1892年の橋
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1889年(明治22年)9月にまたしても大橋が流されると、現在の位置に鉄の橋が架けられた。1892年(明治25年)8月に竣工した。長さ113.6メートル、幅7.2メートルの3径間トラス橋で、設計は早田喜成による。工費は6万6100円、または4万2200円で、宮城県の県費と国庫補助によった。橋材の錬鉄はベルギーから輸入した。これによって頻繁な流失と架けかえの歴史は終わったが、巨大な鉄のトラスを橋上にめぐらせた新しい橋の威容は、城跡や城門とは調和しなかった。
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1892年の橋
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澱橋は1892年(明治25年)10月に鉄の橋に架け替えられた。同じ年に架け替えられた大橋とともに、ベルギーからの輸入錬鉄で作られたトラス橋である。トラスの上を路面として鉄骨構造を通行人に見せない上路式で、下路式の大橋と対照をなした。橋脚は煉瓦作りで要所を花崗岩で補強したもので、橋面は木の板であった。長さは130メートル、幅5.5メートルあった。工費は8万7900円で、宮城県の県費と国庫補助をあてた。 明治時代に大橋と澱橋は広瀬川の二大鉄橋といわれた。位置は現在の橋のやや上流にあり、左岸側の北詰(位置)は下町段丘のⅠからⅢと段丘崖がつくる複雑な地形となっている角五郎丁東端付近に土盛りして造ったようである。右岸側の南詰(位置)は現在の澱橋南詰の西隣である。現在も両側の橋台や一部の橋脚が残っている。
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