四方田犬彦と帝国の欲望

以下の文章、あまりにも酷いので批判を書いておく。


『四方田犬彦, 朴裕河を弁護する』
http://parkyuha.org/archives/5161



ただ、かなりの長文であり、その一行ごとに突っ込みどころがあると言っていいぐらいだ。
あまり長い文章を書くのも気が引けるので、ここでは最低限、自分が特に言いたいことだけを書くことにしたい。
僕が一番驚いたのは、3のなかで、朴裕河が「従来の慰安婦神話に突きつけた」重要な視点の一つとして語られている、次の個所だ。

日本軍兵士と慰安婦を犯す/犯されるといった対立関係において見るのではなく、ともに帝国主義に強要された犠牲者であると見なす視点は、今後の歴史研究に新しい倫理的側面を提示することだろう。それは日本帝国主義による強制連行が朝鮮人・中国人にのみ行使されたのではなく、長野県や山形県の農民が村をあげて満洲国開拓に動員された場合にも指摘しうるとする立場に通じている。

たしかに、兵士を含めた日本人にも、国家権力等の犠牲者・被害者という側面はあるだろう。
そうであれば、当事者も、それを論じる者(四方田)も、日本の国家権力を告発する以外ないはずだが、もちろん四方田は(多くの元兵士当事者も)、そんなことはしないのである。
告発する側に回ることが、不利益を生むと考えてるのであろう。
その一方で、この側面を「慰安婦」問題において重要なものだとする考えは、支配する側とされる側、犯す側と犯される側といった、個人間の倫理的非対称性の要素を消し去った時に、はじめて成立するものだ。
四方田は、「新しい倫理的側面」などと言っているが、「新しい教科書」とか、諸々の「新しい」と称するものと同様、これは実際には倫理の否定、没倫理以外のものではない。
そこにその時生きた、兵士と「慰安婦」被害者個々の、倫理的主体としての生存と関係の可能性は、ここで四方田によって(また朴裕河によって)、抹殺されていると言うべきなのだ。
もっと詳しく述べよう。
日本軍兵士個人には、実際にその可能性がどれほどだったかは別にして、理論上は、さまざまな選択の可能性がありえた。慰安所を利用することを拒む可能性、上官の命令に服さない可能性、徴兵を忌避して投獄(もしくは処刑)される可能性、さらにさかのぼれば、軍国主義に徹底して抵抗を貫く可能性、等々。
兵士みずからが、それらの道を選ばなかった事実を、倫理的主体として引き受けるときに、戦争や性暴力の被害者である他者と、同じ地平に共に生きる可能性がはじめて生まれる。
「命令されたから仕方なかった」「衝動があったから犯してしまった」。そういう物言いは、人が他者と共に生きる(生きたとみなす)可能性を、消し去っているのだ。
この消去から、兵士をただ「構造の犠牲者」としてだけ捉え(責任主体としては否定し)、「犯される側」と同列に存在するなどという没倫理的な妄言が出てくるのだ。
ここにあるのは、人間を、他者と倫理的に共存していけるような可能性(力)を持つ存在として認めないという、抑圧的な人間観だ。
そのことは、「慰安婦」とされた女性たちを、状況(「帝国日本」の支配)に「過剰適応」するしかない無力な存在と見なし、何らかの形で「抵抗」する(心理的なものであっても)可能性をもつ主体とは考えようとしない『帝国の慰安婦』の著者の、蔑視的な被害者像と同質のもののように思える。


