにSNS上での組織的なバッシングが続いている。番組の降板運動も沈静化していない。
一方、箕輪氏のケースは、徐々に黙殺されようとしている。
なにより、箕輪氏は、文春オンラインがこの件の記事を配信(5月16日)した3日後(同19日)のテレビ番組(「スッキリ」NTV系)に、リモート出演の形ではあるものの火曜日のレギュラーコメンテーターとして生出演している。
刑事司法の世界において「疑わしきは罰せず」という原則が重視されているのは承知している。しかし、テレビの出演者に関しては、これまで、慣例として、司法の判決を待つことなく、なんであれスキャンダルが報じられれば、その時点で出演を見合わせるのが不文律になっているはずだ。
とすれば、あれほど衝撃的な内容の記事が出て、判断に費やすことのできる日数が3日もあったのに、それでもテレビ局側が出演を容認したことは、普通に考えて、テレビ局側が、当該の事件を
「不問に付した」
と考えて差し支えなかろう。つまり、「スッキリ」は、
「箕輪さんは言いがかりをつけられているだけで、無実です」
ということを、全国の視聴者に向けて告知したに等しいわけだ。
本人が生放送のテレビ番組に顔出しで生出演したことも、
「自分は濡れ衣を着せられていますが、視聴者の皆様に対して後ろめたく思うところはまったくございません」
と宣言したのと同じ意味を持っている。
この点も見逃せない。
つまり、あわせて考えると、日本テレビならびに幻冬舎および箕輪氏は、このたびの週刊文春の報道について、
「この件はおしまいです」
「箕輪は大丈夫です」
という態度で臨んだわけで、今後、メジャーなマスコミのスタンダードは、この態度を踏まえた上で動きはじめるということだ。
こんなバカなことが許されて良いのだろうか。
「スッキリ」が放送された当日、私は
《タイムラインに流れている情報では、箕輪厚介氏が今朝の「スッキリ」にリモート出演していたらしいのだが、マジか? そういう基準なのか? おまえらどこまで身内大事なんだ? 自分たちがそんなふうでどうして安倍さんを批判できるんだ?》2020年5月19日午前9:57
《幻冬舎箕輪厚介氏のセクハラ&原稿料踏み倒し案件を、どうやらテレビは追いかけていない。もしかして編集者と記者とディレクターとレポーターは、「相互非取材協定」でも締結しちゃってるわけなのか? 「お互い殺傷力のある武器を持った者同士、穏便にやりましょうや」ってか?》2020年5月19日午前9:33
というツイートを投稿しているのだが、おそらく、この事件は、裁判所に持ち込まれて明らかな結果が出ない限り、うやむやにされて終わるはずだ。それほど、社員編集者を守る業界の力は大きい。
念のために付言しておけば、岡村氏が盛大に叩かれている一方で、箕輪氏がなんとなく免罪される理由の最も大きな部分は、両者の知名度の違いにある。
誰もが知る有名人である岡村氏を叩くことは、視聴率やページビューを稼ぐ材料になる。不快に思っている人間がたくさんいる一方で、擁護したいと考えているファンも少なくない。とすれば、岡村氏の話題を扱うことは、どっちにしても人々の注目を集める。記事としては巨大なページビューが期待できる。
一方、箕輪氏は、しょせんローカル有名人にすぎない。
「箕輪って誰だ?」
と思う人間が、50%を超える状況下で、そんなマイナー著名人のスキャンダルを扱ったところで、部数もページビューも視聴率も期待できない。
大筋は、まあ、そういうことだ。
ただ、私は、メディア業界の人間たちが、同じメディア企業の社員にあたる人間のスキャンダルに対して及び腰になる構造は、明らかに存在しているというふうに考えている。それほど、社員編集者の地位は高く、メディア企業従事者同士の互助会の力は強烈なものなのだ。彼らは互いを責めない。当然だ。なぜなら、明日は我が身だからだ。
以下、その社員編集者たちへの思いを、一介のライターの立場から発信した5月17日の一連のツイートをご紹介する。
《表舞台に出たがる編集者と六方を踏む黒子はろくなもんじゃないってじっちゃんが言ってた。》2020年5月17日午前9:15
《大手出版社の社員編集者の中には著者をアシストするのではなく、ライターを「見つけ出し」て「育て」ている気分の人間が含まれている。でもって、自分が「人事権」と「企画権」を持ったプロデューサーであり、鵜飼の鵜匠でありオーケストラのコンダクターでありレストランのシェフだと思っている》2020年5月17日午前9:24
《ってことはつまりアレか? 書き手は皿の上のジャガイモで、あんたらが腕をふるって味をつけて熱を通さないと食えない代物だってことか?》2020年5月17日午前9:26
《実際のところ、うちの国はフリーランスで何かを作っている末端の個人より、その作品のマネタイズを担当する会社の社員のほうが優遇される(あるいは「より高い社会的地位を保証される」)社会なので、大手出版社の編集者というのは「准文化人」くらいな枠組みに編入されるのだね。》2020年5月17日午前9:32
