まだまだ演劇月間は続く。
前々回の月蝕歌劇団『盲人書簡』、『不思議の國のアリス』に出ていて、長身で美貌が印象的だった森田彩乃さんが、桐朋学園47期ストレートプレイコースの卒業公演に出ると聞いたので見に行った。
学校の卒業公演なんて外部の人は見に行けないのかと思っていたが、結構いろんな人が見に行くという。
知らなかったなー!
チケットも1500円と爆安だ。
場所は六本木の俳優座劇場。
前々回の月蝕歌劇団『盲人書簡』、『不思議の國のアリス』に出ていて、長身で美貌が印象的だった森田彩乃さんが、桐朋学園47期ストレートプレイコースの卒業公演に出ると聞いたので見に行った。
学校の卒業公演なんて外部の人は見に行けないのかと思っていたが、結構いろんな人が見に行くという。
知らなかったなー!
チケットも1500円と爆安だ。
場所は六本木の俳優座劇場。
演目はオリジナル脚本の「美しきものの伝説」。
実は別チームが演じる「ブルーストッキングの女たち」と世界がつながっている。
とりあえず、出る人が多い!
40人ぐらいいる。
設定が工夫されていて、舞台の中に舞台があり、それをぐるりと取り囲む形で舞台上に「客席」が配置されていて、そこに座る「観客」も俳優たちが演じるという形式になっている。
中央の舞台で演じていない俳優は舞台上の客席で舞台を注視する。
「泣き」の演技を見て泣いたり、舞台の上で客席にいる自分のことを陰口で言われて憤慨して立ち上がる、という趣向もある。
時代は大正時代。
この時代は後世から見ると、大正デモクラシー、モダニズム、大正ロマンという言葉とともに、比較的いい時代だったと思われているが、言論人にとっては、苛烈な弾圧と内部での論争に苦しんだ時代だった。
民衆を啓蒙しようとする知識人は、デモクラシーとポピュリズムの相克に悩んでいた。
デモクラシーを推進するからには民衆を信頼しなければならない。
しかし民衆は信頼出来ない。
たやすくファシズムに手を貸すのもまた民衆であるからだ。
登場人物は堺利彦、大杉栄、平塚らいてうのような思想家たちと、島村抱月、中山晋平、松井須磨子ら芸術座の主宰をはじめとする演劇人たちである。
演劇人も思想家どうよう民衆にどう向き合うか、芸術をどう伝えるかという問題を抱えている。
当時は演劇はテレビなみの大衆娯楽であり、また政治と演劇が知識人を取り合うような状況もあったらしい。
いま演劇を勉強している桐朋学園の学生たちじしんが演劇論を戦わせるという、メタ演劇的な趣向が面白い。
また、関東大震災とともに急速に右傾化していく大正時代の日本は、どうしようもなく現代の日本への危惧とつながっている。
3時間以上の演劇だが、登場人物が何回か客席に向かって(第四の壁を破って)自分の思想を説明する場面もあって分かりやすかった。
あと現代のラッパーのようなオッペケペ節の演歌師が客席を練り歩くのが最高。
こういうスタンスの社会的なミュージシャンが現代にもいればいいのになー、などと思った。
大学生の俳優はみんな演技が達者で、老け役は老けていて、色っぽい女性は色っぽく見えて、数分もすると物語の流れに浸って見ることが出来た。
10年以上に渡る物語で、登場人物は思想の問題だけでなく、愛したり分かれたりという男女の問題も持っている。
後半分かれていた男女が再会する場面で、すごくセリフとセリフのあいだに「間」を取っているところがあって良かった。
なにしろ40人の俳優が大量の見せ場をこなす舞台である。
その中の場面で「間」を作るのは、なかなか勇気がいったのではないだろうか。
ごひいきの森田さんは劇中劇の「サロメ」でつかこうへい脚本の「サロメ」を演じた。
「サロメ」は「復活」と並んで芸術座、松井須磨子の当たり芝居であった。
たいそう真面目で、議論中心の演劇の中で、この劇中劇は色彩、動きがあって良かった。
森田さんも色っぽくて良かった。
終盤、40人の俳優が客席に向かってセリフを叫び続ける場面があって、40人の叫び続ける若者と対峙している感覚に鳥肌が立った。
このメンバー、この舞台でなければ演じることが出来ない表現への感動があったのである。
それにしても2年間学んで来たことを1回の舞台で出し切るのは大変だ。
みんな出し切っていたと思う。
見に行って良かった。
今日の舞台に出ていた人がプロの現場に登場して、「あー、あの人桐朋の卒業公演に出てたなあ」と思う日が来るのが楽しみである。
実は別チームが演じる「ブルーストッキングの女たち」と世界がつながっている。
とりあえず、出る人が多い!
