久野収のファシズム論・その1

最近、哲学者久野収が残したファシズム関連の文章をいくつか読んだ。
安倍政権が議会で絶対多数を握ってしまった今になってこんなことを書くのに、どれほどの意味があるか分からないのだが、ともかくそのなかで、とくに印象に残ったことを書いておきたい。


読んだものの一つは、岩波現代文庫の『久野収セレクション』に入っている、「ファシズムの価値意識」という1957年の論考。


久野は後に、ライヒの『階級意識とは何か』を翻訳することになるのだが、ここではそのライヒなどの分析を援用しながら、ドイツのファシズムを考察している。
前半に書いてあることは、なぜ社会民主党や共産党のような左翼勢力が大衆を味方につけることが出来ず、ナチスの前に敗北していったかという、いわば左翼への内在的な批判が重きを占めていて、これはこれで重要なのだが、その点は後で触れることもあると思うので、ここでは後半部分の要点を紹介しておきたい。
それは、この論文のタイトルになっている、ファシズムを大衆が支持する場合の基盤になる価値意識はどういうものか、ということだ。
久野は、当時の大衆の、旧来のドイツ社会のあり方にも失望し、一方でワイマールの民主主義やソ連型の国際共産主義にも失望した、行き場のない精神状態を描いた後、次のように書く。

ヒトラーはこの要求にこたえ、不平、不満、不評の対象であれば、何にでも反対する無責任きわまる政綱をつくりあげ、ナショナリズムを生かした社会主義、社会主義を生かしたナショナリズムというスローガンで国民大衆を操縦したのである。(p169)


久野は、これに対して左翼勢力に欠けていたのは、大衆の政治心理を分析してそれに働きかけるという態度だったと書いている。
その左翼に欠けていたもののすべてを、ナチスは熟知していた。

しかし、ナチスの歴史を少しでもくわしくしらべたものには、ヒトラーの成功の秘密、マス組織化の秘密は、ヒトラーの中ではなく、かえってマスの中にあることが判明する。(中略)ナチスのデマゴギーをデマゴギーと感ぜしめなかったのは、中産階級を中心とする大衆の内心に、このデマゴギーに共感する要素がひしめいていたからである。だからこそナチスは、下層中産階級の大衆心理を特徴づけるあらゆる矛盾を暴露しているのである。ナチスの価値意識は、独占資本主義的帝国主義時代におけるマス化した中産階級の価値意識の拡大再生産にほかならない。(p185〜186)


ヒトラーは、マス化した中産階級の価値意識、いわば階級的な欲望(幻想)のあり方を鷲掴みにしたということになる。
そして、ナチスのイデオロギーの秘密は、次の点にあるとされる。

経済的土台の窮乏化が、かならずしも自動的に現実のリアリスティックな認識を生みだすとはかぎらない。イデオロギーは、フラストレイションのとりもどし、エンジョイメントの役割を演じる。ナチスのイデオロギーが、例外なく実証的経験内容によってテストすることのできないエモーショナルな側面を強みとするのは、この理由による。こうしてイデオロギーは、アイデアからイコンになり、やがてイドラになりはてるのである。だから、このイデオロギーをたおすためには、正しい観念が正しい観念にとどまっていては成功しない。それは、生きた人間を動かすイコンにまで具体化しなければならない。(p186)


イコンとかイドラとかいうのが、よく分からないが、言ってることは何となく分かる。
今の状況にあてはめて言えば、アベノミクスやハシズムが「豊かさ」を実際にもたらしてくれるかどうかよりも、それが「豊かさの幻想」を提供してくれるかどうかの方が、大衆の欲望にとっては肝要だ、ということになろうか。
当時のマルクス主義(左翼)の経済決定論的な考え方、政治心理学を軽視した考え方は、大衆が経済的窮乏化に直面して、かえってユートピアを欲望し、それを満たしてくれるようなイデオロギーにこそ引かれていくという、このような逆説的な事態を把握することが出来なかったのである。
そしてもちろん、それに対する有効な手を打つことが出来なかった。
ナチスに対抗するためには、ある意味ではナチスと同様に、大衆の情動の部分に訴えていく必要がある。ここで言われてるのは、そのことではないかと思う。

ナチスの主張したゲマインシャフトの理念や権威的指導者のイデオロギーは、すべて例外なく現実の反映であると同時に、現実のユートピア化を意味している。(p187)


ナチスのイデオロギーの特色は、未来にユートピアを描き出してそこに向かって人々を動員するものというより、困窮しているはずの現実そのものをユートピア化する、いわば現実感覚を麻痺させるという点にある。
その一例として、ヒトラーが体現したような権威的指導者の像は、困窮し自信を失っていた当時のドイツの中産階級の男たちの家父長的な意識に訴えかけ、それを理想化(ユートピア化)する契機を提供したのである。

彼らはこの権威に自己を同化さすことによって、経済的条件のみじめさのコンペンセイションをえる。(p188)


ところで、以上のことと重なるかどうか分からないが、この「現実のユートピア化」という言葉を読んで思い出したことがあるので、ついでに書いておきたい。
20年近くも前になるか、バイト先の友達で非常に仲の良かった青年が居た。彼は、周囲の人間関係や権力関係に関しては、並はずれて明晰な分析をするのだが、ただ、僕からすると、ちょっと変わったところがあった。
彼はプロレスの熱心なファンだったが、プロレスに「台本」があるということをまったく考えないらしいのである。それが虚構ではなく、まったくのリアルだということは、疑う余地のないことだと思っているようだった。
僕は、他の事柄(特に身の回りの関係性)についての彼の透徹した洞察力と比して、その盲信との差異がどうにも理解しがたかったが、いま考えると、彼がプロレスの世界に見ていたのは、「純粋な戦う男同士の世界」のような一種の自己の理想像で、彼はその世界を信じ没入することで、日々の現実のなかで満たされない何かを享受していたのだろうと思う。
この場合、「現実がこのようであって欲しい」という願望や欲望が、現実に対する認識の領域にまで浸透してきて、それを覆ってしまっているように思える。そうなるのは、メディア産業を通して伝えられるプロレスの世界のイメージが、彼が欠如を感じ、満たされ安定するために必要なものを、適切に提供してくれるからだろう。
そこには、現在メディアやネットで流されている「愛国」の観念やイメージの役割に、似通ったものが感じられないだろうか。
それは、たんに現実のなかに一つのエンジョイメント出来る場所(つまり趣味的な空間)を設えておくということではない。その「場所」には、情動的な意味で、彼の存在の安定を左右するほどの価値づけがなされているのだから、そこを中心にして(土台として)、いわば世界認識そのものが仮想的(ユートピア的)なものに変質してしまう、少なくともその可能性を孕んでしまっていると考えられる。
実は、身の回りの関係性についての、その友人の繊細で明晰な認識は、この仮想性の土台の上に乗っていたのだと思う。現実を、情動的な意味では根本的にユートピア的なものだと感じることと引き換えにして、周囲の世界への認識は、その精密さと親密さを獲得していたのではないか?
もし、この土台が揺るがされるとき、彼にはそれは自己と世界の安定への絶大な脅威と感じられるはずである。だから彼は、その土台が虚構である(真実でない)可能性を、決して考慮しようとしなかったのだろう。
いわばメディアによって流通する虚構によって、そういう人は世界の安定のカギを握られていることになる。
この虚構を守るために、現実の世界と世界への認識とを否定してしまう危険性が、そこには伏在しているのではないかと思えるのだ。


久野収のファシズム論の二つ目については、また次回にでも書こう。