2018年6月1日掲載「もうしわけない、ボブ・ディラン」 より
2018年6月1日掲載「もうしわけない、ボブ・ディラン」 より

 2022年6月24日、日経ビジネスオンライン時代から長くご執筆をいただいてきたコラムニスト、小田嶋隆さんがお亡くなりになりました。

 今回は、小田嶋さんに近しい方々にいただいた寄稿を掲載して、皆さんと一緒に偲びたいと思います。

 最初は、日経ビジネスに小田嶋隆さんをご紹介くださったジャーナリスト、清野由美さんです。

追悼、小田嶋隆さんへ

 ついにこの時が来てしまった。

 小田嶋さんが脳梗塞で入院された時から、ずっと、はらはらと過ごしてきた。編集Yこと、日経ビジネスの山中浩之さんから電話の着信があると、覚悟を決めて出るのが習いになっていた。小田嶋さん本人の美学から、逐一の病状はうかがっていなかったが、じわじわと砂の落ちる音は伝え聞いていた。

 私にとっては、昨秋「中央公論」で小田嶋さんとオバタカズユキさんの対談の仕切り役をした時が、今生のお別れとなった。幾度かの入院治療のインターバルのタイミングで、身体の動きはゆっくりしていたが、アタマの切れは変わらず、口先もいたって達者で、さすがだった。

 65という小田嶋さんの享年は、現在の日本の平均寿命から言えば早すぎるかもしれない。ただ、私はそう思わない。小田嶋さんは独自の美学を保ったまま、自身に与えられた唯一の時間をまっとうした。そう思えてならない。

 ひとつに、老成というものが、彼の特質には無縁のものだったことがある。この場合、老成とは世間知と言い換えていい。

 周囲の人間関係、状況を見ながら、そこにいる複数の人々の利害を察知し、場を丸く収めながら、自分のいちばん得になるように、筋書きを運んでいく。

 そういうこざかしい大人の処世から無縁――というか、見放されているのが、小田嶋隆という人だった。

 ある時、小田嶋さんから「お世話になったお礼に、食事をごちそうさせてもらいたい」というありがたい申し出があった。

 「そんなあ、気を使わないでいいですよー」「いや、オレの気持ちだから」みたいなやり取りの後、「じゃあ、お言葉に甘えて」となった。だとしたら、普通は日程とか、お店とか、奢る方がアレンジする流れになりますよね。

 でも、小田嶋さんだとそうならない。

 結局、言われた方の私が、日取りも、待ち合わせの場所も設定して、待ち合わせの場所では「えっと、お店、決まっています?」「ううん、決まってない」という予想通りの展開になった。

 ただ、ここで怒っていては、小田嶋番は務まらないのである。こんなこともあろうかと、私は事前に近隣でよかろうと思える店の見当も付けており、そこに無事、小田嶋先生をご案内したのであった。って、どっちが接待主なのよ。

 このようなエピソードからも、新卒の営業要員として小田嶋さんが就職した日本の食品企業が、いかにつらかったか、容易に想像できる。つらかったのは、もちろん、雇用する側です。

 しかし、世間知から見放されていたからこそ、小田嶋さんの書く文章、とりわけコラムにおけるレトリックの切れ味は極上であった。中でもいくつか、私の中には永久保存版のレトリックがある。ここで書きたいと思ったが、一部分だけ抽出すると、過度に攻撃的になってしまうので、やめておく。ともかく、つまらない大人は「おうさまは、はだかだ」なんて言えないし、そもそも分からない。でも小田嶋さんは、言葉のナイフで敵をすっと切り裂いた後、その切っ先を爆笑に着地させるという、スゴイ技を持っていた。

 レトリックの根底にあったのは、彼一流のセンスだ。小熊英二が著した『日本社会の仕組み』によると、戦後、地域間賃金格差や階級間年収格差が最小だったのが1975年(引用元は、橋本健二『「格差」の戦後史』)で、日本社会が「一種の安定状態」にあったのが70年代後半だったという。

 これはまさに、小田嶋さんが生涯を貫くセンスを獲得した高校、浪人、大学時代と重なる。小田嶋さん世代は、一回り上の団塊世代が、田舎くささ丸出しで、元気に暴れた果てに、権力の側に吸い込まれていった経緯を、柱の陰から眺め続けた。アタマのいい高校生は、そこから、事象をことさらに深刻化せず、落語のようなおかしみを持って語る反作用的な態度を身に付けた。その要諦は、含羞と諧謔、かろみ、デフォルトとしての虚無である。

