その日、私は新型コロナに罹患した
小田嶋隆さんが他界したその日(2022年6月24日)、私は新型コロナに罹った。
そのため翌週末に催されたお別れ会にも参列できず、自宅にこもり、ひとり悲しみに暮れるほかなかった。6月末、自社のウェブ雑誌の毎月末にその月をふりかえるコーナー(「今月と来月」)で、私はこう綴った。
47歳の誕生日を迎えたその日に僕はコロナになり、小田嶋隆さんがお亡くなりになった。数日間、ひたすら寝て過ごした。幸い、軽症で済み、体調が戻ってきた今週はずっと悲しみに暮れている。悲しみを実感するにも、ある程度の体力が要ることを知った。
小田嶋さんに出演いただいたイベントを見直したり、小田嶋さんが影響を受けた音楽や本たちを粛々と追っている。創業期からお世話になった方だが、ただの一つも嫌な思い出がない。ほんの少しであれ気分を害するような経験をしたこともない。不思議なことに。少年のようなおじさん。そう称されるのをしばしば耳にし、私もそう思っていた。が、案外、小田嶋さんは、僕が知るかぎりもっとも大人だった人かもしれない。今になって気づいた。
6月20日にお見舞いに伺った際、「今あるのはあなたのおかげです、みたいなの大嫌いなんです」と最後まで小田嶋節を崩されなかった。「そうですよね」と返事をしましたが、それでも申したいです。「(ミシマ社も私個人も、今があるのは)間違いなく、小田嶋さんのおかげです」。長年、本当にありがとうございました。どうか、安らかにおやすみになってください。
かなしい~~~~~~!
コロナの隔離生活のあいだ、どっぷりと小田嶋さんと過ごした。6/27(月)は、長年小田嶋さんがレギュラーを務められたTBSラジオ「赤江珠緒 たまむすび」に齧りつく。赤江珠緒さんの一言一句に耳を傾け、そうそう、とうなずいてはまた泣く。小田嶋さんの担当コーナー「週刊ニッポンの空気」のラスト、赤江さんが、小田嶋さんを愛するすべての人たちの心中を代弁するかのように言ってくれた。「小田嶋さん、大好きです」。号泣。もう、流す涙はないほど涙が溢れでた。
翌日から体の具合を見つつ、小田嶋さんに関わる音源・文献を聴いたり、読んだりした。木村俊介さんの「小田嶋隆さんロングインタビュー」の最後、小田嶋さんが「文章の世界(の未来は)明るいですよ」「若い人の文章力は格段に上がった」と語っているのを聴き、久しぶりに晴れ間を見たような心境に。並行して、少しずつ小田嶋さんのコラムを読み返しはじめる。小田嶋さんから預かった宿題があったのだ。
5月29日、携帯電話が鳴った。「医者は、夏を越せないだろうとか言ってるんです」。電話の向こうから、小田嶋さんの、それこそ明るい口調が響いてくる。一瞬にして呆然となった。が、小田嶋さんはこちらのことなど意に介さないかのように、話を続ける。業界の話、というか悪口、いい編集者とそうじゃない編集者の分かれ目について、などなど。大笑いして聴いていると「そんなことを三島さんに話しても仕方ないんですが」と本人も笑われた。そして、続けておっしゃったのが――「遺稿集をミシマ社から出すのは、やぶさかではありません。私が言うのもなんですが」。
驚いた。
初めての提案
驚きの理由は大きく2つある。『小田嶋隆のコラム道』『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』『小田嶋隆のコラムの切り口』と3冊を編集したが、すべてこちらからの依頼で進んだ企画だった。小田嶋さんの方から「こういう企画やってみたいんだけど」と提案を受けたことは一度もない。これが初めて。だから純粋に驚いたというのが一つ。
もう一つは、自分が亡くなった後をはっきりと意識しての発言、その覚悟の度合いに対してである。「そんな寂しいこと言わないでください」などと、かわすことはできない何かを感じた。「小田嶋さんがOKでしたら、ぜひ」と即答すると、「『コラムの切り口』はすごくいい編集でした。ああいいふうに編集された本を」と言ってくださった。日曜日の夜9時過ぎのこと。心も体も緩みきっていたが、瞬時にしてスイッチが入った。