40人ぐらいいる。
設定が工夫されていて、舞台の中に舞台があり、それをぐるりと取り囲む形で舞台上に「客席」が配置されていて、そこに座る「観客」も俳優たちが演じるという形式になっている。
中央の舞台で演じていない俳優は舞台上の客席で舞台を注視する。
「泣き」の演技を見て泣いたり、舞台の上で客席にいる自分のことを陰口で言われて憤慨して立ち上がる、という趣向もある。
時代は大正時代。
この時代は後世から見ると、大正デモクラシー、モダニズム、大正ロマンという言葉とともに、比較的いい時代だったと思われているが、言論人にとっては、苛烈な弾圧と内部での論争に苦しんだ時代だった。
民衆を啓蒙しようとする知識人は、デモクラシーとポピュリズムの相克に悩んでいた。
デモクラシーを推進するからには民衆を信頼しなければならない。
しかし民衆は信頼出来ない。
たやすくファシズムに手を貸すのもまた民衆であるからだ。
登場人物は堺利彦、大杉栄、平塚らいてうのような思想家たちと、島村抱月、中山晋平、松井須磨子ら芸術座の主宰をはじめとする演劇人たちである。
演劇人も思想家どうよう民衆にどう向き合うか、芸術をどう伝えるかという問題を抱えている。
当時は演劇はテレビなみの大衆娯楽であり、また政治と演劇が知識人を取り合うような状況もあったらしい。
いま演劇を勉強している桐朋学園の学生たちじしんが演劇論を戦わせるという、メタ演劇的な趣向が面白い。
また、関東大震災とともに急速に右傾化していく大正時代の日本は、どうしようもなく現代の日本への危惧とつながっている。
3時間以上の演劇だが、登場人物が何回か客席に向かって(第四の壁を破って)自分の思想を説明する場面もあって分かりやすかった。
あと現代のラッパーのようなオッペケペ節の演歌師が客席を練り歩くのが最高。
こういうスタンスの社会的なミュージシャンが現代にもいればいいのになー、などと思った。
大学生の俳優はみんな演技が達者で、老け役は老けていて、色っぽい女性は色っぽく見えて、数分もすると物語の流れに浸って見ることが出来た。
10年以上に渡る物語で、登場人物は思想の問題だけでなく、愛したり分かれたりという男女の問題も持っている。
後半分かれていた男女が再会する場面で、すごくセリフとセリフのあいだに「間」を取っているところがあって良かった。
なにしろ40人の俳優が大量の見せ場をこなす舞台である。
その中の場面で「間」を作るのは、なかなか勇気がいったのではないだろうか。
ごひいきの森田さんは劇中劇の「サロメ」でつかこうへい脚本の「サロメ」を演じた。
「サロメ」は「復活」と並んで芸術座、松井須磨子の当たり芝居であった。
たいそう真面目で、議論中心の演劇の中で、この劇中劇は色彩、動きがあって良かった。
森田さんも色っぽくて良かった。
終盤、40人の俳優が客席に向かってセリフを叫び続ける場面があって、40人の叫び続ける若者と対峙している感覚に鳥肌が立った。
このメンバー、この舞台でなければ演じることが出来ない表現への感動があったのである。
それにしても2年間学んで来たことを1回の舞台で出し切るのは大変だ。
みんな出し切っていたと思う。
見に行って良かった。
今日の舞台に出ていた人がプロの現場に登場して、「あー、あの人桐朋の卒業公演に出てたなあ」と思う日が来るのが楽しみである。