 地域間賃金、階級間年収はさておき、70年代は都会と地方には、まだ情報のギャップがあった。東京都北区赤羽という、江戸の町人文化を引く土地に生まれ育った小田嶋さんは、まさしく都会の高校生で、野暮すなわち、拝金、権威主義、自己宣伝、人とつるむ態度、湿っぽさ、反知性などなどを、忌むべきものとした。この感性は、いろいろな人がワサワサと行きかう都会でないと、なかなか磨かれないものだろう。

 小田嶋さんには、言いたいことを言ってきたから、その点で私に悔いはない。

 ただひとつ、今年6月に刊行された小田嶋隆、初の小説『東京四次元紀行』の素晴らしい出来に感動したことは伝えられなかった。小田嶋さんのコラムは、痛快であると同時に、時に切り込み過ぎて、小田嶋さんの美質とは違うところで炎上を招いていた。その様子を傍から見ていると、「違うのに……」と、胸が痛むことがあった。だが、小説は洒脱でドライで、どこかあったかいという、彼がその経験から培ったすべてのセンスが結実していた。きっと小田嶋さんにとって、コラムよりも書いていて楽しい形式だったと思う。ありあまる才能の、その先の展開が見られないことは、残念の一言である。その悔しさは、この文章を書いている現在ではなく、この先、雑踏を歩いている時なんかに唐突に襲ってきて、私の足をすくませてしまうのだろう。

 小田嶋さんはいま、彼の顔をしかめさせる現世の言説、ふるまいからきっぱりと離れ、病の苦痛からも解放され、無垢な表情でやすらかに過ごしている。そう信じている。

(文:清野 由美)

2018年11月16日掲載「マリちゃんが聞いていた『オペラ座の夜』」より
2018年11月16日掲載「マリちゃんが聞いていた『オペラ座の夜』」より

兄の親友、小田嶋隆を弟はどんな目で見ていたのか

 次は20年に亡くなられた小田嶋さんの親友、岡康道さんの弟、岡 敦(あつし)さんです。敦さんには日経ビジネスオンラインで「生きるための古典 ~No classics, No life!」を連載していただき、集英社新書から『強く生きるために読む古典』として刊行されました。兄の親友としての小田嶋さんを、敦さんはどのような人だと感じていたのでしょうか。

 なお、岡康道さんへの小田嶋さんの追悼文は「『旅立つには早すぎる』~追悼 岡 康道さん」、小田嶋さん、岡康道さんと岡敦さんの鼎談(ていだん)は「もう一度読みたい」の、「人生の諸問題」再録、「無責任なり、60年代野郎!」からお読みいただけます。

小田嶋隆追悼文

1:

 兄は自分の高校時代を振り返るたびに、こんなことを言っていた。
 「オレ、高校で小田嶋に出会っただろ。アイツに自分の文才の限界を思い知らされて、文筆の道をあきらめたんだよ」
 一昨年の夏の兄の葬儀の日に、小田嶋隆と話しているうち、そのことが話題になった。すると、「いや、それはあくまでヤツ一流のレトリックであって……」と彼は謙遜以上の強い口調で否定した。

 そうだ、あの発言は兄のレトリックだったかもしれない。しかし、高校時代の兄が心の底から小田嶋隆の文才に驚嘆していたのは事実だ。
 おぼえている。
 中学一年のときだった。ぼくは小田嶋隆に会った。
 三つ上の兄が連れてきた、高校の同級生だという。
 あの年頃の三歳の差は大きくて、体格も内面も子供と大人の違いがある。
 声変わりもしていないぼくに、小田嶋隆がどんな人間で何を考えているかなんて、わかるはずがない。
 それでも、高校一年の彼の言語表現の技術とセンスは素晴らしく、子供のぼくでも驚いた。ぼくは気おされたし、そんなぼくの顔を見て、「な、すごいだろ」と兄は嬉しそうだった。

2:

 それから一、二年も経った頃。
 高校から戻った兄が、小田嶋隆が作った回文(「竹藪焼けた」のように上から読んでも下から読んでも同じ言葉になる短文)を教えてくれた。授業の合間の休み時間の、高校生の戯れに過ぎないのだから、兄も作った本人もきっとすぐに忘れてしまっただろう。でも、ぼくは忘れない。それは、こんなふうだった。

  弱いな隆
  仕方ないわよ

 声に出してみれば七字七字の繰り返しで語調が良い。一文ではなく対話になっているのもおもしろい。
 けれども、驚いたのはそこではない。
 即興で作ったほんの冗談でありながら、同時に、その頃の彼のありさまを端的に言い表しているように思えたのだ。一編の私小説のよう、と言えば言い過ぎだが、その時はそんな気がした。

 こんなオフザケとも本気ともつかない形に瞬時にまとめあげて自己表現をしてみせるなんて!