数週間かけて、原稿整理をおこなう。『コラムの切り口』同様、紙媒体に寄稿された原稿でまとめるつもりでいた。それをもとに、構成案をつくり、タイトル案も考えた。ちょうどそれができた同タイミングの6月16日、小田嶋さんから着信あり。時間は朝の5時。むろん、というか、思いっきり眠りの中にいた。折り返すもなかなかつながらない。小田嶋さんの奥さんと連絡がとれ、その4日後の6月20日、お見舞いに自宅へ伺うことに。容体次第だが、タイトル案『小田嶋隆のコラムは万歳!』についてのご意見も聞くつもりでいた。
ミシマ社の三島社長とはじめてお会いしたのは、2007年の春のことだった。彼は、福音をのべ伝える伝道者に似た表情をたたえながら、私に本書の企画を力説した。
これは、『小田嶋隆のコラム道』(2012年5月刊)「はじめに」の1行目である。続けて――
話はとんとん拍子に進んだ。その場でタイトルと目次立てが決まり、あとは書き下ろすだけという段取りになった。
そうやって五年が経過した。 注意深い読者は、疑問を抱いたはずだ。 「そうやって、って、どうやってだ?」 あなたの疑問は正しい。
企画から刊行に至るまで5年かかった。これ自体は何ら珍しいことではない。ただし、この打ち合わせのとき、「週1回、連載をしていけば、1年後には本になりますね」と、執筆者、編集者ともに呵々大笑していたのだった。ところが。週1回ペースの予定は、第2回にして崩れる。第3回以降も立て直しが効かず、その後、月1本を目指す。が、すぐに3カ月に1度のペースになり、やがて年1本ペースとなった。本文には、「またしても間があいてしまった」と言った表現がくりかえされる。それもまたコラム。「モチベーション」や締め切り問題と絡めて、本書にはそう記されることになる。
私とて、ぼんやり待っていたわけではない。
毎週のように電話した時期もあった。かけるたび、「もしもーし」と、どこか遠くの旅行先から電話に出ているような声が響く。「いかがでしょうか?」「そうですよね」と苦笑する小田嶋さん。「今週は比較的時間があるので、必ず」「楽しみにしています!」。こうしたやり取りを100回近く交わしたのではないだろうか。
さすがの小田嶋さんも、ときどき、どうにかせねば、と思われたようだ。小田嶋さんの方から、「自転車で自由が丘に行きますよ。できれば原稿を持って」と提案されることもあった。
そのほとんどにおいて、原稿はもらえなかった。が、決して手ぶらであったわけではない。ある時は、ミシマ社の自由が丘オフィスの玄関先で見つけた(らしい)昆虫を手にしておられた。「そこにいた虫ですけど、これは珍しいですね」。そう言って、蓋を開けたペットボトルの中に放り込む。小田嶋さんと私のちょうど中間あたりに、そのペットボトルは置かれ、虫を挟んでの打ち合わせがはじまる。ぜんぜん、集中できない。虫にばかり気がいってしまう。何を話したのか、全然おもいだせないが、とにかく楽しい空気が流れていたことだけははっきりおぼえている。
そして、2011年の新春――。小さな新年会を開くことになり、小田嶋さんも来てくださった。ピンポーンと一軒家オフィスの呼び鈴が鳴る。急ぎ、玄関の扉を開けると、小田嶋さんが両手に、イグアナの大きな剥製をかかえ、立っていた。「原稿の代わりに、これを置いときます」。原稿をすべて出し、単行本になった暁に取りにくる、とのこと。
小田嶋さんが愛してやまないイグアナのイギー。結局、1年以上預かることになるのだが、オフィスに来客があるたび、鎮座する大きなイグアナに驚かれた(そりゃそうだろう)。いつしか、それに手を合わせる人たちも出てきた。イギー様、イギー神。気づけば、お賽銭を置いていく人まで現れた。以来、紙の、小さなお賽銭箱をつくって置くようにした。
お見舞いに行くと、玄関口でイギーさんが出迎えてくれた。イギーさんの足元には、お賽銭箱がそのままあった。
最後の打ち合わせ
自室に入ると、額にタオルを載せたまま小田嶋さんがベッドで寝ている。奥さんに促され、私が椅子に座ると、小田嶋さんが待っていたように、「簡易トイレですが、どうぞ」とおっしゃった。えっ、どういうこと? と半ばオドロいていると、「渾身のギャグですよ」と笑われたのだった。
すこし間をおいてからタイトルの相談をした。『小田嶋隆のコラムは万歳!』というタイトルを考えました。どうですか?
