1978
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「サーティース・TS19」の記事における「1978」の解説
1978年シーズン、サーティースはブランビラを残留させたが、もう1人はビンダーに代わってイギリス人ドライバーのルパート・キーガンが起用された。開幕戦のアルゼンチンGPでブランビラは18位となり、キーガンはオーバーヒートのためリタイアとなった。ブラジルGPではブランビラが予選落ちし、キーガンはアクシデントのためリタイアとなった。南アフリカGPではブランビラが12位、キーガンはエンジントラブルのためリタイアとなった。アメリカ西GPでブランビラはトランスミッションのトラブルでリタイアし、キーガンは予選22位となったものの、プラクティスでの事故のためスタートできなかった。モナコGPでブランビラは新型のTS20をドライブしたが、1台しか完成していなかったためキーガンはTS19を引き続いて使用し、トランスミッションのトラブルでリタイアとなった。ベルギーGPでもキーガンはTS19を使用、予選落ちした。TS19はこれが最後のレースとなり、次戦からは2台のTS20が投入された。チームはこの年、TS20で1ポイントしか獲得できなかった。シーズン終了後、チームは資金を十分に集めることができず、1979年用マシンが完成していたにも関わらず翌年参戦はできなかった。チームはその後オーロラシリーズ(旧F5000 )で数戦戦った後、解散した。
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1978
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『悪魔のいけにえ』 (1974)と『サランドラ』 (1977)のドライブインの成功に乗じた『The Toolbox Murders』は、迅速かつ安価に撮影されたが以前の映画のような関心を惹くことはなかった。エクスプロイテーション映画である『ダークライド/連続ヒッチハイカー殺人事件』は サンフランシスコを舞台にした連続殺人犯の物語で、同作はテッド・バンディとゾディアック事件の犯人からインスピレーションを得たとされている。『ハロウィン』の10月の公開に先立つ8月にジャッロに触発された『アイズ』(脚本・原案:ジョン・カーペンター)、9月に『babysitter in peri』とテレビ映画『ハイスクール・レイプ (Are You in the House Alone?)』が公開され、『アイズ』は700万ドルの予算に対して2000万ドルの収益を上げた。 フランスのヌーヴェルヴァーグの『顔のない眼』(1960)、SFスリラー『ウエストワールド』(1973)、『暗闇にベルが鳴る』(1974)の影響を受けた『ハロウィン』は、シリア系アメリカ人のプロデューサー、ムスタファ・アッカドから提供された30万ドルの制作予算を元にカーペンターが監督、作曲を行い、脚本は当時のガールフレンドでプロデュースパートナーのデブラ・ヒルと共同で執筆した。コストを最小限に抑えるため、撮影場所は削減され短期間で撮影された。ジャネット・リーの娘ジェイミー・リー・カーティスはヒロインのローリー・ストロードに起用され、ベテラン俳優のドナルド・プリースは『サイコ』でジョン・ギャヴィンが演じた人物のオマージュであるサム・ルーミス博士に起用された。『ハロウィン』のオープニングは、姉を殺す6歳の弟の視点から描かれている。これは『ミッドナイトクロス』(1981)や『ファンハウス/惨劇の館』(1981)などの多くの映画で模倣されたシーンである。カーペンターは処女の「ファイナル・ガール」を有利にするために、セックスに積極的な十代の若者たちを犠牲者にする脚本の執筆を拒否しているが、その後の映画製作者は「セックス=死」の標語と思われるものをコピーした。 譜面なしで『ハロウィン』の初期カットを見せたとき、すべての主要なアメリカの映画スタジオは同作を配給することを拒否し、ある役員は怖くなかったと述べている。カーペンターは自分で音楽を制作し、映画はアッカドのコンパス・インターナショナル・ピクチャーズを通じて1978年10月にカンザス市の4ヶ所の劇場で上映された。口コミで映画は予想外の大ヒットとなり1978年11月のシカゴ映画祭の上映作品に選定され、そこで国内の主な批評家が本作を絶賛した。『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』(1990)に記録を更新されるまで、同作は世界で7000万ドル以上の収益を上げ、北米で2000万枚以上のチケットが売れたことで最も収益性の高いインディペンデント映画となっていた。
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