今回はワールドカップ(W杯)関連の話題を扱うつもりだ。
というよりも、そうせざるを得ない。
なぜなら、W杯開幕以来、生活が不規則になっているせいか、W杯以外のことを考えることが難しくなっているからだ。
こんな状態でサッカー以外のテーマに取り組んでみたところで、どうせろくなことにはならない。
とりあえず、寝不足ではない。
どちらかといえば、寝過ぎだ。
起床と就寝のリズムが乱れているせいなのか、サッカーを見ていない時間は、うとうとしていることが多い。のみならず、横になって本格的に寝る時間も、順調に増え続けている。
午前中から午後にかけての明るい時間帯の睡眠は、どうしても眠りが浅くなる。それで睡眠時間が増える。
しかも、夢の醒め際を狙うようにしてかかってくる電話が、眠りの質を悪化させている。結果として、連日12時間近く寝ているにもかかわらず、寝不足の感じが拭えない。この調子でW杯が3カ月も続いたら、私は間違いなく睡眠障害を獲得することになるだろう。悪くするとそのまま抑うつ状態に陥るかもしれない。
とにかく、決勝戦までのあと3週間ほどの期間を、なんとかアタマを悪くすることで乗り切って行こうと思っている。
4年に一度、こうやってアタマを悪くする訓練を積むことは、しかしながら、無意味なことではない。明敏に生まれついてしまった人間は、バカになる機会を確保しておかないと、空回りで自滅してしまう。私はそうなってしまった人間を何人か知っている。用心せねばならない。
日本代表の対コロンビア戦は、うっかり仕事を入れてしまっていたので、リアルタイムでは観戦できなかった。
当日、帰宅したのは、試合終了に近い時間帯だった。
ただ、その日は、午後から順次情報遮断を心がけていたので、帰宅して予約録画しておいたゲームを再生する時点では、勝敗を知らずに済んでいた。おかげで、同時視聴の場合と変わらぬ臨場感で試合を楽しむことができた。
何回か前の当欄で簡単に説明した通り、私は、現代表チームのメンバー構成やチームとしての正当性に疑念を抱いている。
よりはっきりとしたところを申し上げるなら、私は現代表チームならびに、その選考に当たったJFA(日本サッカー協会)の首脳を信頼していない。
それゆえ、「サムライブルー」と呼ばれている現代表について、自国の優秀な選手たちで構成されたサッカーチームとして応援する気持ちは抱いているものの、自分たちの本当の代表だとは考えていない。
理由は、以前書いたことの重複になるが、前監督であったハリルホジッチ氏解任の顛末に納得できていないからだ。また、西野監督に後任を託した理由と経緯について、JFA(日本サッカー協会)ならびに西野監督本人がなにひとつマトモな説明をしていないからでもある。
こんな筋の通らない組織がデッチあげたデタラメなチームを、自分たちの代表チームとして承認することは不可能だ。
ただ、それでもチームは動きはじめている。
そして、W杯が始まり、ホイッスルが吹かれ、選手たちはボールを追いかけている。
このこと(現実に目の前でサッカーが展開されていること)から目を背けることは、とてもむずかしい。
前にも書いた記憶があるのだが、わたくしども日本人は、眼前の現実を宿命として甘受する傾向を強く持っている国民だ。それゆえ、現在進行形で動いている事態には、いつも甘い点をつけてしまう。
われわれは「現に目の前で動きつつある状況」や「結果として現出しつつある事態」や「理由や経緯はどうあれ、所与の現実として自分たちを巻き込んで進行している出来事」みたいなものに、あっさりと白旗をあげてしまうことの多い人々だ。で、その結果として、いつも現実に屈服させられている。
「思考は現実化する」
という感じの、片思いをこじらせた中学生の妄想じみた呪文を繰り返す類いの様々な自己啓発書籍が、全国の書店で高い売り上げを記録しているのは、日本人の多くが、常々、自分自身の思考を実現するどころか、眼の前で起きている現実に自分の思考の方を合わせることを強いられている人々であることの裏返しなのであって、われわれが暮らしているこの国のこの社会は、個々の人間が自分のアタマで独自に思考すること自体を事実上禁じられている場所でもあるのだ。
代表監督をめぐるゴタゴタについてあらためて申し上げるなら、おそらく、多数派のサッカーファンはすでに許している。
「いまさらグダグダ言っても仕方がないじゃないか」
