「共感能力は人間の決定的な条件」というのは、映画ブレードランナーの原作、フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(Philip K. Dick, Do Androids Dream of Electric Sheep?, (1968) )の重要なモチーフだった。
人間そっくりにつくられ、一見すると見分けがつかないアンドロイドを人間から見分けるテスト、それは共感能力を測定するテストだ。社会の様々な問題に対して「人間として適切な反射速度で」共感できる力、あるいは共感を引き起こさせるマシンに入って共感を感じる力が、人間の条件ということになっている。だがその中でも「宇宙船の中など極めて人工的な環境で育てられた場合、人間であっても(アンドロイドのように)高い共感力を育てきれないケースがあり得るのではないか?」といった疑問は提示されていた。あるいは「共感能力がないというだけの理由でアンドロイドは人間より劣ったものとされるべきなのか?」とも。結局作品の最後で、人間が熱中していた「共感を引き起こさせるマシン」はアンドロイドが作ったものであり、主人公の警官がかわいがっていた羊も作り物だということが判明し、一方人間たちは自らの感情を淡々とマシンでコントロールすることに慣れきって、警官は疲れ果てて眠ってしまう。作中から「ノーマル」な「共感能力」を持った存在が全て消え去ったところで作品は幕を閉じる。
「共感能力は人間の重要な条件だ」という前提のもと、共感能力を失った人間たちが生きる絶望的な未来(核戦争後の荒れ果てた世界)をディックは詩情を込めて描いて見せた。すなわち、どちらかといえば感情を失ったアンドロイドの方が「生存適者」であるという世界の中で、人間は人間であり得るのかという問い。だがそれを笑えるほど立派な未来に我々が生きているのかどうか。
思想良心の自由が平然と侵され、ある考え方生き方を強制されるような社会は、「共感能力」を必要としない荒れ果てた世界だ。だがそんな未来はそれほど遠くないように感じられる。一方、世の中で幅を効かせているのはまさにその「共感能力」を失ったようにしか見えない、アンドロイドのような大人達だ。そして、そんな風に感じてしまう自分自身もまた、リック・デッカード(主人公の警官)のように、自分自身こそがアンドロイドのように感じられ作り物の中にリアルな生と限りない慰めを感じて、そして疲れ果てて眠るしかない生を生きているのではないか。
何かが間違っている。
何かが間違っているのでなくてはならない。
ふと気がつくと、そんなフレーズを呟いているような、そんな今日この頃。
みなさんはいかがお過ごしですか?
「共感能力」というのがものすごい曖昧で何のことを言ってるのかわからない。 脳科学的に説明できるのか。 生物学的に説明できるのか。 社会学的に説明できるのか。 文学的に説明で...
脳科学的にはミラーニューロンがあるね。 猿でも自己犠牲的な行動は行われる。 これは、社会的に、自分を犠牲にしても相手を助けることが将来的な見返りにつながるとわかっている...