『柳田國男対談集』


いま、ちくま学芸文庫の『柳田國男対談集』を読んでるのだが、立場の大枠は変わらないものの、敗戦直後の発言より戦前・戦中のものの方が、どこか前向きな気がするのは、ちょっと不思議だ。戦後、急速に進むと考えられていた改革によって、社会を維持する大事なものが破壊されるという危機感が強かったのかもしれない。
だが同時に、そこには、戦争や植民地支配といったことの責任を(柳田個人はともかくとして)国家そのものがとらなかったことが、反映してるのではないか、とも思う。そこから来る、後ろめたさのようなもの。そういえば、今年出た川田順造氏の著作の中では、柳田と戦後の靖国の関係が語られているらしい。
戦時中(昭和18年)の対談の中では、今のインドネシアなどの日本の支配地域についての民俗学・民族学的研究ということについて、柳田はこんなふうに言っている。

私らの同胞にたいして抱いている熱意というものを、すぐに転用してちがった人種に持って行くということは困難なんです。われわれはまだ彼らの霊魂には触れていないからね。(p084)

このように言う柳田は、靖国に、「ちがった人種」の「霊魂」も強制的に合祀されたというようなことを、どう考えていたのだろうか。


それはともかく、柳田から、今日の私たちが学ぶべき重要なことの一つは、その民俗学の、近代(西洋中心主義)批判的、民衆的な性格であろうと思う。
それは、柳田の中では、田山花袋らの自然主義文学運動に通じるものと考えられていたようだ。敗戦直後の中野重治との対談などでは、花袋の切り開いた文学が、ある種の偏りを脱することが出来ず(その偏りは、柳田にも共通する、ナショナリズムのある種の限界だったのではないかと、私は思うのだが)、実を結ばなかったことを確認しながら、次のように次代への展望を述べている。

だから、たとえば貴族でも、あるいは労働している人たちも、みんなが小説を書くようにならないといけないですね。(p113)


この対談集は、今こそ広く読まれるべき本だと思う。