「過ぎたことを蒸し返してどうなるものでもないだろ?」
「とにかく今目の前で戦っている自分たちの代表を応援するのが、普通の日本人としての唯一の現実的な態度だとオレは思うわけだが」
てな調子で、当初は不満を持っていた人々も、時間の経過とともに、順次わだかまりを水に流しつつある。こんなふうにすべてを水に流して忘れてしまうことが、善良な日本人としてのあらまほしき上品な振る舞い方だということを、われわれは、子供の頃からやんわりと教えられ、そうやって大人になっている。
気持ちはよくわかる。
私自身、もはや半分ほどは許している。八割がたあきらめてもいる。
協会のやり方に腹を立て続けている自分の偏屈さに、我ながら多少あきれてさえいる。
だから、筋を通すべきだという私個人の牢固たる思い込みを、多数派のサッカーファンにぜひとも押し付けようとは思っていない。
ただ、この場を借りて自分の真情を吐露しておかないと先に進めないので、読者のみなさんにご迷惑をかけていることは重々承知の上で、愚痴を聞いてもらっている次第だ。
われわれの多くは、不満たらたらで通っていた職場にも、そのうちに馴れてしまうタイプの人間たちだ。してみると、どんなに無茶な人事であっても、いかにデタラメな状況説明であっても、事態を掌握している側の人間が中央突破で押し通してしまえば、最終的にはどんな無茶でもまかり通ることになっている。月日のたつうちには、誰もが抵抗をあきらめてしまう。われわれが住んでいるのはそういう国だ。
つまり、既成事実の積み重ねが人々を屈服させるということの繰り返しがこの国のこの千年ほどの歴史の主要なストーリー展開であったことを踏まえて考えるなら、JFAの排外クーデターもモリカケの強弁も、最終的には、
「現実としてこうなってしまっていることについていまさら何を言っても仕方がないじゃないか」
てなことで、不問に付されるに決まっているのである。
全体主義の社会で暮らす民衆が、息の詰まる思いで過ごしているのかというと、私は、必ずしもそうではないのだろうと思っている。
多数派の国民は、少数派や異端者が声を上げることの少ない社会に、むしろ居心地の良さを感じているのだと思う。
全体主義が貫徹されている社会は、たしかに、不満分子や反体制派にとっては、息苦しい世界であるのかもしれない。それ以上に、たとえば、体制転覆を企図しているタイプのさらに極端な少数派にとっては、それこそ命に関わる危険な場所であるはずだ。
だが、全国民が一丸となっている前提が共有され、個々の国民同士が相互に締め付け合っている一億総括約筋社会は、多数派に属する人々にとっては、思いのほか安全で、しかも快適な世界であったりする。
そういう社会で暮らす人々は、自分の理想を実現することや、自分の考えを表明して他人にわかってもらうことよりは、むしろ、現実の社会の中で主流を占めている思想に自分の思想を同一化させることに注力することになるのだと思う。
でもって、体制に異を唱える人間を「反逆クール」(←「格好をつけるために反逆のポーズをとっている人々」を揶揄する言葉のようです)みたいな言葉で論評することで、自分たちの正当性を相互確認するわけだ。
民放のW杯番組を見ていると、すでにその種の社会の到来に向けたプロパガンダが始まっている気配を感じて、なんだか索漠たる気持ちになる。
そんな中、とあるツイッターアカウントが
「サヨクはかわいそうだな。自国の代表チームが勝ったことを喜べないんだから。オレはサヨクじゃなくてつくづくよかったぜ」
という感じのツイートを投稿していた。
そのツイートがかなりの数リツイートされているのを見て、私は孤独感に似た気持ちを味わっている。
サヨクだからではない。
「サヨク」が自国の代表チームの勝利を喜ばないはずだと決めつける思考の乱暴さに驚いたからでもあれば、サッカーの勝ち負けに思想のミギヒダリを持ち込む態度に不気味さを感じたからでもある。
実際のところ、どういう人間を「サヨク」と呼ぶのかにもよるが、仮に世間でよく言われている意味の「左翼思想」の持ち主を「サヨク」と呼ぶのであれば、その彼らが日本代表のこの度の勝利を祝福していないということはないと思う。
左翼思想を抱いている人間の中にもサッカーファンはたくさんいる。一方、思想の左右を問わず、ほとんどすべての日本のサッカーファンは日本代表チームの勝利を心から喜んでいる。