 文章表現の技術と、そんな技術を身につけずにはいられない内面、その両方をあわせて文才と呼ぶのだとすれば、ぼくは回文に笑わせられながら、まさに彼の文才の凄みを見せつけられて、不意に氷を背中に押し当てられたようにゾクリとした。

3:

 十代の彼は強い羞恥心を持っていた。
 いや彼だけではない。当時、1970年代の若者はみな「恥ずかしがっていた」とぼくは言いたい。

 ありきたりのことを言う、いかにも言いそうな言葉を発する、時代遅れで鮮やかさを失った理屈を口にする、誰もが考えることを独自の見解のように語る……そういった鈍感さに遭遇すると、ぼくらはたまらない恥ずかしさを覚えた。
 当然、自分自身がありきたりの言葉を口にしてしまうなんて、そんな醜態は何が何でも避けなければならなかった。

 では、しかし、ありきたりでなく振舞うことなど、できるものだろうか。
 そもそも、ありきたりを避けようとする態度自体がありきたりだろう。
 「あえて、ありきたりに徹する」というアイデアもとっくにありきたりになっていた。
 何を考え何を試みようと、ぼくらはますますありきたりになっていく。

 こんなふうに自分の「ありきたり」ぶりを意識し始めると、自分の言動の何もかもが恥ずかしくなって、ついに何もできなくなってしまう。70年代の羞恥心とは、自分を封じ込めてしまうこの自己批評意識の現れのことだ。

 彼の批評意識とその表現はあの頃も刃のように鋭かったから、それは彼自身の手も傷つけずにはいなかった。彼は誰よりも鋭く自分を批評し嘲笑して、羞恥に苛まれ、自分の能力を封じ込めて弱めていた……ように思われた。

4:

 ぼくの目に映る彼は、いつも笑いながら苛立っているようだった。あるいは苛立つがゆえに、それを笑いに転化してやり過ごそうとしていたのだろうか。

 いかにもありきたりな言葉に触れると、彼は恥ずかしさに居たたまれなくなって笑い出す。笑いでは収まらず、しばしば攻撃に転じる。冷たい笑いの混じった熱い言葉の奔流を、容赦なく批評対象に浴びせかける。
 偏狭だからではなく、意地悪だからでもなく、ただ、彼の強すぎる羞恥心ゆえに。

 はじめから彼の批評は「芸」になっていたから、彼の言葉を直接、あるいは兄を通して聞くたびに、ぼくは笑い転げ、感心した。そして思った、彼はぼく自身も生きているこの時代を、誰よりも敏感に感受し生きているのだと。そしてこんな優れた同志がいる頼もしさと、痛々しい共感とを覚えるのだった。

5:

 最後に彼が好きだった作家、三島由紀夫の言葉を引用する。
 三島はここで、一つの時代を生きる青年の苦悩の中に「時代の本質」を見ようとしている。

〔政治的、社会的、経済的背景を〕ぬきにして「時代の悩み」だけを抽象化してとりだして見ようとする我々の企図が誤りだとしても、その時代時代の青年の心にはきっとそういう抽象化された「時代の悩み」が生きていたにちがいない。そういうすべての外的なものと切り離された「時代の悩み」はそれと時代をともにしたもののみが知りうるので、そして時代とともにもっとも早く滅びゆくものもこの種の悩みで、おそらく同時代の青春時代だけに生きたのち、その人たちの老後には枯れ果てて記憶もとどめなくなるものかもしれない。それだけにこの種の悩みは生き物であり、時代の本質はそこに宿るのだとも考えられるし、それは時代という自然から生まれ出た一羽の黒い不吉な蝶々、早世の蝶々とも見られるであろう。後世の文学者は意識するとせぬとにかかわらず、その時代を扱った文学の中に、この一羽の黒い蝶々を生々とはばたかせようと願わなかったものはあるまい。