《「メディアはメッセージだ」と、マクルーハンだかがフカした(←オレは読んでない)お話が、「水道管は水より偉いんだぞ」てな話に変換されて、勘違いした編集者だのディレクターだのプロデューサーだのが肩で風を切って歩くようになったのが1970~90年代のメディア業界の空気だったわけで……》2020年5月17日午前9:51
《で、21世紀にはいると業界がまるごと沈没しはじめたんでメディアもメッセージもひとっからげにおわらいぐさになっています。現場からは以上です。》2020年5月17午前9:52
長い引用になってしまった。
本来なら、ツイートの内容をあらためて記事のためのひとつながりの文章として書き起こすのがライターとして誠実な仕事ぶりなのだろうが、もはや私は、その作業をこなすだけの根気を持っていない。というのも、このテーマについて書くことは、私を限りなく疲弊させるからだ。
だからこそ、勇気をもって週刊文春の編集部に告発の記事を持ち込んだA子さんには最大限の敬意と称賛を表明したい。この告発が、彼女をどれほど疲弊させているのかは、想像するに余りあることだ。私は彼女を尊敬する。彼女の行動は、単に彼女が自分自身を守るために役立つだけではない。出版業界の狂った常識を世に知らしめるために、彼女が今回明らかにした経緯は、大きな意味を持っている。
同じようななりゆきで原稿料を踏み倒されたライターの話は、常に業界に流れている。私もいくつか聞いたことがある。セクハラも、日常茶飯事と言って良い。まさか、などと驚いてはいけない。出版業界は、古い体質を強く残した封建的で大時代な、愚かな業界だ。その古さは、出版という仕事を昔からあるカタチのまま現代に引き継ぐために不可欠な部分もあるのだが、それはそれとして、いつも大きな弊害をもたらしている。
彼女の告発を「チクり」「密告」「タレコミ」「言いつけ口」「売名行為」と評する輩が、今後、大量に現れるはずだが、どうか気にしないでほしい。
彼らは、出版業界における社員編集者の横暴と思い上がり(具体的には踏み倒しとセクハラと文化人ヅラ)を裏から支えてきた権力の尖兵にすぎない。
ライターは本当にひどい目に遭っている。
特に、21世紀に入ってから、業界関係者のすべてが貧窮化する中で、末端に位置するライターの地位と収入と自由度と再就職可能性は、極限まで縮小しつつある。
私自身の話をすれば、私は、1980年代にデビューした幸運なライターだった。私以外にも業界が膨張過程にあった状況下で参入した当時の書き手には、下積みの苦労を経験しないままデビューした幸運な書き手が少なくない。
というのも、雑誌が次々と創刊され、書籍の売り上げが年々増大しつつあった上昇局面の中の書き手は、さしたる実績がなくても仕事を見つけることができたからだ。
であるから、最初の雑誌に連載を持った時点では、私は、ほとんどまったく実績を持っていないブラブラ者の失業者にすぎなかった。たまたま雑誌を創刊した編集長とその周辺のメンバーが、同じゲームセンターに通う遊び仲間だったからという縁で、いきなり連載枠を与えられたカタチだ。
はじめての単著も、交通事故みたいな調子で書いたものだ。
さる銀行の電算室でパソコン(当時は「マイコン」と呼ばれていましたね)の入門書をいくつか書いていた人物に、とあるライブハウスの楽屋で、アマチュアロックバンドの対バンのメンバーとして紹介された時、
「キミ、大学出てぶらぶらしてるんならコンピュータの本書かない?」
「え? オレ、そんなもの知りませんよ」
「知らないから入門書が書けるんじゃないか(笑)」
と、おおよそ、そういういいかげんななりゆきで、この道に入ったわけだ。
何を言いたいのかというと、私のような50歳を超えたライターは、21世紀の若いライターさんたちが味わっている苦境を本当には知らないということで、だから、不況下の出版業界で苦しんでいる若いライターは、先輩を敬う必要なんかないぞということだ。
ライターにとって何が一番むずかしいかというと、実績を持たない素人の立場から脱して、最初に活字の原稿を書くためのきっかけをつかむことだ。
つまり、書くことそのものよりも、デビューのための入り口を見つけることの方が死活的に重要だということだ。このことはまた、多くのライター志望者にとって、デビューすることが最大の障壁になっていることを意味してもいる。
そこのところさえなんとかクリアすれば、あとは、実績を少しずつ積み上げながら、自分の世界を少しずつでも、広げて行くことができる。
この事態を逆方向から観察すると、ライター志望者もしくは、駆け出しのライターの目から見て、大手出版社の社員編集者は、生殺与奪の権をすべて備え持った神の如き存在に見えているということでもある。
特段に威張り散らすまでもなく、編集者は編集者だというだけで、若いライターにとっては、すでにして全能の神なのである。
私は、その最初の苦労を経験していない。
