「自由」競争とは

パリーグのペナントレースはまだ始まったばかりなのでなんともいえないが、やはりチーム間の戦力差がありすぎるみたいだ。開幕前、「楽天は百敗するか?」が予想のポイントになっていたが、ほんとにそんな感じだ。
前から不思議に思ってるのだが、プロ野球という業界は、6球団なら6球団、12球団なら12球団でひとつの企業という側面があると思うのだが、戦力をある程度均等にして試合やペナントレースを面白くし、お客さんを増やそうとかいう発想は経営者たちに無いのだろうか?


競馬でも、「クラス分け」といって、大体力量が同じぐらいの馬だけでレースをするような仕組みを作って、お客さんを楽しませるように工夫している。そういうことを考えないのか?
ある球団がどれだけ戦力を強くしても、それだけでは収益増につながらないことは、これまでの無数の例が明らかにしている。
日本の野球はこれまで巨人中心で、「巨人が強くないと客が喜ばない」ということで、営業上の観点から巨人に選手を集中させていったのだろうが、そうしたことで実際にはお客さんは増えてないだろう。
そういうことを度外視して、戦力が極端に不均衡な状態でペナントレースをやらせてるというのは、ひょっとして、新規勢力に対する「見せしめ」的な意図があるのではないかと邪推するのだが、子どもたちがああいう試合を見ていてどう思うか?こういう大人の料簡の狭い姿を見せていて、「夢を持て」とかいわれても、うそ寒いだけではないか。


こういう一見ドライ、実は姑息なやり方を見てると、政治家や財界のリーダーたちの言う「自由競争」という決まり文句のことを思い出す。
どうも、「自由競争」という概念がインチキな使われ方をしている気がするのだ。旧態依然たるものを守るために「自由競争」という口実が使われている。そんなふうに感じる。
一般的な話、本来の「自由競争」というのは、単純な弱肉強食ということではなく、競争して勝利した者が責任を持って敗者の面倒を見るということが暗黙に含まれてはじめて成立するものだと思う。戦国時代でも、勝った武将はぶんどった城や領地の管理を引き受けたわけだ。富を独り占めしただけでなく、その時代なりの社会的責任を引き受けている。その要素を含まない「自由競争」とは、人間が「幼児化」してるだけなのではないか。
ぼく自身も含めて、みんながそのインチキな「自由競争」のイデオロギーを内面化して生きているのではないか、とも思う。自分の利益や安楽だけを求め、他人のことを考慮しない生き方。それを、自分の意志で選択していたように感じている。だが、みんなが「幼児」になることを望んでいるのは、本当は誰か。
いま言われている「自由競争」の「自由」とは、偉い人たちが何か別のものを守るための口実、「偽りの自由」なのではないか、と思う。