当たり前の話だが、自国の代表を応援することと、思想の左右は無関係だ。
してみると、このツイート主の発言は、「左翼思想を持つ人間たちは日本代表チームのこの度の勝利を喜んでいない」という観察結果に基づいた言葉だったのではなくて、むしろ「代表の勝利を心から喜ばない人間をオレは『サヨク』と呼ぶぞ」という一種のマニフェストだったと考えたほうが良いのだろう。
ところで、日本代表のこの度の勝利を喜んでいないサッカーファンは、実際のところ存在するのだろうか。
私は、存在していないと思っている。
サッカーがきらいな一部の人は、日本がきらいだというよりは、サッカーがきらいだという理由で、代表の勝利を喜んでいないかもしれない。
が、それは、サヨクとかいったことがらとは別の話だ。
私はといえば、もちろん跳び上がって喜んだ。
大迫勇也選手のゴールが決まった瞬間には立ち上がってなぜか拳を突き上げていたりもした。
ということは私はどこからどう見ても「サヨク」ではない。
とはいえ、ゴールに跳び上がって、勝利に浮かれ、NHKのアプリで再生を繰り返しては有頂天になってはいても、私がサッカー協会の功績を認めたのかといえば答えはノーだ。冗談ではない。私の喜びは私の喜びだが、私の祝福はなによりもまず選手たちに向けられている。そして、私の中にある感謝の気持ちの一番大きい部分は、はるか遠いヨーロッパの空の下にいるハリルホジッチ監督に向けられている。
開始5分というあわただしい時間帯に、中盤の混線の中から一瞬の空白を突くようにして前線に送りこまれた縦パスを、素早く走り込んだ大迫選手がカラダを張ったキープからシュートに持ち込むことができたのは、彼自身の日頃の鍛錬の結果でもあれば、サッカーの女神のきまぐれでもある。が、より明らかな戦術的偶然として、あのゴールは、ハリルホジッチ前監督の指導の賜物だと思う。
というのも、在任中の2年余りの間、選手たちに一貫して「縦に速いサッカー」を求めたハリルホジッチ監督が、後ろからのパスに強いワントップのストライカーとして最も重用したのが、大迫選手だったからだ。
つまり、W杯の本番で顔を合わせることになる世界の強豪から得点をもぎとるためには、一種のスキを見逃さないカウンターの精度と、常にゴールに直結するパスを狙う強いメンタリティーが必要だという、ハリルホジッチが来日以来執拗に繰り返していた言葉が、そのまま現実化したのが、あの開始6分のPKだったということだ。
あれを「幸運」の一言で片付けてはいけない。
サッカーが戦われている芝の上では、幸運は、それを迎え入れるために訓練を積み重ねた者の上にしか訪れない。われわれのチームが訪れた幸運を得点に変換することができたのは、あらかじめ、幸運を呼び込むに足る訓練を積み重ねていたからだと考えなければならない。
その功労者として、わたくしども日本人は、ハリルホジッチ氏の名前を忘れるべきではない。
さて、W杯は、クラブチームに向けた若手選手の品評会と言われることが多いのだが、別の一面では、「戦術の品評会」という言い方で説明される。ちょうど4年に一度というタイミングが、世界的な戦術の変化の潮流とシンクロしているからだ。
あるクラブチームなり代表チームが、特定の優れた戦術を武器に勝ち進むと、その戦術は、それからしばらくの間、世界の流行になる。
ちょっと前(というよりもずいぶん昔だが)の例で言えば、ヨハン・クライフのいたオランダが持ち込んだ「トータルフットボール」が有名だし、最近の例では、2010年の南アフリカW杯で優勝したスペイン代表チームが体現し、バルセロナFCや、グアルディオラ監督の活躍とともに広まった「ポゼッションサッカー」が一世を風靡している。
詳しい解説はしない。
私自身、他人に解説を垂れるほど十分に理解しているわけではないからだ。
ただ、ある戦術が頂点を極めて流行すると、その戦術を無効化するための別方向の戦術がどこかで案出され、それらのせめぎあいの中でサッカーの戦術が日々変化している。これは私にもわかる。
とはいえ、われわれのような凡眼は、戦術の変化が、実際のチーム戦術として具体的に選手を動かし、その新しい戦術が古い戦術を圧倒しはじめた時になってはじめて、戦術の存在に気づくことになっている。
つまり、われわれは、戦術という実体を「事後的」にしか認識できないわけだ。