いきなり、コネと顔なじみの力だけで、しかるべき「座席」におさまった至極ラッキーな参入者だった。
ついでに申せばライターの「実力」と言われているものの半分以上は、その「座席」の力だったりする。
ここのところの話は、ちょっとわかりにくいかもしれない。
テレビタレントの例を引くと、ずっと直感的にわかりやすくなると思うので、以下、芸能人の「実力」の話をする。
芸能人の「実力」は、そのほとんどすべてを「知名度」に負っている。で、その「知名度」の源泉となるのは、メディアへの露出度で、メディアへの露出量を担保するのは、そのタレントの「実力」ということになっている。
ん? この話はいわゆる「ニワトリとタマゴ」じゃないかと思ったあなたは正しい。
- 知名度があるからみんなが知っている
- みんなが知っているから愛される
- 愛されるからタレントとしての実力が認められる
- タレントとしての実力があるから出演のオファーが来る
- 1に戻る
つまり、最初に誰かのおまけでも何でも良いからテレビに出て顔を売れば、その顔を売ったという実績が自分の商品価値になるということだ。
ライターも実は似たようなものだ。商業誌に連載を持っているからといって、そのライターがとびっきりに文章の上手な書き手であるわけでもなければ、人並みはずれて頭が良いわけでもない。正直なところを述べれば、一流の雑誌に書いているライターの中にも、取りえのない書き手はいくらでもいる。
それでも、一度業界に「座席」を占めたライターが仕事を失わないのは、業界の編集者たちが「◯◯誌に書いている」という実績を重視する中で、「実力」と称されるものが仮定されているからだ。
行列のできるラーメン屋の構造と同じだ。誰もが行列のケツにつきたがる。そういうくだらない話だ。
そんなわけで、キャスティング権を握っているテレビのプロデューサーや、編集権を手の内に持つ雑誌の編集者は、言ってみれば、タレントやライターの「実力」を自在に生産・配布する利権そのものなのである。
長い原稿になってしまった。
本当は書きたいことは、まだまだこの3倍くらいある。
別の機会に書くことになるかもしれない。
体力が戻ったら、あらためて取り組んでみたい。
当面の結論として、私はとりあえず、出版社の未来には絶望している。
絶望というより、うんざりしている。
出版エージェントだとか、オンラインサロンだとか、ユーチューブのチャンネルだとか、箕輪氏の周辺には、出版という古くさい業態を、新しいマネタイズのチャンネルとして再定義せんとするニヤニヤ顔の野心家たちが群れ集まっている。その様子に、私は強烈な嫌悪感をおぼえている。
出版業界の古さには良い面と悪い面がある。
出版業界の新しい試みにも期待できる面と明らかにうさんくさい面の二通りの印象を抱いている。
報道が本当ならば、箕輪氏は、出版業界の古い体質が容易にぬぐいきれずにいる醜さと、出版をアップデートしようと新しい人々が共通してその身のうちに備えている薄汚さを併せ持ったクズの中のクズだと思っている。
A子さんと箕輪氏の間に何があったのかは、この先、文春砲の第2弾になるのか、あるいは裁判という経路を通じて明らかになるのかはわからないが、いずれ、天下の知るところとなるはずだ。
この原稿では、事実関係の細かいところを追うことはあえてしなかったが、ともあれ、私は、天才編集者を名乗る人間が、一方では、出版のマネタイズを近代化する方法を提案しているように見せかけながら、他方では、およそ前近代的な奴隷出版の手口でライターを使役していたことが、今回の事件の本質だと思っている。
長い原稿になってしまった。
私はとても疲弊している。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
延々と続く無責任体制の空気はいつから始まった?
現状肯定の圧力に抗して5年間
「これはおかしい」と、声を上げ続けたコラムの集大成
「ア・ピース・オブ・警句」が書籍化です!
同じタイプの出来事が酔っぱらいのデジャブみたいに反復してきたこの5年の間に、自分が、五輪と政権に関しての細かいあれこれを、それこそ空気のようにほとんどすべて忘れている。
私たちはあまりにもよく似た事件の繰り返しに慣らされて、感覚を鈍磨させられてきた。
それが日本の私たちの、この5年間だった。
まとめて読んでみて、そのことがはじめてわかる。
別の言い方をすれば、私たちは、自分たちがいかに狂っていたのかを、その狂気の勤勉な記録者であったこの5年間のオダジマに教えてもらうという、得難い経験を本書から得ることになるわけだ。
ぜひ、読んで、ご自身の記憶の消えっぷりを確認してみてほしい。(まえがきより)
人気連載「ア・ピース・オブ・警句」の5年間の集大成、3月16日、満を持して刊行。
3月20日にはミシマ社さんから『小田嶋隆のコラムの切り口』も刊行されました。
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。