ところで、2の部分では、四方田は記憶と声を四つの層に分けている。「国家の言説」、「ヴァナキュラーな声」、「(多様かつ雑多な)個人の声」、そしてサバルタンの「沈黙」、この四つだ。
このうち、「国家の言説」についてだが、ここではさきの日韓「合意」が引き合いに出されて、何やらそれに批判的であるかのように錯覚するが、文末まで読むと、実は筆者は「合意」を肯定していて、それを広く定着させるために朴裕河の言説を受け入れよと言っていることが分かるのである。
これは、非常にたちの悪い政治的文章だと思う。
「ヴァナキュラーな声」というのは、韓国の運動圏の硬直したナショナリズムを批判する表現であるかのように書かれているが、その実は、筆者四方田犬彦の、日本人としての、また「比較文学者」なるものとしての特権性を保持するために持ち出された有名無実の像といったところだと思う。
実際には、挺対協など現在の韓国のラディカルな社会運動が目指しているものは、過去も現在もその体質を変えていない日本の帝国主義的な暴力による被害者を支援することを通して、ナショナリズムなど自国の国家的・社会的な暴力をも含む現代世界のあらゆる性暴力・軍事的暴力の被害者に寄り添おうとする、普遍的な抵抗のあり方だと思う。
安倍晋三と同質の、日本「帝国」復権への愚かな欲望(それこそが、彼の「比較文学」の実態だ)にとりつかれて、普遍性とは縁もゆかりもない場所をいつまでもうろついている四方田犬彦には、抑圧と被害を受けてきた側の、そんな抵抗のあり方など、想像も出来ないのだ。
彼にとって、そうした告発の声が「ヴァナキュラーな」ものにしか思えないのは、それが彼の欲望を保障する、日本人として、また文学者としての特権性を揺るがす、不穏な響きであるからだ。
これは、安倍をはじめ、右派・保守派の心性と別のものではない。
逆に、彼が、秩序付けられることで排除される多様な「個人の声」と呼んでいるものは、彼の現代日本人としての妄想的な欲望(帝国復興)を是認してくれるような、都合のよい他者の声の表象である。彼には、元「慰安婦」とどれだけの出会いを重ねても、そこに『日本にはやっぱり戦争に勝ってほしかったと繰り返し語り、美空ひばりと小林旭がいかに素晴らしいかを語』る、自分にとって居心地のよい被害者像しか見いだせないのだ。
そうした部分を否応なく含んだ被害者の生の総体を想像し、向き合うという倫理的・主体的な行為が、四方田から生まれることはない。彼はむしろ、そういう居心地の悪い、自分の特権的な妄想を揺るがすような被害者の声と存在の「力」を、自分の意識から払拭したいがためだけに、「ナヌムの家」に向かったのだからである。
彼は、何日そこに居ようと、ただ自分の欲望の求める像としか出会わなかったのだ。
なんのために「サバルタン」の「沈黙」なるもの(岸信介にならって「声なき声」とでも正直に書けばいいと思うが)が持ち出されているのかも、推して知るべしである。


かつて、8、90年代にポストモダンブームをけん引した一人だった四方田犬彦が、今や安倍晋三に体現される日本帝国復興の妄想的欲望の提灯持ちのようになっているのには、現代日本の歴史の真の姿の無残さを見せつけられるようで、なんとも言えない気分になる。
正直、彼の愛読者でもあった者として、わがことのように情けなくて仕方がない。
この四方田の文章の末尾にひっかけて、こう言いたいほどだ。
水に落ちた犬を叩くのはかわいそうだが、地に墜ちた犬彦は滅多打ちにしてしまえ、と。


挺対協などの韓国の社会運動について付言しておきたい。
それが、たしかにある時期まで、あるいは現在でもまだ幾分かは、ナショナリズムなどの性格を有してきたことは事実だろうが、その根本的な原因は、「慰安婦」問題や、他の歴史的問題の加害当事者である日本国と日本社会が、根本的にその体質を改めることがなかったことにある。
被害者たちと運動は、最終的には呪縛でもあるはずの自国のナショナリズムによって、心情的あるいは戦略的に身を守らざるを得ないほどに、「日本」という暴力に、一貫してさらされてきたのだ。
四方田犬彦のような没倫理的な学者、言論人も、その暴力のまぎれもない一部である。
だが、現在の運動の基本的な性格は、そうした自己自身との葛藤を経て、先に書いたような「強者の暴力」に対する普遍的な抵抗を目指す位置に立っていると、僕は考えている。
日本の社会運動、とりわけ「本土」のそれが、その位置に立てているかどうか、僕には疑問である。
いわゆる「少女像」も、四方田が贅言を弄して非難しているような国民的表象などではなく、現代世界において最も被害を受けやすい性暴力の被害当事者のイメージを、象徴的に表現したものではないかと思う。元「慰安婦」の人たちの当時の平均年齢云々というのは、あまりにも浅薄な議論である。
最も弱いものに被害を集中的に背負わせる、攻撃を集中させるというのが、資本主義の論理というものでもあり、また「慰安婦」問題を引き起こして、それをいまだに反省することもない社会の性質でもあるということは、このところの「女子高生バッシング」などを見ていても、よく分かるだろう。
少女や子どもといった存在は、むしろ私たち自身の、もっとも被害を受けやすく、それゆえに、もっとも守られるべきである部分を表現してもいる。
それは、暴力を拒む人間同士、人間と他の生命との関係性への、希望の象徴のようなものだ。
「少女像」があらわしているのは、本質的には、そういう普遍的な願いなのだ。