(三島由紀夫「私の文学」『生きる意味を問う』大和出版、1984年より引用)

 小田嶋隆へのお悔やみの言葉も述べずに、ただ昔の話を書いた。
 これで彼を偲び彼を語ったことになるのか、よくわからない。
 もしかしたら、彼には迷惑かもしれない。50年も前のことなんかとっくに忘れたよとか、アツシの眼にそう映っただけだよと言われるかもしれない。あるいは、おい、なんだよ羞恥心って、と鼻で笑われるだろうか。

 でもぼくは書きたかった。

 いや、書きたかったのではない。
 本当は、同じ時代のあの気分を共に生きた彼と、たとえば十年後にでもこのような昔話をしたかったのだ。
 「当時は、どうだったの」なんて尋ねたり、あきれたり、見直したり、いっしょに笑ったりしたかった。
 ひどいじゃないか、と文句も言いたかった。
 ぼくの内面の大事な部分を育ててくれてありがとう、と照れ臭いけれど御礼も言いたかった。

 そんなことも、もうできないのだから。

(文:岡 敦)

2019年7月19日掲載「誰かを落とすための一票だってある」より
2019年7月19日掲載「誰かを落とすための一票だってある」より

友達はいつでもスタンド・バイ・ミー

 今回のラストは、東京女子大学学長の森本あんり先生。国際基督教大学の名誉教授でもあり、神学者でもある先生は、小田嶋さんとずっと同級生であり、学生時代を通して親しい友達でした。2021年には先生の書かれた『不寛容論』(新潮選書)を題材に、寛容についてお二人で話し合っていただきました(『不寛容論』に学ぶ、「不愉快な隣人」への振る舞い方)。この続きを近いうちに、と念じていたのですが、ついにかないませんでした。

In Memoriam

 2022年5月28日、13:19着信、15分通話――小田嶋と最後に話したのはいつだろう、と思って携帯電話の履歴を確認したら、そう記録があった。最近は便利なものである。その10日前、これもメールの記録から辿ったのだが、彼の編集者から突然連絡があり、ともかく小田嶋が話したがっているから電話をしてやってくれ、ということだった。すぐに何度も電話をしたのだが、つながらない。あちらからも電話があったようだが、わたしは気づかなかった。結局わたしがかけ続けていたのは間違った番号だった、とわかったのがこの28日なのである。その後しばらくして、そろそろまた電話してみようかな、と思っていたら、出張中の新幹線で訃報のメールを受け取った。

 小田嶋の追悼文なんて、わたしは書きたくない。彼のことなので、わたしより親しかった友人や仕事仲間はたくさんいるだろうし、「惜しい人をなくしました」的なアナウンスもあちこちで流されるのだろう。そんな言葉を読んだり聞いたりしたら、きっと小田嶋はそれをまたひとしきり自嘲ネタにして楽しむだろう。そういう役割は、他の方々にお任せしたい。それでもわたしがこれを書いているのは、半世紀以上前の旧友として、われわれが共有した何ごとかを書いて残し、彼の逝去に際して捧げておきたいと思ったからである。

 すでに何度か書いたことだが、わたしと彼は小中高と同級生で、とても親しかった。小田嶋は、昔から勉強ができて成績はいつもトップレベル。手先も器用で、ピアノもギターも見よう見まねでささっとできてしまう。何でもできるけれど、特に何かを一心不乱に追求してその道の達人になる、などということはしない。みっともないからである。

 ちなみに、古代ギリシアではこういう人を円環的な教養人と呼ぶ。たとえば、人は笛を吹く楽しみを知っていなければならないが、あまり上手すぎてはいけない。熟達しようとすると、人間性の他の部分を犠牲にして努力してしまうからである。「趣味といっても彼の腕前はプロ級で」などというのは、実のところ無教養の極みだろう。何にせよ適量を過ぎると、人は不幸になる。そのことを心底よく知っていた小田嶋は、結局のところまあまあ人生を楽しんだ幸せな人間だった。そう思うことにしたい。

