1966年14歳の夏、急行瀬戸で姫路へ行ったことはあっても、そこは母の生家なので
旅をした実感はなかった。
その翌年中学三年になる春休み、上野発の夜行列車で軽井沢へ行ったのが初めての一人
旅になった。
初めての一人
旅になぜ軽井沢にしたかと言えば、堀辰雄の風立ちぬを読んだからだし、中学一年の時小学校時代の担任の同窓会で西湖と朝霧高原でオリエンテーリングで高原の清々しさが忘れられないからだった。
ということで軽井沢といってもハイキングで、駅前から
浅間山麓の峰の茶屋を経て長野原方面へ少し行ったのを往復しただけだった。
軽井沢駅に着いたのが夜明け前の2:52だったのを今でも覚えてるのは不思議だが、軽井沢着の信越本線下り最終列車で待合室の石炭ストーブは消されほのかな暖かさが残ってても寒くてしかたなかった。
駅隣には交番があるものの誰もいないのにストーブの上にはヤカンがかけられ湯気が上がってるのに引かれ暖まってると、巡査二人が戻って来て、こんな夜中に子供一人でなにをしてると聞かれた。
いや、聞かれたと言うより、きつく詰問をされた挙句追い出されてしまった。
そんな自分を見るに見かねた夜泣き蕎麦の主がすぐそばの宿に掛け合ってやろうと言うが、明け方の三時間ほどを待つしかないと断り蕎麦を食べた。
この当時駅の立ち食い蕎麦ができ始めかけ蕎麦が30円だったが、この夜泣き蕎麦は80円もしたが少しでも寒さをしのぎたかったし、親切な主に少しでももうけさせたい思いで食べた後はアセチレンガスの炎に手をかざすも、軽井沢の夜気をいやと言うほど感じさせられた。
夜が白み始めたのに歩き出し旧軽井沢を抜け三笠ホテルを過ぎいよいよ山道になった頃は朝日が高くなってて、初めて見る
浅間山はどんな感じなのかと胸が膨らんでた。
とその時シェパードがいるのに気づいた。
三笠浄水場と書かれてる門柱がありそこで飼われてるのだろう。
かなり大きなシェパードに噛まれでもしたら大変だとよけて行くのに、後を追って来るのが怖いのに駆ければなおさら追って来て噛まれるかも知れない。
そんな思いでついて来るのを気にしながら歩いてると、追い越して行くのにほっとしたが少し先で座ってる。
来るなよと思いながら歩いてるとまた先で座ってる。
今思えば、噛むどころか見知らぬ者が珍しかったのだろう。
それだけでなくこちらの行き先を知ってか道案内してくれてたのだと。
中堅ハチ公のような犬とは言わないものの、先導しながら峰の茶屋はもっと先だと言ってたのかも知れない。
小瀬温泉を過ぎると炭焼き小屋があり見晴らしがよくなり
浅間山が見えた。
白糸の滝は高さは低く名前の通り糸状の滝で薄暗い中白糸のように見えた。
そこから急な坂を登って行き峰の茶屋に着いたのは10時頃だったか。
青空の下小さな茶屋があり牛乳を買い持参してたあんパンを食べた。
浅間山を見ながら鬼押し出しまで行きたいが、そこまで行って帰る自信がなく少しばかり足を延ばして引き返した。
帰宅したのは夕方晩くで疲れ果てて寝込んだ。
家人が晩ご飯だと言っても寝たままだったらしく、起きると死んだみたいに寝てたと言われた。
一昼夜半、つまり寝てから二日後の昼に起きたのだから、死んだのではないかと心配させたのも無理ない。
峰の茶屋からの帰りは歩きながら寝てたというか意識朦朧としてて、白糸の滝ハイランドウェイの土壁に何度かぶつかったりしてた。
夜汽車に乗りほとんど寝ずに歩いた距離は30キロ余りで、そんな長距離を歩くのは初めてだったし、死んだように寝込んだのは無理なかった。
同窓会で行った朝霧高原でクラスの仲がいいのとテント泊し、夜はキャンプファイヤーでドボルザーク新世界の一節
遠き山に日は落ちてを皆で歌い、朝は牧場の草いきれが新鮮だったのが忘れられず、その秋奥多摩の棒の峰山に登った。
そんなことで山への憧れが強く、ハイキング程度で登れる
浅間山を見たくなっての軽井沢行きだった。
それは
旅とは似つかない物だろうが、帰りの汽車に乗るとき駅前にあったウッドデッキの店で浅間煎餅を土産にした。
本来なら横川駅で峠の釜めしを買うのが筋だろうが、クリームを炭酸煎餅で挟んだのがどんな味なのか食べたくてしょうがなかったが、中学三年の秋写真部後輩の父親の勤務先の保養所が中軽井沢にあったことでまた峰の茶屋から軽井沢へ行った時に食べた。
その翌年春には蔵王と妙高高原を選んだ
周遊券を作り、教育実習生の故郷山形県の余目へ行った。