監督は、それを、まず自分のアタマの中で立案し、選手を動かす実戦の中で磨き上げる。そして、最終的に、その戦術に沿ってボールを動かすことで、チームに勝利をもたらす。なんと見事な人たちではないか。
将棋でも囲碁でも、すでに打たれた一局について、専門家の解説を参考にしつつ並べ直せば、私のようなヘボにでも、一手一手の意味がなんとなく見えたりはする。
サッカーチームの監督は、プロの碁打ちや将棋指しと同じく、たった一人で実戦に向かって、誰のアドバイスも仰がずに一手一手の指し手を考案している。
実に大変な仕事だと思う。
今回のW杯のゲームを見ていて印象深いのは、集団的な守備戦術が個人の攻撃能力を圧倒していることだ。
結果として、ピッチ上で繰り広げられているのは、カウンターのスピードと精度を競う戦いになっている。
ドイツ対メキシコも、スイス対ブラジルも、アイスランド対アルゼンチンも、圧倒的な戦力を誇る強豪国に対して、堅実な守備と一瞬のカウンターを武器に対峙するチームが善戦ないしは勝利した、サッカー史に残る名勝負だった。
日本代表の対コロンビア戦の1点目に限らず、縦に速いサッカーによる電撃的な得点は、どうやら今大会を象徴する「華」なのである。
今大会に特徴的な傾向として、攻撃陣と守備陣が五分五分の条件で四つに組み合う条件下では、戦術的な洗練度の高い守備陣の方が優位に立つケースが多い。結果として、強豪チームの攻撃陣と中堅チームの守備陣の戦いであっても、守備陣の方が勝ってしまうケースが目立つ。
ということは、マトモにぶつかり合っている限り、どのゲームでも点が入らないスコアレスの展開が続くことになる。
そこで注目されるのがカウンターだ。
カウンターとはつまり、相手の守備陣が守備陣形を整える前に、1本か2本の少ないパスで、時間的には自陣から遅くとも10秒以内でシュートに持ち込む攻撃法で、「攻撃」というよりは「反撃」と呼ぶに近い戦い方だ。別の言い方をするなら、カウンターは、攻めている側ではなくて、攻められている側が突然牙を剥く形の攻撃だということだ。
してみると、このサッカーは、前々回の南アフリカW杯でスペイン代表が優勝して以来王道となった「ポゼッションサッカー」(常にボールを保持し、相手に攻撃を許さないことで勝利の確率を高めるサッカー)の、正反対の戦術ということになる。
そして、その堅守速攻のカウンター志向のサッカーこそは、ハリルホジッチが日本代表の戦術として定着させようとして、最終的に(誰によってなのかは知らないが)拒絶されたところのサッカーでもある。
なんということだろう。
われわれは、追放した人間によって授けられた戦術によって勝利を得たわけだ。
この先、われらが日本代表チームが、順当に勝ち進んで決勝トーナメントに進むことになるのか、それとも敗退することになるのかは、誰にもわからない。
いずれの結果が出るのであれ、私は彼らを応援する。
ただ、協会は祝福しない。
仮にベスト4に進むようなことがあったのだとしても、その結果をもってチームの正当性を認めることもしない。
勝ち負けと正当性は別だ。
応援と愛国心も別だ。
もし仮に、こういう言い方をしたことで、私が「サヨク」なり「反日」なりと呼ばれるのだとしたら、それはしかたのないことなのだろう。
ただ、自国のチームを心から応援しつつそのチームの来歴に不満を抱くことが、祖国への反逆だと本当にそう思う人がいるのだとしたら、その人間こそ「反日」ではないのだろうか。
というのも、真に日本サッカーを愛する愛国サッカーファンは、現状の体制や現状のチームを無条件に応援するよりは、日本サッカーの真の強化のために、協会に苦言を呈することを厭わない人間であるはずだからだ。
なんだか、えらくエモーショナルなお話をしてしまった。ちょっとはずかしい。
でもまあ、仕方がありませんね。
サッカー的にはまるっきりの右翼なので。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
もう、オダジマさんったら、素直じゃないんだから……
小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ました。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。
なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。