現代では趣味が多様化して分散しただけで、この“ゲートボールに相当するもの”がなくなったわけではない。
“ゲートボールに相当するもの”とは「若いころからやり続けていたわけでも、やりたいとも思っていなかった活動」のこと。
で、年寄りはなぜ“ゲートボールに相当するもの”を求めるかというと「活力と実現可能性のギャップが年寄りほど生じやすい」から。
どうしても身体的には衰えているので若者に交じってスポーツを1から始めるのは難しい。
その点、若者がいないから自然と老人ばかりで寄り集まることができて、無理せずできるスポーツとしてゲートボールは最適だったのだろう。
では、そもそもそんな活力がなぜ湧いてくるのかって話になる。
少し前まで、俺は「年寄りが逆張りで無理してるだけ」だと思ってた。
でも最近、ひっかかりニーチェって番組で、腹落ちした話があって。
確か、永野が「老いていこうとするのではなく、老いに抗うことこそ自然」みたいなこと言ってて、なるほどなと。
年寄りになったからこそ何らかの活動的なことをやって、周りに「若いもんにはまだまだ負けん!」みたいなスタンスをとる。
これまで俺は「ゲートボール理論」を冷笑気味な文脈で用いることが多かった。
「あなた活力に満ち溢れてます~みたいな感じ出してますけど、それって年寄りがゲートボールやってるようなもんですよ」ってな具合で。
ホッテントリで老いに関する内容の記事とかに「俺は年とってからも元気ですけどね」みたいなブコメが必ず湧いてきて、それに結構な星がついてたりして当初はなんだかなあって思ってた。
老いれば活力は無くなっていくのは生物学的にも明らかなのに、いい年こいて逆張り根性こじらせてんじゃねえぞと、百歩譲って本当だとしてもイレギュラーでしかないぞと。
老いに抗おうとすることで湧いてくる活力、それこそ自然の成り行きだったんだ。
そう考えると、他の年寄りが無理してそうに見える時も生暖かい目で見れるし、これからどんどん老いていくだけの己も気が楽になってくるのではないか。