小田嶋さんは、うん、いいですね、としずかにうなずかれた。決定。ひとつ大役を終えた安堵感がただよう。そうしてほっとしていると、小田嶋さんが何やら、つぶやいているようだ。私は小田嶋さんの口元に近づき、耳を傾けた。
「コラムの だいかいてん」
「えっ、大回転ですか? くるくる回る、回転?」
「回天。天地の天です」と言う。なるほど、おもしろい。と思うまもなく、「コラムの向こう側。うん、コラムの向こう側にしましょう」とおっしゃった。
「では、コラムの向こう側にしましょう。『小田嶋隆のコラムの向こう側』でいきますね」
「はい」
「あとは、こちらでしっかりとつくります。いい本にしますね」とお伝えした。すると、「よろしくおねがいします」と小田嶋さんは、ゆっくりと、けど、はっきり、そうお応えになった。
(よろしくおねがいします)
小田嶋さんから原稿がメールで届くとき、たいてい、一文だけが書かれていた。「よろしくよろしく」。この言葉を見るのがいつもどれほど嬉しかったか。どんなに締め切りを過ぎていようが、ぜんぜん気にならない。この一文が見たくて、「待たせる」「待つ」を双方とも楽しんでいたような気すらしてくる。
それが今日は、よろしくおねがいします、だ。言わないで、そんなふうに言わないで。と心中、叫ぶほかなかった。
取り憑かれたように読み、選ぶ
お見舞いから4日後に、他界。その数日後から、読んでいなかった過去記事も含め、小田嶋さんのコラムを徹底的に読む。「紙媒体」でまとめる方針でいたが、読み込むうちに、違う、と思うようになる。過去2年余りに書かれた「ア・ピース・オブ・警句」、約100本をすべて読み、このウェブ連載だけでまとめることに変えた。小田嶋さんの「生」な思いがそちらのほうに滲み出ているのを感じたからだ。
人間・小田嶋隆を感じてほしい。
親友・故 岡康道さんへの手紙と生前最後のコラムを入れることだけは、早々に決め、あとは、小田嶋さんの人柄、人間味をより感じられるものを、直感で選んでいった。取り憑かれたように、読んでは選んだ。
デザインは、過去3作と同じく、尾原史和さんに依頼。タイトなスケジュールにもかかわらず、これ以上ないと思える仕上がりへと導いてくれた。
とにかく、最短でつくることだけはコロナの最中に決めた。小田嶋さんの熱が読者の中にまだ温度をもって残っているあいだに、かたちにする。それができれば、小田嶋さんの言葉は永遠に残る――。
取り憑かれたように記事を読んでは選んだ、と先に書いたが、もしかすると、この思いにこそ取り憑かれていたのかもしれない。小田嶋さんの「おねがいします」に応えるには、それしかない、という思いに。
小田嶋さんがお亡くなりになった日から、60日足らず。『小田嶋隆のコラムの向こう側』の見本は出来上がった。
見本を手にしたとき、ようやく自分が冷静になれた気がする。そうなって、今さらながらに、次の問いが気になりだした。
「向こう側」に込めた思いは何だったのだろう?
自分が向こう側に行くという意味だったのか。こっち(マジョリティ)とは違う、「向こう側」の視点から書かれたものであることを言いたかったのだろうか。それとも、私が現時点で想像もつかない思いを込められたのか?
わからない。
今は、永遠に問いつづけることになる、その予感だけがある。
本書を天国の小田嶋隆さんへ捧げます。
(文:三島 邦弘)
ミシマ社刊行の小田嶋さんの書籍はこちらから
『小田嶋隆のコラム道』
『上を向いてアルコール』
『小田嶋隆のコラムの切り口』
『小田嶋隆のコラムの向こう側』
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。