その際羽黒山を登ったし酒田の本間美術館を案内してくれた帰りには湯野浜温泉へ連れて行ってくれた。
その時海辺を歩いてる老婦と孫の三人連れを撮ったが、初めて上手く撮れたシルエット写真を中学時代写真部の顧問をしてくれてた先生に自慢したかったものだ。
日当たりが心地よかったが
鼻曲山を目指してると頂上近くに雪が積もってたが、溶けてるところがいくつかあり温泉の匂いがしたのは近くに
霧積温泉があるからだろう。
そこから
八ヶ岳連峰が見えたのに感動し、いつか登ると決めたものの、登ったのは二十歳を過ぎてからった。
留夫山へ下って行くと雪が深くなり膝まで潜りながら熊野神社の茶屋に着くと、冬眠から覚めた熊がうろついてるのに会わなかったかと言われびっくり。
名物の力持ちを食べ離山の麓にある
ユースホステルに着くと泊り客は大学生のグループとほんの数人だけだったが、 ペアレントを囲んでのオリエンテーリングで知らない同士でも仲良くなれたし、二段ベッドで同室だった大学生に
周遊券のことを話すと格安
旅行をできてよかったと喜んでくれた。
自分の
旅行はこうした山がらみで始まったが、二十代では仕事の関係で関東甲信越に出張することが多かった。
小学生時代の担任が地理の教え方が上手く、全国の山地や山脈に河川とか港に湾などを覚えると、教室の壁に折り紙をリングにして繋ぎ合わせたのが増えるごとに相撲の番付同様格上げされるのが楽しくいろんな地名などを覚えたものだ。
そんな教え方が巧みなのにつられ各地の名産特産などを覚えたし、今でも白地図があるなら一都一道二府四十三県すべてを言える。
中学一年の時ホームルームで、担任教師から昨夜の
新日本紀行を見た者がいるかと聞くので挙手すると、担任が驚いたのと同時にクラスの皆が自分を見つめた。
なぜか?
新日本紀行は日本各地の気候風土を紹介する番組で、今のような行った先でグルメを味わったりアクティビティを楽しむうような娯楽番組とは全く違うし、昭和四十年初頭の中学生がそんなある種教養番組を見るのは少なかったのだろう。
新日本紀行だけでなく近鉄提供の真珠の小箱や学校へ行くまえは明るい農村や時には明るい漁村を見ては、いい所だ行きたいと思ってた。
三十代半ばになると多忙な仕事に追われ好きな山登りも旅に行くこともあまりなかった反動か、四十代になれば仕事はさほど忙しくなく休みたい時に休めたのを機に北は青森と北海道へ、西は瀬戸内海へ北は長野の北國街道へと旅をした。
観光でなくただ通り過ぎただけのところもあるが、行ってないのは沖縄と高知に徳島県だけ。
そんななかでいちばん多く行ったのは山梨県で、中学時代に田舎の叔母が来て昇仙峡へ車で連れて行ってくれた。
まだ中央高速ができるまえで上野原あたりで休憩した時、道志山塊を覆う雲海が見えたのに感動させられたし前述した朝霧高原とのこととかで山への憧れが強くなって行った。
それなのに四十代初めの頃雲取山に登ったのが最後で、今では山に登れないものの北岳や
八ヶ岳に奥秩父を何度も登ってたことを思い出すも、五十代半ばで猫の魅力に惹かれ、
旅行すると言えばべ猫がらみで熱海沖の初島や尾道とか、猫がいる宿の湯段温泉は時雨庵には一年で五回も泊まった。
房総の勝浦とか銚子漁港には猫撮りに行ってるし、秩父の番場通り界隈にも多くの猫がいたのを撮りに行ってた。
それも時を経るにつれ撮りに行ってた猫はどんどん減っていき、今はただ単に温泉でのんびりするような旅をしたくなってる。
それなのにインバウンドの悪影響か諸物価高騰のあおりなのか、熱海で定宿にしてたのが二倍近い料金になってる。
そんななか山梨県の山間の宿は昔ながらの民宿のよさが評判だし、イノブタ鍋を食べたいと思ってしまうが寒さに弱くなってる今でなく、桜が咲く頃に行って見ようかと思ってる。
旅は行った時だけでなく、終わってからいろんなことを思うことがありそれが楽しい。
写真を撮るのが趣味で、そんなことをこのブログで記事にもしてる。
旅という字を分解すると、人という字が四つ集まってて元は軍団を表してたとも言われる。
それはともかくほとんどが一人で旅して来たのは写真撮影が趣味なので、同行者がいたのでは思いどおりに撮影できないからだ。
そんな旅先で独り見る光景をどう切り取ろうかと考えたり、宿に行けば風呂に浸かりビールを飲みながらの夕食の美味さがなんとも言えない。
そんな旅も二年程遠ざかってるのだが・・・
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