 彼が電話で話したかったのは、仕事のことではない。しばらく牧師職にあったわたしの宗教的な慰めが欲しかったわけでもない。ただ、たわいもない話ができることを喜んでいた。すでに鎮静剤もかなりの量になっているようで、メールを打つのもしんどいし、お見舞いなんてもっと疲れるから、電話で話すくらいがちょうどありがたい、ということだった。ツイッターなどとは縁のないわたしは、彼の病状が終末期まで進行していることも知らなかった。たぶんそうだろう、と思った彼は、「いきなり自分の訃報が届くのも何だから」ということで、わたしに心の準備をさせるために話したかったのだ。

 電話の向こうで彼は、ゆっくりとした口調でこぼしていた。「あらいゆうこうも、ひろせだいぞうも死んじゃったし、もうオレとあんりが覚えている人って、このあたりに誰もいないのよ。」わたしは、その二人の名前は覚えているし、どのあたりに住んでいたかも覚えているが、いつどのように亡くなったかは知らない。

 高校で同級生だった岡康道のことは、二人で一緒に高校の同窓会誌に書いた。当時からやたらに大人びていて、どこか陰のある魅力的な人物だった。メディア界の有名人になった彼を、わたしは小田嶋を通して間接的に知っていたくらいだが、「今度3人で何かやろう」と企画を話しているうちに、彼は亡くなってしまい、それを小田嶋はとても残念がっていた。おそらく、そうやって先に逝った人たちのことを順に数えながら、おぼろげに自分の行く末を見つめていたのだろう。最後は、「あっちに行ったら、岡によろしく」「うんわかった」というお出かけの挨拶だった。



 高校卒業後の小田嶋のことも、わたしはまったく知らない。これも何度か書いたことだが、わたしにとって小中高は暗黒時代だったので、その後の人生ではできるだけ近づかないようにしていた。小田嶋隆という名前も、パソコン誌にテクニカルライターとして書いた彼の記事で知っていただけである。ところが、卒業して30年ほど経ったある日、突然連絡をもらい、彼の担当するラジオ番組で対談することになった。わたしが『反知性主義』(2015年)を書くより数年ほど前のことである。

 その時の対談の内容は忘れてしまった。だが、この再会はわたしの人生に大きな意味をもった。収録が終わり、近くの喫茶店でくつろいでいた時のことである。彼は、わたしが忘れていたこと、というより記憶の底に押し込めて忘れようとしていたこと、をぽつぽつと語ってくれたのである。

 高校生のある日、例によって授業を抜け出したわれわれ2人は、学校の裏手に新しく地下鉄の駅が建設されつつあるのを見つけた。現在の三田線千石駅である。小田嶋の回想によると、その時わたしは、中へ入ってみようと言い出し、勝手にシャッターをがらがらと上げて、暗い駅の中へ降りていったという。そんなことをして大丈夫かな、と思っているうちにホームに着くと、今度はさらに線路へ降りて歩くという。それはさすがにまずいのではないか、と彼は思ったそうだが、わたしがずんずん先へ行ってしまうので、結局2人して巣鴨へ向かって歩き始めた。すると、案の定途中で向こうから試運転の電車が轟音と閃光とともに走ってくる。恐怖に駆られたわれわれは、ひたすら壁に張り付いてやり過ごそうと思ったが、急停止した電車の車掌にとっつかまり、2匹のねずみのように連れて行かれて、駅でこっぴどく叱られた、という話である。

 今から思うと、叱られただけで済んだなんて、信じられないほどラッキーな話である。ことによったら生命すら危なかっただろう。そんな彼の問わず語りを聞いて、ようやくわたしも思い出した。だが、思い出したのはその出来事だけでなく、その時自分が何を考えてそんな愚かなことをしたのか、ということだった。わたしはその時、「悪いことをして冒険してみたい」というより、「これで死んでしまってもいい」と思っていたのである。それが当時のわたしの暗澹とした現実だった。小田嶋は、地下鉄の線路くらいに暗かったわたしの実存の闇を、命がけでいっしょに歩いてくれた友だったのである。

 しかもわたしは、そのことを30年以上も忘れていた。小田嶋の話を聞いてはじめて、そんなにも長い間そのことを忘れて、自分の人生を生きてこられた、ということを発見したのである。自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた。だから今では、それを思い出したり話したりしても平気である。気がついたら、そういう自分になっていた。そのことを、小田嶋との再会が悟らせてくれたのである。忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう。

(文:森本 あんり)

2019年5月31日掲載「『死にたい人』の背中を押すなかれ」より
2019年5月31日掲載「『死にたい人』の背中を押すなかれ」より
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