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1943年(昭和18年)5月12日、米軍は戦艦3、空母1、重巡3、軽巡3、駆逐艦12という艦隊支... 1943年(昭和18年)5月12日、米軍は戦艦3、空母1、重巡3、軽巡3、駆逐艦12という艦隊支援のもとに、第七師団一万一千人がアッツ島に上陸を開始。孤立した離島に敵の大群を迎え撃つ日本軍は山崎保代陸軍大佐以下二千四百名、全員が死を決意し凄まじい戦いを繰り広げます。 苦闘二週間余、大本営は悪化する南方戦線の戦局打開を優先すべくアッツ島を見捨てることに至ります。 1943年(昭和18年)5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊がわずか29名の生存者を残し全滅いたします。 自分達が見捨てた結果の大敗北の事実、また「全滅」という言葉が国民に与える動揺、これらを隠ぺいし“玉の如くに清く砕け散った”と印象付けようと、「玉砕」という言葉が大本営によって第二次世界大戦の中で最初に報道発表に使われることになります。 「玉砕」という言葉ですが、出典は『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(
2012/11/16 リンク