貧者のゲーテッド・コミュニティ

酒井隆史の『自由論』のなかに、「<セキュリティ>の上昇」という文章があって、そのなかでいわゆるゲーテッド・コミュニティの三つのタイプの区別が紹介されている(ブレイクリーとスナイダーという人たちによる)。


そのひとつは「ライフスタイル・ゲーテッド・コミュニティ」と呼ばれるもので、富裕な人たちを対象に、特定の趣味や年齢を共有する消費者向けにデザインされたコミュニティで、70年代から発展してきたもの。ふたつめは、「特権的ゲーテッド・コミュニティ」といって、通常ゲーテッド・コミュニティという言葉でイメージされるような、高度なセキュリティ機能をもった壁やフェンスによって周囲から隔てられた居住コミュニティである。
この両者の違いは、前者は後者ほど、外部の者の排除があからさまでなく、セキュリティということが前面に出ていないということだろうか。


ぼくがとくに印象的だったのは、三つめのタイプとしてあげられている「セキュリティゾーン・ゲーテッド・コミュニティ」と呼ばれているものだ。
近年、もっとも急速に増えているのがこのタイプだそうで、その特徴は住民自身が犯罪や無秩序への恐怖から自らの居住地区の境界を明確にし、アクセスを制限しようとするところにあるという。

ここではもはや階層は無関係である。最上級階層から最低の階層を横断して、住民たちは砦を建築する。ジョック・ヤングによれば、貧困層によって形成されるバリアは、富裕層によるそれと同じく差別・選別的な場合もあるが、ほとんどの場合、防衛的排除と見なしうる。(p272)


この「防衛的排除」という概念は興味深い。
貧しい人たちや社会的な少数者の人たち(例として、ロンドンにおけるクルド人や、ハシド派のユダヤ人のコミュニティがあげられている)が形成するコミュニティにおける「防衛」の感覚は、比較的富裕な人たちのそれと同様に、「過剰に恐怖をあおられた結果」と見なす意見もあるだろうが、この人たちの恐怖の実感は批判することが難しい気がする。
どちらも「排除」なのだが、「排除」という概念を、丁寧に腑分けしていく必要があるのではないか。


犯罪だけでなく、たとえば「暴動」のようなものが起きたときに、一番大きな脅威にさらされるのは、ロス暴動などの例をみても、やはりマイノリティの人たちだろう。また、女性や子どもがさらされる恐怖の感覚は、それ自体物理的な場合があるので、「過剰防御」という批判をするわけにもいかない。
要するに、啓蒙だけではどうにもならない部分がある。


ニューヨークのあの「9・11」のときに、世界貿易センタービルのすぐ近くに住んでいたベトナム系の女性が、事件の衝撃から立ち直ってすぐさま始めた行動が、護身術を教える道場に通うことだった、というテレビ番組の場面を思い出す。
あのセキュリティの感覚は、たとえばブッシュやニューヨーク市長のいう「セキュリティ」とは異なるはずだ。
でもそれも、差異が消し去られ、政治的に利用されていく。


それから、ここまで差し迫ったものでなくても、よく知らない人のアクセスを制限したいとか、趣味があう人同士で気兼ねなく話したいという感覚は、今の社会で生きていて普通にあるものだろう。
とくにいろいろなマイノリティーの人にとっては、どうしてもそういうことが不可欠な場合があるはずだ。そういうものまで「閉鎖的」だと非難するわけにはいかない。
ある種の閉鎖性がなければ安心して幸福に生きられない人たちが大勢いるというのが、いまの社会の現実だと思う。


自由論―現在性の系譜学

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